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特攻インタビュー(第5回)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/19 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆牛島満陸軍大将と大田実海軍少将の思い出(1)

 --------マルレ艇にも被害があったのですか?

 皆本‥いえ、軍の特攻艇はみんな洞窟の中でしたから。基地隊だけでなく特攻隊の乗組員まで、骨、一生懸命ハンマーで洞窟を作りました。だから、舟艇に被害はなかったです。

 ちょっと、沖縄方面とか全軍関係のことに触れたいと思います。沖縄本島には第九師団、第二四師団、第六二師団、独立混成第四四旅団が展開していました。さっき言いました陸自の幹部学校でのことですが、「教官、質問します。昔の陸軍には優秀な参謀や司令官がおられたのに、何で小刻みに満州とか中国におる師団を沖縄本島に展開したんですか?」という質問があったんです。沖縄では6回、配備変更をやっています。「今の教育で、こんな配備変更をやったらバツがつきますけど、どうしてですか?」と聞くから、「君らが勉強しようとしているのは、今で言う演習・兵棋演習と違うんだ」と言いました。1個師団が派遣されて、その時に敵が来たら、その1個師団で戦わにゃいかん。もう1個師団が派遣されたら、地域を分担して2個師団で戦う。いつ敵が来るかは、来てみないと分からないということで、部隊が派遣されるたびに配備を変更していました。

 そして、沖縄に補充する陸軍部隊が全部そろったという時に、第九師団を沖縄から転用するという問題が起きました。フィリピン・レイテ島が危ないから、日露戦争で旅順要塞の東鶏冠山を陥落させて以来、戦史に燦然と輝く石川県金沢編成の第九師団に最大の期待を持っていたんです。その発令が昭和19年11月末です。船で台湾まで行きましたが、そこから先に行けなくなって、結果的に第九師団はそれで助かったわけです。

 第九師団の転用は、我々にも影響を及ぼしました。我々の海上挺進第三戦隊は、戦隊長以下104名。これは全部突撃する。まあ航空で言うならば、全部、特攻機に乗るパイロットです。それを支えるのが900名の基地大隊で、すべてやってくれると安心していました。ところが、慶良間に配備されていた三個戦隊すべてに、基地大隊を一部残して沖縄本島に転用せよと命令が来ました。基地大隊を独立歩兵大隊に改編して、独立混成旅団の隷下に入れるということなんです。私たちは、「何だ!大本営はバカじゃないか」と憤りました。今頃になって一個師団を抜いて、そして基地大隊をよそに持って行くと。しかし、いつまでも、そんな事を言っておれませんからね。基地大隊の隊員は我々と手を振り合って、「長い間、お世話になりました」と言いました。基地大隊長の少佐なんか、「我々は沖縄本島に行って戦うが、島の方も、ひとつ最後まで頑張って頂くように祈る」と言って去って行きました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/20 8:02
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆牛島満陸軍大将と大田実海軍少将の思い出(2)

 それで、今度は昭和20年3月10日。今の方には解りにくいが陸軍記念日。日露戦争の奉天会戦に勝っためでたい日です。その3月10日に沖縄本島の県立高等女学校の講堂で、陸海軍の水上特攻・水中特攻を集めて兵棋演習やるという命令が来ました。ただし、敵の接近が近いようだから戦隊長は残留せよ。代理者を出せということで、中隊長が3人おりましたが、戦隊長が私に「皆本、お前が兵棋演習に行け」ということで行きました。陸軍の方は7個海上挺進戦隊があって、沖縄本島に4個、慶良間に3個と分かれていました。海軍の方は第二七魚雷艇隊、第二二・第四二震洋隊。それから、第二蛟竜隊という特殊潜航艇を改造した部隊がありました。

 兵棋演習が終わって、牛島軍司令官閣下が「いよいよ、これからだ。もう大体皆さん、よく体制ができているようだ。後、ひとつ元気で頑張ってもらいたい」ということで一席設けられました。挨拶される時、牛島閣下は、海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田実少将や連隊長なんかに、ちょっと会釈しながら、「私事に及びますが、私が士官学校長であった時、士官候補生として士官学校におった人、立って下さい」と言うので、私を入れて3人立ちました。そしたら一人一人を、こうやって見られて……。千何百という生徒がおるのに、顔を覚えておられる訳はないけれど、ハンカチを出されて目頭を拭かれましてね。薩摩弁入りで「ようきやった! 有り難うございました!宜しくお願いします!」と。もう皆、大田司令官も大変感動されました。牛島さんは薩摩隼人で……大体九州は焼酎が……私も焼酎をやりますよ。軍司令官閣下はちょっと口を付けられたら、全然、お呑みになりませんで「もう、年寄りはいない方がいいだろう」と帰られました。

 そしたら、中将になりたての長勇参謀長が威張りこくっているから「落としてやろう」ということで、第二七魚雷艇隊長の白石海軍大尉に「白石さん。見るところ、あんたが一番先任のようだから、参謀長の胴上げやろうじゃないか。"イチ・二ィ・サン″で、"サン〟と言った時に手を引いて下に落とそう」と言って、私が発案してやりました(笑)。それで、"ドサーッ!〟と落ちたら、長参謀長は体が大きくて、体重も100キロ近くあったんじゃないですか?〝ダダーツ!〟といって落ちましたら、参謀長が立ち上がって「貴様-つー!」って言って、こうやって握り拳を握って追いかけようとしましたが「それくらいの元気があって宜しい!」だけですみました。

 その後、私は、大田司令官のところにお流れ頂戴に行ったら3杯くらい頂きましたね。「おい、皆本。いい校長に仕えたなあ」と大田司令官が言いました。大田閣下のご三男・落合唆(正しくは田編)さんは海上自衛隊に入り、湾岸戦争後、最初のペルシャ湾掃海派遣部隊の指揮官になりました。私は彼を知っているものですから、最後の寄港地の総領事館宛てに激励の電報を打ちました。そしたら、落合から"艦上にて〟というお礼の手紙が来ました。今でもそれを持っています。また、落合が海上幕僚監部に来た時、「落合、新宿の店で君に返盃をしたい。君の親父さんから3杯頂いたから、返盃したいから来い」と呼んで、それで、彼の同期生で陸上幕僚監部に来ていた一等陸佐に合わしてやったりしました。そういう関係がございました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/21 7:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆沖縄の戦い始まる

 --------兵棋演習の後、しばらくは平穏な状態が続いたのですか?

 皆本‥その頃の状況を言いますと、基地隊の哨戒兵が松の木の枝に腰掛を作って対空監視をやってます。洋上警戒も兼ねていましたが、私は「敵・彼我、識別の必要はない。飛んでいる飛行機は全部〝敵機〟だから、敵機何機、どの方向だけ言え」という指示を出していました。事実、沖縄の戦場では友軍機が飛んでいるところを、一度も見たことはありません。

 --------昭和20年3月後半から、陸海軍の特攻機が沖縄沖に出撃していますが。

 皆本‥渡嘉敷からは見えませんでした。少し離れていましたからね。話は前後しますが、財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(現・公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会)で鹿児島あたりの出発基地で慰霊祭をやっているのは非常に有り難いが、沖縄県の西に一番多く特攻機が突入し、あそこで戦死しておられるから、あそこでひとつ、慰霊祭をやろうじゃないかと私が提案したことがあります。そしたら賛同を得ましてね。昭和史研究所長の中村粲先生や最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将のお嬢さんとかが慰霊祭に来てくれました。その晩、那覇で涙を流しながら「皆本さん、父も喜んでますよ。父は、最後の連合艦隊司令長官で、沖縄戦に直接、加入しなかったけれど、最大の感銘を抱いていました(注1)」と言っていました。やはり、なんですね。離れた距離の沖縄本島周辺の戦闘は、慶良間の近くまで来て華々しい空中戦になるということはあり得ないものです。あの途中で多くの方が散華されました。戦艦「大和」が奄美大島までしか行けなかったというくらいですから。我々の島からは、我が陸海軍の特攻機が攻撃する場面というのを見ることが出来る距離じゃなかったんです。

 --------アメリカ軍は沖縄本島の前に慶良間諸島に上陸しましたね。

 皆本‥その前、3月23日のことですが、忘れもしません。茅茸の兵舎で、12時になったから全員集まって昼食をとろうと箸をとった時、ワーンという艦載機特有の爆音がしました。「おい!昼飯は後だ!」と言って外に出た。それが戦闘開始です。アメリカ・テキサス州のシンポジウムで、あるアメリカの海軍さんが、世界で一番時間を厳守しているのは日本の軍隊で、12時になると必ず飯を始める。だから、警戒心が薄いところを狙って襲撃してきたんです。

 それで、大規模な艦載機の空襲を受けまして、焼夷弾などで村落や山林が火災をおこし、11名が戦死、16名が負傷しました。我々には対空火器はほとんどありませんからね。なすがままにやられました。翌3月24日、夜明けと共に敵艦載機が来襲しました。これは大変だ!というので、赤松戦隊長が基地隊の田所秀彦中尉に村落警備を命じました。

 25日になりましたら巡洋艦・駆逐艦15隻が慶良間海峡に侵入しました。そして艦砲射撃。我々の基地隊と戦隊は火砲を持っていません。小銃で撃ったって意味ありませんから、敵艦艇に対する反撃の方法は全くありませんでした。その日、3月25日に各中隊が出撃準備を整えました。20時、各中隊は三分の一の「迂水(へんすい)」を下令し、船舶団に報告しました。「迂水」と言うのは水に浮かべることです。ただ、阿波連という南の村落に配備していた第一中隊は「湾内に敵駆逐艦が侵入したため、浸水は困難だ」と報告してきました。21時30分、戦闘準備を視察中だった大町茂・第十一船舶団長が敵中突破して、慶良間の阿嘉島から渡嘉敷島に来られました。考えますと、アメリカ軍が上陸しようという時期に、船舶団全般の統括指揮官である船舶団長が作戦準備状況を視察に来るということ自体、情勢の捉え方がまずかったなという気がします。やはり情報不足だったということです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/22 8:49
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆マルレ自沈せよ

 皆本‥それで、翌日の3月26日になると迂水出撃が困難になりました。さっき言いましたように、慶良間海峡の入り口には15~16隻の駆逐艦や巡洋艦が来て遊弋していますから、特攻艇が行けば猛烈な火砲でやられるということなんですね。それで船舶団長は軍司令部の了解を得まして、企図秘匿のために特攻艇を自沈せよ、沈めろと……。

 特攻艇の出撃・運用の責任者は軍司令官以上になるんです。やはり、特殊な兵器ですから、他と違って、近くの師団長などに出撃の権限がないんですね。船舶団長も自分が発令できないから、軍司令部の許可を頂きました。敵に察知されたり対応されたら困るということで自沈を命じました。大町船舶団長が来られて、戦隊長以下を集めて命令される時に、私もそこにおりました。「これでは出撃困難だ。沖縄本島に4個戦隊がおる。これの状況を察知されないように全部沈めろ」と言われた。

 私は小隊長に合図し、みんな集まっている洞窟から外に出まして「小隊長、来い。俺が責任を持つから沈めなくていい艇があれば残せ。その責任は俺が持つ。貴様らには責任は持たせん。解ったか!」と言いました。小隊長が「大丈夫ですか?」と聞くので「俺が言っているんだ。俺は海上挺進戦隊の、宇品の船舶司令官のところで検討してやっているから一番詳しく知っている。とにかく沈められないのは残せ」と言いましてね……。慶良間の渡嘉敷付近、阿波連の外の湾はエーゲ海に並ぶ透明度の高い海です。戦後、慰霊祭に行って私も泳いでみましたらね。40mくらいのところが手に取るように見えて、澄み切っているんですよ。瀬戸内とかこの辺の海岸と違う。だから、飛行機から見れば「あ、沈めている」と判るなということでありました(笑)。

 船舶団長は「自分も早く本島の那覇の軍司令部に帰らないと、全船舶部隊の指揮がとれないから帰りたい」ということで、日露戦争の例を引きまして、バルチック艦隊が日本海に向かう時に大島の人達が、敵艦発見!という訳で舟を漕いで、無線局までたどり着いて「ロシア艦隊発見-」と言って過労で皆、そこで倒れたと。まあ、死にはしなかった。そんな例があるから、戦隊長の赤松さんへ 「とにかく赤松、村長に言って、丸木舟があればそれで俺は乗って帰る」と言うんですが、さっき言いました敵の空襲で、海岸にあった船は1隻も残さず沈められていました。さて、どうするかということで、そこで私が「船舶団長、命令違反をやった皆本ですが、報告してようございますか?」と言ったら「やれ」と。「私は私の責任で、艇2隻だけ自沈させないで洞窟に引き上げております」って言ったら「おい皆本、有り難う!」 って言われました(笑)。普通だったら軍命令に違反で怒られるところです。それでとにかく、これから出発するということで、250kgの爆装を全部外し、一番艇に大町団長、二番艇に着いてきた幕僚が乗ることになりました。一番艇の操縦は、私の第二小隊長だった中島一郎少尉でした。戦後、アメリカ軍の戦略爆撃調査団の資料を見ますと、沖縄に展開したアメリカ軍艦艇は1800隻なんです。東シナ海の慶良間と沖縄本島の間はとにかくもう、船が本当に多い。そこを敵中突破するということでした。日が暮れて出発しましたが、当時の私の報告では「船舶団長・大町少将、中島少尉、消息を絶った」とあります。二番艇は途中で、振動で亀裂が入って浸水しましてね。舟が沈むから、泳いでまた島に来たわけです。それが3月26日でした。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/25 8:26
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏
 
 ◆予想外の陸上戦、そして渡嘉敷島民の集団自決

 皆本‥それで、3月27日。朝6時頃から、精強・アメリカ歩兵第77師団の歩兵第24連隊が我々の島に上陸した訳です。陸上戦闘になるのに、戦隊長や特攻艇乗組員が持っている装備は拳銃と弾が6発。手榴弾、あとは軍刀でしょう。それ以外ないもんですから、陸上戦闘やるって言ったって何もできない。それに海上に出撃するのが我々の基本任務ですから、防御のための陣地なんてないんです。

 私は、主力を後方に下げてくださいと申し出ました。「配属小隊30名を私の指揮下に入れてください。この渡嘉志久(渡嘉敷島の海峡側の入江の地名)で、主力が後に下がる援護のため、敵に対する抑止戦闘をやる」と戦隊長に進言しました。で、やりましたら、果たせるかな、敵が上陸しました。配属小隊が持っている軽機関銃は弾が110発位しかない。それで、日本の場合、弾倉に30発ずつ入っていました。30発撃てば、また入れ替える。詰め替えにゃいかん。ところがアメリカは、ナイロンのベルトに弾がつながっていて、引き金を引くと250発出るんです。そんな相手が上がってきたでしょ。戦車もおりました。

 銃撃戦が始まり、とにかく、こりゃ大変だと。陣地がないもんですからね。地べたを這い回って敵を迎えた。召集を受けた兵隊さんなんか怯んでしまって、どうしていいか解らない。先任下士官が立ち上がって、若い召集兵に「貴様ら! いいか、俺はノモンハン戦の生き残りだ。戦の仕方、俺が教えるから、俺に習え!」と言って立った途端、パパパンって4発か5発受けまして即死です。それから、愛媛県の農業学校の先生から召集された高塚春次郎少尉も戦死。30分くらいでもう三分の一が戦死です。戦隊主力は夜のうちから後退しているから、その援護はできただろうということで、とにかく俺について来いと言って、大雨の中、手探りであちこち行きましてね。それで3月28日、やっと主力がいる所にたどり着きました。

 同じ28日の14時頃、上陸したアメリカ軍の迫撃砲の攻撃が職烈で、一日中、北方の谷地や谷間に避難していた島民は、もう限界を感じたんでしょうね。まあ、あの状態でしたら、もうとにかく、これは生きていけんということで。あの頃は、一億線特攻という国民感情もありましたから。それで、召集を受けた防衛隊員に渡してあった手相弾とかを使って、そこで315名の方が本当に可哀想にも集団自決して果てられました。

 部隊の方は、配属小隊が持っている少数の火器で島の守備をやりましたが、アメリカ軍が伊江島攻略に向いましたので救われました。アメリカ軍は慶良間諸島をある程度制圧したら、伊江島の飛行場を占領するという目的だったようです。伊江島で有名なのが従軍記者のアニー・パイル。彼は日本軍の銃撃で死にました。昭和63年、アメリカ空軍の在郷軍人会の招待があって、統幕議長やった竹田五郎さんが「皆本、お前は空軍じゃないけど、アメリカにも行っとったから一緒に行こうや」という訳で同行しました。そしたら、ハワイの陸軍墓地でアニー・パイル記者と、そからスペース・シャトルが途中で爆発、殉職したエリソン・オニヅカ中佐(注2)、あのお二人が、片方は十字架を刻んだ、片方は仏教の法輪を刻んで、お二方並んで墓がありました。「皆さん、此処に来て参ってくれ」と。

 アメリカでシンポジウムをやって、私らはアメリカによって救われたと言ったら、向こうは笑いましてね(笑)。慶良間を巡洋艦とか駆逐艦で閉鎖しているから舟は出せない。戦闘能力も乏しい我々でしたが、77師団を伊江島に向かわせたことで救われました。その後に来たのは、ただ警戒しているくらいでした。こちらも反撃する力はありませんでした。戦隊長が「皆本、敵情をひとつ調べてくれんか」と言うので、夜間、配属小隊の生き残りの兵隊3人を連れて行きましたら、兵隊が「中隊長! 何か書類がここに落ちています」「よし! 貴様、落とさんように持ってこい」と言って、途中で洞窟に入って蝋燭をつけて見ましたらね、表紙の剥げたハイスクールの代数の本なんですよ。私は「はあー、この戦は俺の負けだ。我々が戦地に行く時は、東洋流の国士気取りで〝風粛粛として易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず〟……。

 ところがこの若い兵隊さんは、ハイスクール在学中か何か知らんが、教科書を戦場に持って来ている。で、戦の合間に勉強を続けている」と思いました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/27 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆二ミッツ元帥からの贈り物

 皆本‥それと、5月の中旬頃ですか、大型駆逐艦が来ました。こちらに火砲がないから、向こうは悠々たるもんです。で、大型駆逐艦が入ってきたから、我々のところを艦砲射撃で制圧するんじゃないかと思っていましたら、流暢な日本語で「日本の皆さん、薬品ないでしょう。衛生材料も尽きたと思う。ニミッツ太平洋方面最高指揮官の命にょり、海岸に置いていきます。銃砲撃はいたしません」と放送するんです。それで兵隊に「よし、向こうが置いていくならば、それを取りに行こうじやないか」と言ったら、ある下士官が「中隊長殿、中隊長殿は人が良いから、すぐそれに乗る癖がある」と言うから、私は「馬鹿野郎! あのアナウンスは、戦う者のお互いの友情だと思う」と。そしたら、立派な箱入りの医薬品と衛生材料がありました。それを担がせて持って帰りました。村民の方も負傷している兵隊もどれだけ救われたか。これも、シンポジウムで言いましたら、大変、喜んで頂けましたね。ま、そういうことがありました。

 --------アメリカ軍が伊江島に転進した後、渡嘉敷島で激しい戦いは起きなかったのですか?

 皆本‥アメリカ軍も、部隊の一部をもって来て、途中で射撃なんかしましたが、真面目な戦闘行動は、向こうはとらなかったんです。

 --------そうすると、終戦まで島でじっとしていたという感じになるのですか?

 皆本‥はい。ただ、食料なんかがほとんどなくなりましてね。ミニッツ元帥から医薬品を貰う頃、大阪帝大の助教授をやっておられた浮田堅太郎軍医少尉が戦死して、たった一人の軍医がいなくなって困りました。その間に病気で亡くなったのもおりますが、ま、最後まで持ちこたえました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/28 9:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆終戦

 皆本‥我々の終戦は8月23日でした。無線機のバッテリーもあがるし、8月15日に天皇陛下のご命令で終戦になったという事はわかりませんでしたが、飛んでいるアメリカ軍の飛行機も銃撃せず、日本降伏の伝単(ビラ)を投下しました。どうもおかしいということで戦隊長と相談して、国際法に従って白旗と日本の日章旗を持って、木林明中尉がアメリカ歩兵第24連隊長・カンノリー中佐の所に行きましたら、もう終戦になっているということで、それが8月19日でしたかね。それで、8月23日に兵器とか軍刀なんかを向こうに渡しました。そしたら、カンノリー連隊長がタバコとキヤンディを持たせてくれました。戦場で戦うけど、やっぱり、お互いの男の友情があるなということでした。

 --------その後は、アメリカ軍の捕虜に?

 皆本‥はい。向こうは紳士的にやってくれました。沖縄本島に収容所をアメリカが作りましてね、そこで収容所生活を送りました。戦友が戦死すると火葬できなから見えないように指を切って、ちょっと火をおこしてお骨にして、ガーゼに包んで軍服の裏に縫い込んでね。私も4人か5人の遺骨を持っていました。帰国の時は、それを持って復員局に提出しました。

 戦いが始まる前、昭和19年10月の初めですか、海岸を巡察しとった兵隊が「中隊長殿、海軍さんらしい、片足が切れてる死体が漂着しました。どうしますか」と言うから「よし、俺が行く」というんで見ましたら、砲弾か何かで片足が切れていました。そして「舞水三四四」と。所属はどこか、海軍じゃないから判りませんが、私の部下に、久保慧観という浄土真宗本願寺派の広島のお寺の長男がいました。彼がおるから、今から火葬するから各部隊集めろ、というわけでやりましてね。その遺骨も、私が軍服に入れて復員局に持参しました。その後、しばらくして、金沢の佐藤さんというご婦人から「私の主人は水雷艇『真鶴』に乗っていましたが撃沈されて、私の主人だけ遺骨が届きました。これは、皆本中隊長さんのおかげです」と連絡があって。非常に嬉しかったですね。わあ、良かったなと思いました。

 --------海上挺進隊第三戦隊では、何名くらい戦死されたのですか?

 皆本‥私らのところは少なかったですよ。ただ、私も手を負傷しましたね。
 浮田軍医に「先生、麻酔剤はあるんですか?」と聞いたら「もう、ほとんどありません」というので、「じゃあ、分かりました。困った人に使って下さい」って。で、私の負傷の手術・縫合は麻酔なしでやると(笑)。やりましたがね。負傷する時は瞬間的ですが、縫うとなると痛い。だけど、麻酔なしでやると言った男一匹、「痛い」とは死んでも言う訳にはいかん!という訳で、兵隊に「もうちょっと抑えろ」と。

 そしたら、若山という衛生曹長が「中隊長殿、麻酔なしで手術した方が、治りが早いです」と言ってくれました。復員しました時も、負傷者の手続きをすれば、傷痍軍人の手当があるけど、これくらいの事でもらう立場じゃないと。とにかく、沖縄戦であれだけ苦労しておるから、曲がりませんでね、左手。後遺症が残ってますからね。はい。

 --------終戦まで、沖縄本島との連絡は全くなかったのですか?

 皆本‥はい、最後はそうです。ただ、3月23日ですか、どうも様子がおかしいから、戦隊長に相談して軍司令部に打電したんです。そしたら「甲号戦備に準じて行動すべし」と。甲乙の甲というのは「いよいよ作戦開始」の意味です。だから、私の認識では「甲号発令」じ.やなくて、「甲号戦備に準じて行動せよ」が最後の戦になってしまったと。はい。

 --------折角の「マルレ」が自沈させられたことは、やはり残念でしたか?

 皆本‥これはやむを得ないですよ、あの状況ではね。あれだけ駆逐艦が遊弋して、海峡を封鎖しておれば出られないですよね。こちらも巡洋艦や駆逐艦が護衛しておれば別ですけど。出て行ったら、全部すぐに・・・。こちらは、ベニヤ板製でしょう。火砲はない。これはもう、すぐにやられると‥・。

 --------「マルレ」は生還することが前提でしたが、実戦では体当たりするという気持ちでしたか?

 皆本‥はい。とてもですね、こちらが余程、シチュエーションが良い場合は別だけど、あの戦場でアメリカが、あれだけの艦艇でやってる場合にはとても生きて還る事は不可能ですね。

 --------特攻だと始めから覚悟されて?

 皆本‥ま、やっぱりですね。やっぱり特攻なんですね。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/4/29 6:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆特攻の背景(1)

 --------特攻作戦が、あの戦争で始まって、その後、終戦まで続けられた背景というのは何だったとお考えですか?

 皆本‥一つは沖縄戦の特色ですね。大体日本は「国土戦」という経験がないんです。私の生まれた熊本の菊池は、熊本に近いから、私の生まれた家の土蔵に官軍の弾薬箱を預かっていました。で、西南の役で薩軍が熊本城に攻めてくると、農家の人は、危ないから竹山に米俵を積んでその中で避難したという。それ以外は外征作戦だけでしょ。それで、ヨーロッパを見ますとね。ヨーロッパはたとえば、イギリスはあまりないが、フランスとかドイツとかイタリアとか、あの辺はもう国境を接しているし、国土戦の経験が豊富なんです。ところが、日本でそれが全くなくつて、元冠で日本に攻めて来ましたね。この時に攻められたくらいでしょう。全く国土戦の経験がなかったっていうこと。もう一つの特徴は、沖縄戦は陸軍と海軍との戦いであると。陸軍同士の戦は、日清・日露以来、満洲とか中国などで経験を踏んでいるけど、海軍と陸軍の戦いというのは全く様式が違う。その認識が無かった。

 それから日米の戦力差。アメリカが日本に来てまとめた戦略爆撃調査団報告書というのがあります。日本は負けて、もう全部オープンにせざるを得ないから全部調べ上げて、実によくまとめてあります。これを見ますと、日本とアメリカの戦力比が違いまして、特に沖縄戦の海軍力比較を見ますと、日本で沖縄戦に参加したのは戦艦「大和」、それから巡洋艦「矢矧」、それからあと駆逐艦8隻。アメリカは戦艦15隻、航空母艦が特設空母を入れて18隻。巡洋艦が26隻、駆逐艦が265隻、それから潜水艦が130隻です。さっきも言いましたが、豊後水道の入り口で潜水艦が網を張っていました。その他に、最新鋭の艦載機が900機。で、沖縄に出撃した日本の陸海軍特攻機が2393機。昭和20年1月の日米保有の海軍機を見ますと、日本が6659機、アメリカは何と4万893機で、その上、向こうの方が性能が抜群に良い。集積弾薬が、日本は一会戦分で1万5000トン。アメリカは201万6000トンです。それで陸軍兵力は、日本は第九師団を転用したから2個師団、約10万ですね。アメリカは海兵隊を入れて上陸したのが32万。こういう状況になっとります。

 それから沖縄戦の場合、戦略的意義が陸海軍で一致していなかったんです。当初、第三二軍は航空基地の設定を主任務とし、それでいいと判断した。戦いはフィリピンとか他でやる。沖縄までは来ないだろうという捷二号作戦とした。捷一号というのがフィリピン方面。捷二号が沖縄の連絡圏域。捷三号が北海道を除いた日本本土。捷四号が北東、千島・樺太付近。一号から四号の捷号作戦とし、そのうち昭和19年7月に、大本営陸軍部が本土決戦、大本営海軍部が天号航空作戦と決し、第三二軍は戦略持久とした。さっき言いましたように、飛行基地あたりを警備しておればいいというような発想でやっていた。

 さっき言いました日米戦力で、海軍戦力を見ますとね。昭和16年2月、大東亜戦争が始まります前、日本が持っている海軍機が3116機、アメリカが3600機です。まだ戦が始まってないこの頃はほとんど同じ位ですね。昭和17年1月∵、、ツドゥエー作戦の境になると、日本が60に対してアメリカが100という比率です。昭和20年1月には、先程触れました16対100の違いがありました。そして、日本海軍の艦艇の増減は、昭和19年、新規就役が45万トン、損耗が100万トンです。

 昭和20年に内地にいた海軍兵力は戦艦が3隻で、ほとんどが燃料不足です。それから航空母艦が4隻。巡洋艦が1隻。いずれも燃料欠乏。また、生産力が違った。昭和20年、空襲を考慮外としても、前年の昭和19年に比べると50%に落ちている。生産力が落ちたのは、爆撃の直接効果が29%。爆撃の間接効果、すなわち欠勤・傷害で長久に渡る混乱が39%。一般経済状況、燃料不足、器材の老朽化、食料不足で32%。そういうところの違いがありました。

 食料も問題でしたね。調べますと、昭和16年は日本人一人当たりのカロリー摂取が2000kC a l、アメリカ3400kCal。昭和19年は日本が1900kC al、アメリカは同じ3400kCal。昭和20年、日本は1680kC al、アメリカ3400kC al。アメリカ人に言わせると、1680kCalは、入院患者が摂取するカロリーしかなかったと。これについて、思い出深いことがあります。戦後、アメリカに留学して、ワシントンの近くのフォートベルボアtにおりました。日本大使館に陸海空の駐在武官がおりますが、陸自の田中光祐一住の所に、よくお邪魔していました。田中さんは「俺の親父も、実は大佐時代にアメリカの駐在武官をやった」と、浴衣掛けで一杯、チビリチビリやりながら話してくれました。そして、「どうして東條さんとか偉い人が、アメリカを見なかったか」と。ドイツとかイタリアとかフランスだけ見て、あっちだけしか見ていないことに問題があるということです。彼のお父上は終戦時、東部軍管区司令官であった田中静壱大将閣下。近衛師団の不祥事があったから責任をとって自決されました。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆特攻の背景(2)

 アメリカの東海岸からサンフランシスコまで直線距離で6400km。そこに、世界で一番大きな会社グレイハウンドバスで、あれは時速60マイル(約100km)でハイウェイを走っています。留学が終わって帰ります時に、陸軍省に頼んで、それで行くように認可をとったら1万kmです。6月中旬頃、穀倉地帯のカンザス州、ミズーリ州あたりから両脇、小麦畑とトウモロコシの畑です。60マイルで走っていると東京から下関までの間、ずっと小麦畑とトウモロコシ。中には油田で汲み上げているのがある。ははあ~、これはやっぱり何ですね。田中静壱大将が言われたとおりです。成る程、やっぱりアメリカという国を見てないということです。それで、さっき言いました生産力の問題は、石油でも鉄鉱石も他所から持ってこないとないでしょ。アメリカの生産拠点に日本の爆撃機は1機も飛んで行けないのに、こちらは工場が爆撃でやられる。そういう計算をしてないという点に問題が集約しておるという気がしました。

 それから、さっき言った航空特攻ですね。非常にご立派な行動を部隊の方がやられましたが、アメリカの海軍大佐が言ったように、やはり性能が違うと。これは戦いにならない。だから、沖縄本島に攻撃に行かれた3200機の内に、私は本当に敵艦に突入した特攻機は、アメリカ側に言わせると僅少であったとのことです。洋上で果てられた方が多いと。そういう計画を立てて行かざるを得なかったという点ですね。そういう関係で、戦力を補填するために、私はやむを得ず海上・水中特攻っていうのが捻出された気がしとります。

 特攻作戦で第二艦隊の伊藤整一閣下、海軍兵学校39期、秀才トップが艦と運命を共にされましたね。攻撃の陣頭に立って行っています。特攻作戦っていうのは、最高指揮官も出るべきだったと思います。私は陸自幹部学校の教育します時に、竹下正彦校長に「陸上の戦闘の教育ですけど、海軍のことも教育していいですか?」と言ったら「やれ」という事でやったのが、ミッドウェー作戦でした。ミッドウェイ作戦に参加した第一航空戦隊、航空母艦「赤城」「加賀」。この司令官が海兵36期の南雲忠一中将。後に海軍大将になりました。幕僚長が海兵41期の草鹿龍之介少将。第二航空戦隊が空母「蒼龍」と「飛龍」。「赤城」「加賀」に比べるとトン数がうんと小さい空母でした。司令官が海兵40期の山口多聞少将。

 最初は艦隊作戦をやるために、魚雷とか艦艇攻撃の準備をしておったが、これを陸戦に切り替えて爆弾投下の用意をしていたら、アメリカの航空機の攻撃を受けた。そして4隻ともあそこで撃沈されたんです。それで、山口多聞閣下以下、艦と運命を共にするということで戦死されました。ところが、第一航空戦隊の南雲中将と草鹿少将は、ロープを伝って駆逐艦に移乗して生き残りました。で、これを私は、幹部学校の教育で「君らに考えてもらいたいが、君ら、指揮官としてやる場合にいずれをとるべきか。私はこちらが良い・悪いは言わん。君らの判断に任せる」と言いました。竹下正彦校長は「それでいいんだ」という事でしたが。

 やっぱり、その頃からですね。日本海軍の攻撃を、これをもう少し考えるべきだったという気がします。それからミッドウェー作戦後の海戦も、新聞社などは「勝った。勝った」と報道していましたが、ほとんどやられておりました。だから、そういう状態であった時に、国土戦に近い沖縄においても、他にやるべき方法・手段がとれないという事で特攻作戦に入ったと思います。今、考えてみますとね、果たしてそれで良かったのかどうかという気がしております。特攻作戦に持ち込んだということは最高統帥あたりは、もうちょっと考えるべきだったという気がしております。

 --------皆本さんも特攻艇の指揮官でいらっしゃいました。骨本さんご自身に
とって特攻とは何だったのでしょう?

 皆本‥攻撃の当事者としては、命のまにまに勇猛果敢に健闘すべきであると。ただ、最高統帥とかなんかの場合、それが果たして妥当であったかということは、戦後、幹部学校の教育に携わったので、それをちょっと付言しておきました。

 --------戦争中は特攻が当たり前のような感じでしたか?

 皆本‥そうですね。あの頃は「一億特攻」ですからね。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/1 6:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍水上特攻 皆本義博氏

 ◆海外から見た特攻、

 --------特攻について、今でもいろいろと語られていますが、皆本さんから見ると間違った意見も多いと思います。戦争を知らない世代の日本人や海外の人たちに特攻を、どのように伝えたいとお考えでしょうか?

 皆本‥特攻という行為に非常に感銘を得たという人がいることは事実です。
 例えば、アメリカの歴史家で伝記作家のスティーヴン・アンプローズ(Stephen Edward Ambrose) 博士と会う機会がありました。アンプローズ博士は、皆さんご承知のノルマンディー作戦を題材にした映画『プライベート:フイアン』の軍事アドバイザーをされた方です。本当はスピルバーグ監督と会う予定でしたが、どうしても都合がつかないということで、アンプローズ博士が私に会いたいと。平成13年3月19日、アンプローズ博士が来まして、新宿のセンチュリーハイアット・ホテルで3時間、話をしました。いろいろ話しておりましたら「日本の特攻作戦についてどう思うか?」と聞くので、「あなたは会津若松の白虎隊を知っているか?」と言ったら、ちょっと解らなかった。それで、非常に英語に堪能な女性が、一生懸命に説明したら「わかった」というわけで握手をしましてね。非常に日本の、それは大事な事だと。私は特攻隊に行く人はそれだったという気がしておりました。

 それから、先ほども申し上げたアメリカ・フレデリクスハーグで行われた「太平洋戦争・沖縄シンポジウム」でのことです。終わって帰る時にビル・ボールズ退役空軍大将が近寄って来まして、涙を浮かべながら「皆本が戦った沖縄の島で、315名の老若男女の人が島を守るべく果てていかれた。私が生まれたのはサン・アントニオだ」……サン・アントニオはテキサス州の南部にある人口130万人くらいの都市です。有名な「アラモの砦」の舞台です。1836年、テキサス住民がメキシコと独立戦争をやりました。そして、アラモの砦を守っていた全員が城を枕に討ち死にしました。で、ボールズ退役空軍大将は「皆本、私はサン・アントニオ生まれだ。だから、アラモの砦で果てた先輩の伝統を私は継続していきたい」と。そして「沖縄の島で果てられた方々と、サン・アントニオでアラモの砦で果てられた人は全く同じだ。命を賭けて郷土を守る。こういう事こそ、世界平和を本当に担えると思う。ありがとう」と涙をポロポロ流して……私は、非常に感銘を受けました。

 --------戦後も沖縄に行きましたか?

 皆本‥はい。慰霊祭にしょっちゅう行っておりましてね。それで、平成17年12月15日、キャピタル東京ホテルで、イギリスのサー・マックス・バッシングス博士に会いました。この人は「ナイト」の称号を持つ有名な学者です。バッシングス博士は沖縄戦、水上特攻の体験を聞きたいということで会ったんですがね。会う前に靖国神社に行きまして、英文の資料を集めました。それで靖国神社の話をしたら博士が「すでに私も靖国神社に参って来て、英文資料を持っている」と。私は、瀬島龍三さんが浄土真宗本願寺派の全国の門徒総代をやられていた関係もあって、地域の門徒総代をやり、東京教区の教区会議員でした。それで博士に、御本山から「浄土真宗」と「親鸞」という英文の厚い本を持って来て差し上げましたら、喜んで受け取ってくれました。そして、別れる時に、掛けてあったコートを持って来て羽織らせて頂いたら、敬礼をしてくれましてね。

 だから、やっぱり、日本の学者の先生方も、命を賭けて守るという行為を善意で解釈してやって戴きたいと。大江健三郎とか、あんな連中なんかに汚染されているみたいな気がします。平成18年11月27日に、ダニエル・キングさんという方が「沖縄戦の体験を聞きたい」ということで来ました。彼は若い時、10年間日本に住んでいたから、「今日は日本語でいいよ」と言われて話しましたが(笑)。こういう方々と接しておりますが、当時の日本の「いざという時に戦った」。これは非常に評価して頂いておると、私は芯から思っております。
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