特攻インタビュー(第5回)・その14
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆マルレ自沈せよ
皆本‥それで、翌日の3月26日になると迂水出撃が困難になりました。さっき言いましたように、慶良間海峡の入り口には15~16隻の駆逐艦や巡洋艦が来て遊弋していますから、特攻艇が行けば猛烈な火砲でやられるということなんですね。それで船舶団長は軍司令部の了解を得まして、企図秘匿のために特攻艇を自沈せよ、沈めろと……。
特攻艇の出撃・運用の責任者は軍司令官以上になるんです。やはり、特殊な兵器ですから、他と違って、近くの師団長などに出撃の権限がないんですね。船舶団長も自分が発令できないから、軍司令部の許可を頂きました。敵に察知されたり対応されたら困るということで自沈を命じました。大町船舶団長が来られて、戦隊長以下を集めて命令される時に、私もそこにおりました。「これでは出撃困難だ。沖縄本島に4個戦隊がおる。これの状況を察知されないように全部沈めろ」と言われた。
私は小隊長に合図し、みんな集まっている洞窟から外に出まして「小隊長、来い。俺が責任を持つから沈めなくていい艇があれば残せ。その責任は俺が持つ。貴様らには責任は持たせん。解ったか!」と言いました。小隊長が「大丈夫ですか?」と聞くので「俺が言っているんだ。俺は海上挺進戦隊の、宇品の船舶司令官のところで検討してやっているから一番詳しく知っている。とにかく沈められないのは残せ」と言いましてね……。慶良間の渡嘉敷付近、阿波連の外の湾はエーゲ海に並ぶ透明度の高い海です。戦後、慰霊祭に行って私も泳いでみましたらね。40mくらいのところが手に取るように見えて、澄み切っているんですよ。瀬戸内とかこの辺の海岸と違う。だから、飛行機から見れば「あ、沈めている」と判るなということでありました(笑)。
船舶団長は「自分も早く本島の那覇の軍司令部に帰らないと、全船舶部隊の指揮がとれないから帰りたい」ということで、日露戦争の例を引きまして、バルチック艦隊が日本海に向かう時に大島の人達が、敵艦発見!という訳で舟を漕いで、無線局までたどり着いて「ロシア艦隊発見-」と言って過労で皆、そこで倒れたと。まあ、死にはしなかった。そんな例があるから、戦隊長の赤松さんへ 「とにかく赤松、村長に言って、丸木舟があればそれで俺は乗って帰る」と言うんですが、さっき言いました敵の空襲で、海岸にあった船は1隻も残さず沈められていました。さて、どうするかということで、そこで私が「船舶団長、命令違反をやった皆本ですが、報告してようございますか?」と言ったら「やれ」と。「私は私の責任で、艇2隻だけ自沈させないで洞窟に引き上げております」って言ったら「おい皆本、有り難う!」 って言われました(笑)。普通だったら軍命令に違反で怒られるところです。それでとにかく、これから出発するということで、250kgの爆装を全部外し、一番艇に大町団長、二番艇に着いてきた幕僚が乗ることになりました。一番艇の操縦は、私の第二小隊長だった中島一郎少尉でした。戦後、アメリカ軍の戦略爆撃調査団の資料を見ますと、沖縄に展開したアメリカ軍艦艇は1800隻なんです。東シナ海の慶良間と沖縄本島の間はとにかくもう、船が本当に多い。そこを敵中突破するということでした。日が暮れて出発しましたが、当時の私の報告では「船舶団長・大町少将、中島少尉、消息を絶った」とあります。二番艇は途中で、振動で亀裂が入って浸水しましてね。舟が沈むから、泳いでまた島に来たわけです。それが3月26日でした。