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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 20

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 20

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/2 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 渋谷区穏田
   一、三丁目
   竹下町






 原宿駅 昭和16年頃 穂積和夫氏 画

 明治39年、日本鉄道の駅として開業。
 昭和20年4月と5月の空襲では駅舎は焼失を免れた。
 表参道口の駅舎は大正14年に竣工した木造建築で、都内で現存する木造の駅舎では最も古い。
 宮廷ホームといわれる乗降場が代々木側にある。








 戦時中の出来事
 佐藤 銀重(さとう ぎんしげ)その1


 小学生時代

 昭和十四年神宮前小学校入学、昭和二十年同国民学校卒業、入学は小学校で卒業は国民学校と変化し、この間上海上陸とか南京陥落とか、ことあるごとに戦意を高揚させるため、表参道で提灯行列を行い隣組(町会の下部組織)を通して動員され参加させられ、戦時色一色であった。印象に残っているのは昭和十八年、小雨降る神宮外苑で開催された、学徒出陣の壮行会を小学校ぐるみで、スタンドから見送ったことである。

 日本は神国だから戦争に絶対負けない、いざというときは神風が吹くから安心しろと、担任の先生は口癖のように言っていた。そうは言っても毎月二日は、学校ぐるみで武運長久を祈って明治神官に参拝に行っていた。そして君達も大人になったら兵隊になって戦争に行って戦うんだと教育を受けていた。従って生ということに執着心は無かった。


 学童疎開

 戦火が進むにつれ、昭和十九年八月、国策で将来の戦闘要員としての学童疎開が始まった。
 疎開は縁故疎開と集団疎開があった。縁故疎開は家族の親戚縁者を頼って疎開する制度で、縁故疎開先が無い場合は集団疎開をすることになる。縁故疎開をした人は、地元の生徒達と一緒に通学し勉強したので、行った先によってはいじめられたという話を聞いたこともある。

 私達の集団疎開は先生・寮母・生徒が一体となってお寺に泊まり、地元の小学校の教室を借りて勉強していたので不自由は無かった。疎開先は静岡県富士郡原田村(現、富士市原田)永明寺で、村長・住職をはじめとした村の方々に大変お世話になった。B29(米軍爆撃機)は空襲の時、グアムから太平洋上を富士山目指して飛来し静岡上空で東京方面と大阪方面に分かれるので、疎開先は飛行機の通り道になっていたので上空では年中空中戦が行われB29墜落を見たこともある。

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