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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 15

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/28 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 空襲の想い出  その2
 十代田 禮子(そしろだ れいこ)

 B29は青山渋谷方面を焼き尽くして飛び去りました。
 長い一夜が明けて、断水していた焼け跡の水道から水が流れ出ていて、焼け跡で拾った錫のコップで皆で水を飲みましたが、皆放心状態でした。幼い弟は泣きもせず母の背中で青白い顔で眠っていましたが無事でした。近所の方達は、崖に横穴を掘って防空壕にした避難所から次々に出て来られ、自分の家の焼け跡をがっかりした表情で見ていました。

 近所の大学生は物干台の上でB29の偵察をしていて焼夷弾の直撃に遭い亡くなられ、ご両親がご遺体を戸板に乗せて運んで来られました。被せた薦(こも)の下から青白い足が見えていました。コンクリートの私の家は、まるで竈(かまど)のように燃えてすべて灰になりました。床は焼け落ち、鉄筋がはみ出して、灰は三十センチ位積もって、歩くと足が埋まりました。祖父のたくさんの書籍、父の収集したレコードは円形の灰の筒となり、私が弾いていたピアノも残骸のみで、食器瀬戸物は熱で互いにくっついていましたし、銀製の物等は僅かに形を残していました。どれ位の高温だったのでしょうか。火の廻りの弱かった所からは父の愛用のフルート、ローライコードのカメラ、シンガーのミシンは形を残していて、戦後修理して母の役に立ちました。

 私達は一時親戚に身を寄せ、父は焼けビルの後始末をし、行き場のないご近所の方達の雨露しのぐ場所としたので、何世帯かの方が入って来られました。私達は疎開する荷物の発送が遅れて車庫に山積みのまま焼けてしまい無一物になりましたが、ご近所の方達は畳やふとん、鍋、釜、所帯道具をたくさん持って居られたので、その生活力に驚きました。

 隣組には俳優志望の青年が居ておばあさんと二人暮らし、空襲警報と同時におばあさんをいち早く背負って逃げて東京女学館の高い塀を乗り越えて芝生の校庭に飛び降りて避難したとのこと。おばあさんは「もう恐ろしくて恐ろしくて」と涙を拭いながら笑って話していましたし、劇作家の方は、「この体験は何としても劇にして後世に残します」と言って居られました。皆が生きていたという実感を同じに味わった時でした。

 住む所を失った私達、祖父母は北海道の親戚、私達は北軽井沢の夏の別荘へ、父は勤めのために焼け跡に残りました。空襲は各地で続いています。私達は一番列車に乗るために、ごった返す上野駅で空襲を恐れながら夜明かしをして、やっと一番列車で座ることができました。横川近くになった頃、車掌から窓の鎧戸を閉めるよう指示があり、何事かと思ったところ、戦闘機が何機か置いてあるので見せないようにするためだったのです。

 疲れきって草軽電鉄に乗り換えて、戦争が始まる前に毎年夏休みを過ごした北軽井沢に着きました。五月末の山つつじの美しさ、懐かしい浅間山や緑に包まれた山々を見た時、こんなに平和な所があったのかとしみじみ思いました。それからは戦災に遭って無一物となった家族のきびしい疎開生活が始まります。

 (赤坂区青山高樹町)

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