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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 19

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 19

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/1 9:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 思い出の青山
 田中 寿子(たなか としこ)







 青山の空襲で焼け出されてもう六十五年も経ってしまいましたが、忘れられない日となりました。今八十六歳です。私の家は青山六丁目の停留所の角に大きな酒屋(灘屋)があり、その道を入った所でした。レンガの塀で、玄関と庭ポーチが付いていい家でした。父が銀行員で、借りていました。

 昭和二十年の五月、その頃は毎晩のように空襲のサイレンが鳴り、そのたびに震えていました。
 家族は父母、妹二人、弟二人、私の七人で住んでいました。妹たちはよくB29が落とした焼夷弾を消しに行ったのですが、私はこわくて防空壕に入ったり出たりしていました。

 五月二十五日の夜、父は「まだ焼けないから」と言っていましたが、渋谷方面から火の手が上がり危なくなってきたので、五人(弟たちは学童疎開でいませんでした)で手をつなぎ、呼び合って表参道の方へ逃げました。片側は強制疎開のため家が壊されていましたが、火がついて燃えていました。風がすごいし、目も痛く、銀行の傍までやっとでした。着ているものが熱いので防火用水の水を頭から何度もかぶりました。そのうち渋谷方面から馬が墓地を目がけて走って行くのをて、妹が、動物が走って行った道なら大丈夫と言うので、墓地目がけて走りました。墓地の門も火が回っていたので奥へ奥へと逃げのびました。時間は十一時頃だったと思います。

 墓地で夜を明かし、翌日二十六日に走ってきた道を我が家へと戻りました。道路には山積みになった人たちが皆、服は焼かれて蝋人形のようになっていたので、ただ驚いて何も言えませんでした。やっと助かった喜びを感謝しました。亡くなった方々にお悔やみを言いながら家へ着きました。

 我が家は全部焼けて何もありません。庭に、父が大事にしていたクラシックレコードがお皿のように黒こげになっているのを見た時は涙が出て止まりませんでした。隣組のかたを見たらお元気でしたので喜びあいました。そのかたがすぐにお米でご飯を炊いて下さったのでいただきました。

 しばらくして母が大橋方面の叔母の家を思い出してそこまで歩いて行ってみました。叔母の家は焼けないで残っていましたので、一晩畳の上で休みました。翌日は松涛(しょうとう)の母の友達の家までまた歩いて行きました。荷物はリュックにあるだけです。ここは二階家で、四世帯が一緒に過ごしました。この家から母と妹たちは田舎につてがなかったのですが、ただ行って見ました。田舎には食料があると思っても、母の着物を持って行ってじゃが芋やお米に換えてもらいます。私もリュックで買出しに行きました。ここではノミやダニに悩まされました。

 八月十五日の天皇の放送を聞き、やっと戦争が終わり、これで東京へ帰れると喜びました。また松涛の家にしばらく住みました。

 昭和二十三年十一月六日に私は明治神宮で結婚式を挙げました。小田急の祖師谷に住み三人の娘にめぐまれ、元気に過ごしてきました。今は高井戸に家を建て孫八人になり、庭付きで植木、花に囲まれて過ごしています。色々なことがありましたが、これからも戦争をなくすようにして欲しいです。あの時に亡くなられた方々のご冥福を、表参道の銀行に行った時にお祈りしたいと思います。
  
 (赤坂区青山北町六丁目)

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