特攻インタビュー(第5回)・その19
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編集者
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陸軍水上特攻 皆本義博氏
◆特攻の背景(2)
アメリカの東海岸からサンフランシスコまで直線距離で6400km。そこに、世界で一番大きな会社グレイハウンドバスで、あれは時速60マイル(約100km)でハイウェイを走っています。留学が終わって帰ります時に、陸軍省に頼んで、それで行くように認可をとったら1万kmです。6月中旬頃、穀倉地帯のカンザス州、ミズーリ州あたりから両脇、小麦畑とトウモロコシの畑です。60マイルで走っていると東京から下関までの間、ずっと小麦畑とトウモロコシ。中には油田で汲み上げているのがある。ははあ~、これはやっぱり何ですね。田中静壱大将が言われたとおりです。成る程、やっぱりアメリカという国を見てないということです。それで、さっき言いました生産力の問題は、石油でも鉄鉱石も他所から持ってこないとないでしょ。アメリカの生産拠点に日本の爆撃機は1機も飛んで行けないのに、こちらは工場が爆撃でやられる。そういう計算をしてないという点に問題が集約しておるという気がしました。
それから、さっき言った航空特攻ですね。非常にご立派な行動を部隊の方がやられましたが、アメリカの海軍大佐が言ったように、やはり性能が違うと。これは戦いにならない。だから、沖縄本島に攻撃に行かれた3200機の内に、私は本当に敵艦に突入した特攻機は、アメリカ側に言わせると僅少であったとのことです。洋上で果てられた方が多いと。そういう計画を立てて行かざるを得なかったという点ですね。そういう関係で、戦力を補填するために、私はやむを得ず海上・水中特攻っていうのが捻出された気がしとります。
特攻作戦で第二艦隊の伊藤整一閣下、海軍兵学校39期、秀才トップが艦と運命を共にされましたね。攻撃の陣頭に立って行っています。特攻作戦っていうのは、最高指揮官も出るべきだったと思います。私は陸自幹部学校の教育します時に、竹下正彦校長に「陸上の戦闘の教育ですけど、海軍のことも教育していいですか?」と言ったら「やれ」という事でやったのが、ミッドウェー作戦でした。ミッドウェイ作戦に参加した第一航空戦隊、航空母艦「赤城」「加賀」。この司令官が海兵36期の南雲忠一中将。後に海軍大将になりました。幕僚長が海兵41期の草鹿龍之介少将。第二航空戦隊が空母「蒼龍」と「飛龍」。「赤城」「加賀」に比べるとトン数がうんと小さい空母でした。司令官が海兵40期の山口多聞少将。
最初は艦隊作戦をやるために、魚雷とか艦艇攻撃の準備をしておったが、これを陸戦に切り替えて爆弾投下の用意をしていたら、アメリカの航空機の攻撃を受けた。そして4隻ともあそこで撃沈されたんです。それで、山口多聞閣下以下、艦と運命を共にするということで戦死されました。ところが、第一航空戦隊の南雲中将と草鹿少将は、ロープを伝って駆逐艦に移乗して生き残りました。で、これを私は、幹部学校の教育で「君らに考えてもらいたいが、君ら、指揮官としてやる場合にいずれをとるべきか。私はこちらが良い・悪いは言わん。君らの判断に任せる」と言いました。竹下正彦校長は「それでいいんだ」という事でしたが。
やっぱり、その頃からですね。日本海軍の攻撃を、これをもう少し考えるべきだったという気がします。それからミッドウェー作戦後の海戦も、新聞社などは「勝った。勝った」と報道していましたが、ほとんどやられておりました。だから、そういう状態であった時に、国土戦に近い沖縄においても、他にやるべき方法・手段がとれないという事で特攻作戦に入ったと思います。今、考えてみますとね、果たしてそれで良かったのかどうかという気がしております。特攻作戦に持ち込んだということは最高統帥あたりは、もうちょっと考えるべきだったという気がしております。
--------皆本さんも特攻艇の指揮官でいらっしゃいました。骨本さんご自身に
とって特攻とは何だったのでしょう?
皆本‥攻撃の当事者としては、命のまにまに勇猛果敢に健闘すべきであると。ただ、最高統帥とかなんかの場合、それが果たして妥当であったかということは、戦後、幹部学校の教育に携わったので、それをちょっと付言しておきました。
--------戦争中は特攻が当たり前のような感じでしたか?
皆本‥そうですね。あの頃は「一億特攻」ですからね。