特攻インタビュー(第5回)・その15
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆予想外の陸上戦、そして渡嘉敷島民の集団自決
皆本‥それで、3月27日。朝6時頃から、精強・アメリカ歩兵第77師団の歩兵第24連隊が我々の島に上陸した訳です。陸上戦闘になるのに、戦隊長や特攻艇乗組員が持っている装備は拳銃と弾が6発。手榴弾、あとは軍刀でしょう。それ以外ないもんですから、陸上戦闘やるって言ったって何もできない。それに海上に出撃するのが我々の基本任務ですから、防御のための陣地なんてないんです。
私は、主力を後方に下げてくださいと申し出ました。「配属小隊30名を私の指揮下に入れてください。この渡嘉志久(渡嘉敷島の海峡側の入江の地名)で、主力が後に下がる援護のため、敵に対する抑止戦闘をやる」と戦隊長に進言しました。で、やりましたら、果たせるかな、敵が上陸しました。配属小隊が持っている軽機関銃は弾が110発位しかない。それで、日本の場合、弾倉に30発ずつ入っていました。30発撃てば、また入れ替える。詰め替えにゃいかん。ところがアメリカは、ナイロンのベルトに弾がつながっていて、引き金を引くと250発出るんです。そんな相手が上がってきたでしょ。戦車もおりました。
銃撃戦が始まり、とにかく、こりゃ大変だと。陣地がないもんですからね。地べたを這い回って敵を迎えた。召集を受けた兵隊さんなんか怯んでしまって、どうしていいか解らない。先任下士官が立ち上がって、若い召集兵に「貴様ら! いいか、俺はノモンハン戦の生き残りだ。戦の仕方、俺が教えるから、俺に習え!」と言って立った途端、パパパンって4発か5発受けまして即死です。それから、愛媛県の農業学校の先生から召集された高塚春次郎少尉も戦死。30分くらいでもう三分の一が戦死です。戦隊主力は夜のうちから後退しているから、その援護はできただろうということで、とにかく俺について来いと言って、大雨の中、手探りであちこち行きましてね。それで3月28日、やっと主力がいる所にたどり着きました。
同じ28日の14時頃、上陸したアメリカ軍の迫撃砲の攻撃が職烈で、一日中、北方の谷地や谷間に避難していた島民は、もう限界を感じたんでしょうね。まあ、あの状態でしたら、もうとにかく、これは生きていけんということで。あの頃は、一億線特攻という国民感情もありましたから。それで、召集を受けた防衛隊員に渡してあった手相弾とかを使って、そこで315名の方が本当に可哀想にも集団自決して果てられました。
部隊の方は、配属小隊が持っている少数の火器で島の守備をやりましたが、アメリカ軍が伊江島攻略に向いましたので救われました。アメリカ軍は慶良間諸島をある程度制圧したら、伊江島の飛行場を占領するという目的だったようです。伊江島で有名なのが従軍記者のアニー・パイル。彼は日本軍の銃撃で死にました。昭和63年、アメリカ空軍の在郷軍人会の招待があって、統幕議長やった竹田五郎さんが「皆本、お前は空軍じゃないけど、アメリカにも行っとったから一緒に行こうや」という訳で同行しました。そしたら、ハワイの陸軍墓地でアニー・パイル記者と、そからスペース・シャトルが途中で爆発、殉職したエリソン・オニヅカ中佐(注2)、あのお二人が、片方は十字架を刻んだ、片方は仏教の法輪を刻んで、お二方並んで墓がありました。「皆さん、此処に来て参ってくれ」と。
アメリカでシンポジウムをやって、私らはアメリカによって救われたと言ったら、向こうは笑いましてね(笑)。慶良間を巡洋艦とか駆逐艦で閉鎖しているから舟は出せない。戦闘能力も乏しい我々でしたが、77師団を伊江島に向かわせたことで救われました。その後に来たのは、ただ警戒しているくらいでした。こちらも反撃する力はありませんでした。戦隊長が「皆本、敵情をひとつ調べてくれんか」と言うので、夜間、配属小隊の生き残りの兵隊3人を連れて行きましたら、兵隊が「中隊長! 何か書類がここに落ちています」「よし! 貴様、落とさんように持ってこい」と言って、途中で洞窟に入って蝋燭をつけて見ましたらね、表紙の剥げたハイスクールの代数の本なんですよ。私は「はあー、この戦は俺の負けだ。我々が戦地に行く時は、東洋流の国士気取りで〝風粛粛として易水寒し、壮士一たび去ってまた還らず〟……。
ところがこの若い兵隊さんは、ハイスクール在学中か何か知らんが、教科書を戦場に持って来ている。で、戦の合間に勉強を続けている」と思いました。