特攻インタビュー(第5回)・その13
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆沖縄の戦い始まる
--------兵棋演習の後、しばらくは平穏な状態が続いたのですか?
皆本‥その頃の状況を言いますと、基地隊の哨戒兵が松の木の枝に腰掛を作って対空監視をやってます。洋上警戒も兼ねていましたが、私は「敵・彼我、識別の必要はない。飛んでいる飛行機は全部〝敵機〟だから、敵機何機、どの方向だけ言え」という指示を出していました。事実、沖縄の戦場では友軍機が飛んでいるところを、一度も見たことはありません。
--------昭和20年3月後半から、陸海軍の特攻機が沖縄沖に出撃していますが。
皆本‥渡嘉敷からは見えませんでした。少し離れていましたからね。話は前後しますが、財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会(現・公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会)で鹿児島あたりの出発基地で慰霊祭をやっているのは非常に有り難いが、沖縄県の西に一番多く特攻機が突入し、あそこで戦死しておられるから、あそこでひとつ、慰霊祭をやろうじゃないかと私が提案したことがあります。そしたら賛同を得ましてね。昭和史研究所長の中村粲先生や最後の連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将のお嬢さんとかが慰霊祭に来てくれました。その晩、那覇で涙を流しながら「皆本さん、父も喜んでますよ。父は、最後の連合艦隊司令長官で、沖縄戦に直接、加入しなかったけれど、最大の感銘を抱いていました(注1)」と言っていました。やはり、なんですね。離れた距離の沖縄本島周辺の戦闘は、慶良間の近くまで来て華々しい空中戦になるということはあり得ないものです。あの途中で多くの方が散華されました。戦艦「大和」が奄美大島までしか行けなかったというくらいですから。我々の島からは、我が陸海軍の特攻機が攻撃する場面というのを見ることが出来る距離じゃなかったんです。
--------アメリカ軍は沖縄本島の前に慶良間諸島に上陸しましたね。
皆本‥その前、3月23日のことですが、忘れもしません。茅茸の兵舎で、12時になったから全員集まって昼食をとろうと箸をとった時、ワーンという艦載機特有の爆音がしました。「おい!昼飯は後だ!」と言って外に出た。それが戦闘開始です。アメリカ・テキサス州のシンポジウムで、あるアメリカの海軍さんが、世界で一番時間を厳守しているのは日本の軍隊で、12時になると必ず飯を始める。だから、警戒心が薄いところを狙って襲撃してきたんです。
それで、大規模な艦載機の空襲を受けまして、焼夷弾などで村落や山林が火災をおこし、11名が戦死、16名が負傷しました。我々には対空火器はほとんどありませんからね。なすがままにやられました。翌3月24日、夜明けと共に敵艦載機が来襲しました。これは大変だ!というので、赤松戦隊長が基地隊の田所秀彦中尉に村落警備を命じました。
25日になりましたら巡洋艦・駆逐艦15隻が慶良間海峡に侵入しました。そして艦砲射撃。我々の基地隊と戦隊は火砲を持っていません。小銃で撃ったって意味ありませんから、敵艦艇に対する反撃の方法は全くありませんでした。その日、3月25日に各中隊が出撃準備を整えました。20時、各中隊は三分の一の「迂水(へんすい)」を下令し、船舶団に報告しました。「迂水」と言うのは水に浮かべることです。ただ、阿波連という南の村落に配備していた第一中隊は「湾内に敵駆逐艦が侵入したため、浸水は困難だ」と報告してきました。21時30分、戦闘準備を視察中だった大町茂・第十一船舶団長が敵中突破して、慶良間の阿嘉島から渡嘉敷島に来られました。考えますと、アメリカ軍が上陸しようという時期に、船舶団全般の統括指揮官である船舶団長が作戦準備状況を視察に来るということ自体、情勢の捉え方がまずかったなという気がします。やはり情報不足だったということです。