@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

続 表参道が燃えた日 (抜粋) 14

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 14

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/8/27 6:32
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 空襲の想い出  その1
 十代田 禮子(そしろだ れいこ)






 昭和十九年後半から二十年にかけて、空襲は東京のどこかで毎日のようにありました。木造家屋は強制疎開で取り壊されて、近所の方達は親戚知人を頼って東京を離れていきました。戦況は厳しくなり、木造の私の家も壊されて、関東大震災後に建築した鉄筋コンクリート三階建ての隣の祖父母の家に同居となりました。家族は祖父母、両親、大阪陸軍幼年学校在学の見、中二の私、中一の妹、小四の弟、二歳の弟、九人でしたが、兄と学童疎開中の弟はいませんでした。三月十日の下町大空襲があっても、何故か家はコンクリートなので爆弾でも落ちない限り大丈夫という妙な安心感があり、早く疎開をと奨められても祖父は法政大学総長、貴族院議員の要職にあったので頑として動こうとしませんでした。
                        
 五月になり、二十三日、二十四日と近くが焼け、笄(こうがい)町の一部や高樹(たかぎ)町市場が焼けていよいよ空襲が近づいたという思いはありましたが、家族は日常の生活をするのが精一杯で、不安はあっても切迫感はありませんでした。しかし、二十五日の空襲は夜十時過ぎという時間で、連日の空襲に疲れていた矢先に始まりました。父が「今日は危ないぞ」と言うとおり空襲警報が鳴ると同時にB29は上空に飛来しました。空はすでに赤く燃えて、銀色に機体を輝かせたB29の大編隊はまるで烏の大群のように空を覆い、大変不気味でした。サーチライトの光、爆音、尾翼から吐き出されるたくさんの焼夷弾はザーツという音と共に雷雨のように降って来て地面にたたきつけられて、家の外はいっぺんにパァーツと明るくなりました。「落ちたぞ」という父の大声、家族はいつも入っていた地下室の防空壕には恐ろしくて入らずに家の中でウロウロしていました。

 次にB29が落とした焼夷弾は三階の屋根を三発が突き破り、一階台所の網入りガラスも破って地下壕の入口の戸棚に落ちてすぐに燃え上がりました。私は消そうとして流しにあった大きなバケツの水をかけたので焔が静まったように見えましたが、水道は夜は断水で戸棚の反対側に燃え上がった火は地下壕の入口に向かって燃え上がっていました。外に出た父が「早く家から出て来なさい」と大声で叫ぶので、祖父、怖がる祖母の手を引いて私、幼い弟を背負った母、妹、と急いで外に出ました。玄関の外の三和土(たたき)は落ちた焼夷弾があちこちで燃えていました。エレクトロンという焼夷弾で飛び散った火花から燃え始める新兵器だったのです。

 すでに前の二階家は火の柱で、道路は火の海でした。北の青山墓地方面、西の明治神宮方面も家が燃えていて、東の日赤、東京女学館の屋根に物凄い音で焼夷弾が落ちて、赤い焔が見えていました。南の渋谷方面からは、折からの南風に煽られて火の粉と煙が吹いて来て、とても行かれません。仕方なく強制疎開跡の空き地の土蔵の陰が火の粉と煙を避ける唯一の場所だったので、父の指示でそこに皆でうずくまって火の鎮まるのを待ちました。その間、コンクリートの家の中は赤や黄色、青、様々な色の焔が大きく渦巻いているのが見えて、時々何かが炸裂する音がして
          
激しく燃え上がったり、鎮(しず)まったとみるとまた燃える状態が続いて、恐ろしいというよりも夢を見ているような呆然とした気持ちでいました。

 衣服には火の粉が飛んでくるので揉み消し接み消ししていましたが、その熱かったこと。強い南風で煙も吹き付けてくるので、目もひどく痛みました。「煙で目を傷めるから伏せていなさい」。父の言葉で、皆じっと耐えていました。その時、知らない男の方がバケツに防火用水の水を汲んできて下さったのです。防空壕から出て様子を見に来られたのでしょう。私達一家にとってパケツ一杯の水がどれだけありがたかったことか。手拭いを浸して皆で目を冷やし、覆っていました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

  条件検索へ