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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 12

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 12

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/25 8:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  AMさんの話

 昭和十九年の夏、私は青南国民学校の五年生で、学童疎開が始まっていました。親戚などに疎開できる子どもは縁故疎開に、行く所のない子どもは学校から集団疎開をしました。私の両親は新潟県長岡の出身でしたので、長岡の叔母の所に二年生の従妹と一緒に縁故疎開をしました。東京と違ってまだ空襲もありませんでしたが、畑や田んぼでイナゴ取りや薪運び、何十年ぶりの大雪のため雪おろしを何回もするなどの生活で、勉強はほとんどしなかったような気がします。

 私は青山での空襲体験はありませんが、長岡での体験を少しお話したいと思います。花火で有名な長岡市です。まだ子どもでしたし、それはそれは怖い思いをしました。

 空襲の四日ほど前、敵機が来てビラがたくさん撒かれましたが、そのビラには爆撃予定都市としていくつかの都市といっしょに長岡も書かれていました。それで叔母たちから東京の私の両親に、田舎も危なくなってきたので、子どもを引き取ってほしいとの話があったようです。その頃は汽車の切符がなかなか買えず、やっと買えたのが八月一日、長岡の空襲の日でした。

 空襲警報が鳴りB29が焼夷弾を落とし始めたのは夜十時半ごろでした。本所、深川で焼け出されたご夫婦が私たちの二階に住んでいてそのかたに連れられて逃げました。外へ出た時はもう周りは真っ赤に燃えていました。焼夷弾がキーンという音とパラパラという音で落ちてくる中を、火のない所、火のない所へと行き、カボチャ畠を通った時運動靴が脱げて裸足になって逃げました。ようやく辿り着いた信濃川の土手の穴に入りましたが、穴の傍まで火が迫り熱くて我慢できず、従妹と私は震えて抱き合っていました。信濃川には火のついた焼夷弾が無数に流れ、川の向こう側は火の海でした。飛行機が引き上げ、火を消してもらって穴から抜け出し町の方へ戻りましたが、町はまだ火の海で蔵が音を立てて崩れていました。親戚の家は燃えてしまいましたが、皆無事で、手を取り合って感謝しました。

 父と姉は八月二日の夜長岡に着き、まだ駅の周りは燃えていたようです。真っ暗だった疎開先には家はなく、焼け残った家に泊めていただき、真っ里になった方々があちらこちら横たわった間を手を合わせて通り、親戚の人に出会って私たちが助かったことを知ったようです。三日の夕方父と姉に逢い、その夜長岡を後にして四日の朝東京に着き、母に逢って泣いて喜びました。そして十五日終戦、めまぐるしい年でした。ただただ命が助かったという大切さを噛み締めています。

 長岡では戦争中中止していた花火大会の復興祭を二十一年八月一日に行い、二十二年に花火の復活、二十三年から一日を戦災殉難者慰霊の日とし、二日、三日を花火大会の日としました。亡くなられた多くの方々のご冥福を心から祈り、また町の復興を願っているとのことです。

 若い方々に戦争とはどんなに惨いものであるか、ぜひ読んでいただき、考えていただければ有難いと思います。


編注‥長岡空襲
 昭和二十年八月一日夜間、B29一二六機が長岡市を空襲。死者一一四三名*、重傷者三五〇名、羅災者六万〇五九九人、焼失家屋一万五一二三戸。市街地の八〇%が焦土と化した。長岡市に投下された焼夷弾の量は九二五トン(米国戦略爆撃調査団報告書)。この数字は三月十日の東京大空襲の半分以上に当たる。面積当たりの焼夷弾の量の密度は東京よりはるかに濃い。人口十万人以下の空襲都市の千人当たりの死亡者が平均五・八人とすると、長岡市は約三倍の死者ということになる。(「日本の空襲」 日本の空襲編集委員会編 三省堂)

 * 「こんな日々があった!戦争の記録-直江津空襲と平和を考える会発行」 では一四五七名。

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