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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/5 6:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 Ⅲ 山岳地帯への逃避とその生活 その1

 長くなるので、結論から申し上げます。
 ルソン島にやっと上陸を果たした東京校の同期200余名は、その後、地獄の戦場の中で戦死、餓死、衰弱死、病死、自決等によって、その殆どが死亡して、終戦後奇跡的に日本の上を踏むことが出来た生還者は、調査の結果、私を含めて18名程と言われています。繰上げ卒業372名が18名だけ生き残ったのです(但し台湾で下船して勤務した数名が生還しています)。また、村松校は347名のうち生還者は22名程ではないかと聞いています。

 なお、厚生省が戦後発表した資料によりますと、フィリピン全域に於ける日本兵士の死亡者数は49万8千人6百人と書かれています(全兵力は630,967名、戦没者は498,600名、死亡率79%一一私の部隊が所属したルソン島南部の振武兵団は、兵力8万名に対して生存者は6千3百名で死亡率は92%と言われています)。また、戦火に巻き込まれて死亡したフィリピン民間人の犠牲者は、推定100万人と言われていますが正確には分りません。

 次に少しだけ具体的に書きます。
 20年1月上旬、所属する通信隊の6~7名の者がトラっク3~4台で移動中にゲリラの待伏せに遭い、全員が射殺される事件があり、その時に軍の重要機密書類(通信の暗号解読書)も奪われました。

 その報復として数日後、マニラに駐屯していた各部隊が動員され、襲撃された集落を包囲して、戦車砲まで打ち込み、部落の若い男子、約30名を強制的に縛り上げ、何の調べも行わずに、一カ所に集めて全員を軽機関銃で射殺しました。

 私はその殺害現場を目撃し大きなショっクを受けたのですが「これが戦争というものだ」と自分を納得させるしかありませんでした。非情極まる討伐戦でした。多分、犯人のゲリラ達はいち早く逃亡し、殺害されたのは無関係な一般住民ではなかったかと思います。また、その時、兵士達は部落の家(比較的裕福な家が多かった)に土足で押し入り、手当たり次第に家捜しをして貴金属類(指輪、ネっクレス、ブローチ、時計、その他)を略奪していましたが、こうしたことが、その後の対日感情の更なる悪化と、ゲリラの増大を招いたのではないでしようか。

 配属された部隊が壊滅し、食糧の補給が無くなり、山に逃げ込んだ私達は、文字通り草木を薔って生き延びました。そして終戦を知って(米軍機の撒いたビラで知りました)、武装解除したのが20年9月末か、10月頃でしたので、約8~9ケ月間、調味料も全くなく雑草を主食として、山中を街復しながら飢餓地獄と戦ったのです。

 生きることに必死で、月日の経過記憶は皆目分りませんでした。特にフィリピンは四季がないので、尚更のことでした。まともな食い物は何もありません。また、米軍の執拗な空爆、砲撃(主として迫撃砲)、それにゲリラの狙撃もあって、死亡者が続出しました。ゲリラ(米軍に協力した現地人)に捕らわれて、惨殺された友軍の死体を何度も見たことがあります。

 敵の迫撃砲は上空をシュル、シュルと空気を切って飛来するのですが、その不気味な音に生きた心地がせず、気が狂いそうな恐怖を覚えました。

 また、米軍に近くまで攻め込まれ、自動小銃の連射を浴びたこともあり、必死に逃げたのですが、直ぐ傍らの樹木に、ビシ!ビシ!と当たる音が数回聞こえ、「もう駄日だ」と観念したこともあります(日本兵の持っている銃は5発を装填し、最初に1発撃って次を撃っまでに3~5秒程かかります。全部撃ち終ると、また5発の弾を装填しなければならないので、時間がかかり、敵の自動小銃には全く太刀打ち出来ませんでした。特に私達通信兵は戦闘訓練を全く受けていないので、小銃の取扱いは素人同然でした)。そうした攻撃から身を守りながら、食い物を探してジャングルの中を徘徊したのです。

 食べたものは雑草が中心で、時たま見かける蛇、トカゲ(大きさが50 clll~lmもありました)、ヵエル、オタマジャクシ、野ネズミ、バっタ、そして川の沢蟹を捕らえて、何の調味料も無しに、焼いたり煮たりして食べました。食べられない毒草を誤って食べ、1週間程、胸を掻き毟られるように苦しんだことも再三あります。河で炊事用の水を飯金に掬っていると、上流から死体が流れてきたこともあります。マっチが無いので、火を起こすのには苦労しました。雨が降れば火は起こせません。生水は絶対に飲めません。飲めば直ぐ下痢が始まります。食い物の調達は自分でするのが鉄則であり、体力と才覚がなければ生きていけないのが山の生活です。一緒に行動している親しい戦友でも助けてはくれません。皆それぞれに生きることに必死でした。

 食えるものは何でも日の中に入れました。私達はそれを「餌」と呼んでいました。「白い飯が腹一杯食べられたら死んでも良い」とさえ思い、ご馳走の夢をよく見ましたが、目が覚めると、飢餓の現実に引き戻されて、がっかりしたものです。

 町育ちの私は山野草の知識に乏しく、田舎育ちの戦友に教えられ、助けられました。餓死者、衰弱死者、病死者が続出し、それに発狂して自決する者も多く、深夜に手楷弾の炸裂音を聞けば、「また、誰かが死んだな」と思って間違いはありませんでした。死に直面して「天皇陛下万歳」と叫んだ兵を私は知りません。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/6 7:45
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 Ⅲ 山岳地帯への逃避とその生活 その2

 幸いなことにルソン島に猛獣はいません。毒蛇(10~15c m、ミミズ位の大きさで真っ黒く、赤い舌を出す蛇で私達は天蛇(テンダ)と呼んでいました)、サソリ、大きな蜂がいて、これに噛まれたり、刺されたりして苦しむ兵を多く見ました。

 私もジャングルを逃走中に、うっかりして蜂の巣に触れ、数十匹の蜂の攻撃を受けて、あっといぅ間に数箇所刺され、その痛さに悲鳴を挙げ、その後2~3日は何も食べられず高熱にうなされました。軍医や看護兵がいるわけもなく、痛みと空腹を抱えて1人で耐えました。蚊と山ヒルにも悩まされました。蚊はマラリア(熱帯地の伝染病)を媒介するので、誰もが苦しみました。山ヒルは手や足、首等の露出している肌に何時の間にかへばり付いており、痩せ細った栄養失調の身体の血を吸われます。

 人間は水が無くては生きていけないので、川沿いに上流へ上流へと山の頂上に向かって逃げたのですが、道が無いので川に入ることが多く、靴は絶えず濡れ、直ぐ靴底が剥がれて履けなくなり、ずっと裸足でした。使えない靴を煮て、しゃぶる者も居ました。岩や木のトゲを踏み、足の裏は血だらけでしたが、いくら痛くても食い物の無いところに留まれば間違いなく餓死が待っています。歩けなくなった兵士が虚ろな目をして倒れていても、誰もが無視して通り過ぎます。親しい戦友でも歩けない者は置き去りにされました。友軍の死体が、もし靴を履いておれば、それを貰って履きました。もし中に骨が残っていたら、振り落として使いました。でも、せいぜいl0日程で靴底が剥がれて使えなくなり、直ぐ元の裸足に戻ってしまいます。

 髪や髭は伸ばし放題、指の爪が伸びて邪魔になると、時間をかけて歯で噛み切りました。

 昼間は暑くても、夜になると急激に冷え込みます。着た切り雀で他に着る服は何も無く、寒さに震えました。

 月の無い夜は真の闇です。でも火は炊けません(敵に探知される懸念がありました)。雨が降っても天幕が無く、大木の根元に寄り添って凌ぎました。帯剣は重く、それに刃が付いていないので使い物にならず、早くに捨てました。小銃 (30年式短小銃)と弾、手招弾は最後まで持っていたのですが、それは護身と最悪の場合の自決用に、どうしても必要でした。

 生き残りの兵隊30人程で山中にバラックを建てて過ごしていた20年3月頃のことです。

 炊事の煙を敵の観測機(グライダーのような形の黒い飛行機で、低空をゆっくり飛んでいましたが、多分、無線操縦ではないかと思います。馬鹿な兵が小銃で撃ったところ、10分もしないうちに迫撃砲の連射を受けたことがあり、それからは、火煙を出さないようにし、声を潜めて警戒しました)に探知され、ある深夜、 迫撃砲の集中砲火を浴びて兵の殆どが即死し、生き残ったのは私と若い兵の2人になったことがあります。

 多くの死体の散乱した惨状を目の当たりにして私は絶句し、震えが止まりませんでした。

 その時に同期の親しい戦友を2人亡くしたのですが、その1人は腹部を打ち抜かれ、腹の臓物が大量に露出して即死しており、また、1人は顎を砕かれ、未だ息があったのですが、ロレっの回らない声で、尾崎!尾崎!と連呼しながら、私の腕の中で息絶えました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/7 8:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 Ⅲ 山岳地帯への逃避とその生活 その3

 彼方此方に死体が転がっていました。フィリピンは熱帯地帯ですから、人間が死ぬと2~3日もすると、死体が2倍程に膨張します。その後、体の一部が破れはじめ、ドロドロの粘液が流れ出して腐敗が進み、次第に形が崩れます。

 それに蠅が真っ黒くなる程たかり、蛆が湧いて勢いよく動くのが見えます。その頃が一番臭く、言葉では言い表せない厭な臭いでした。

 そうした死体の数が多かったので、山の何処にいても死臭が漂ってきます。
 死体は、青天でも毎日1~2度は降る土砂降りのスコールに洗われ、そして灼熱の太陽に焼かれ、忽ち白骨化します。そして、バラバラに散乱します。

 戦死者は別として、餓死や病死した死体は、何故か言いあわせたように、仰向きに倒れ、眼は必ず見開いており、しかもヤブニラミ(斜視)でした。どちらの方角から見ても、こちらを睨んでいるようで、小心な私はとても恐ろしく、傍を通る時は、目をそむけて通り過ぎたものです。これが日本を出る時、歓呼の声に送られ勇躍出征した帝国軍人の、哀れな、なれの果てです。

 マラリア、夜盲症(鳥日)、熱帯潰瘍、アメーバー赤痢、一―私はその全部に罹って苦しみました。勿論、薬も包帯もなく、軍医、衛生兵もいません。友軍同士の食糧の奪い合い、殺し合いもありました。飢えの苦しさから、死んだ兵士の肉を喰っている者を見たことがあります。太股や頬をえぐられている新しい死体も見ました。

 「調味料があったら交換してくれ」と言って乾燥肉を持ってきた兵がいましたが、多分、それは人肉だっただろう、と思います。その頃に牛や豚等の食用肉が.ある筈はありません。生きるためには徹底したエゴイズムと、動物的欲望によって理性を失い、倫理は破壊され、餓えた地獄の鬼になるのです。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/8 7:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 Ⅳ終戦、武装解除

 20年8月頃、私は骨と皮に痩せ細り、足は血まみれ迫撃砲の破片を受けた傷も治らず、ただ、生きることだけに執念を燃やし、体力の限界を感じながら、やっと、よろめきながら、最後は同期の3人で行動しましたが、歩き疲れ、夕暮れになると乾燥した比較的平坦な場所を探してその日のネグラにしていました。地面は岩のデコボコがあるので、痛くないように、その凹凸に背中を合わせて寝るのです。

 空を見上げると満天に沢山の星が、とても近くに大きく輝いていました。南十字星も見ました。これから、一体どうなるのだろうか?生き残った他の兵隊は何処に行ったのか?(私達3人は、何時の間にか他の兵隊から遠く離れてしまい、近くには誰もいませんでした)全く情報はなく戦争の推移も皆目分りません。

 何の希望も、明るい展望も無く、絶望に打ちひしがれ、明日の食い物、餌を如何するかだけ考えていました。郷愁に浸る心の余裕はありませんでした。

 思えば、学校で習得した通信技術も殆ど活用することもなく、軍務に就いたのは、僅か1か月余で、あとは敵の攻撃から逃げ回り、そして飢餓地獄に苦しんだ戦争体験でした。

 終戦を知って武装解除し、米軍の収容所に連行された時、私は驚きました。
 既に大勢の友軍の兵達が収容されており、彼等の大半は終戦前に捕虜になった者達でした。彼等は米軍の給食を受けて丸々と肥っているのです。そして、PW (prisoner Of war 戦争の捕虜)の印字された服を着て、何の恥じらいもなく楽しそうに過ごしていました。ガリガリに痩せ、やっとよろめくようにしか歩けない自分と比較した時、彼等は捕虜になったあと、敗戦を知るや、躊躇なく気持ちを切りえた訳で、その変わり身の早さに、徹底した軍人教育を受けた私には直ぐに理解出来ず唖然としました。

 そして、米軍収容所で1年3ヶ月間の労務を経て、21年11月に、やっと懐かしい故国日本の土を踏むことが出来ました(コレヒドール島の収容所では、洞窟.. の落盤事故等、2度の事故に遭遇しましたが、間一髪、危なく死を免れました。終戦後にも更に死の危機を迎えた己の運の悪さに、これでもか!と試練を与える神を呪ったものです)。

 今から考えると、九死に一生を超えた奇跡的な生還であると思います。死に直面しても、その都度、不思議と思われる程、幸運に恵まれたこと、戦友に助けられたたこと、「生きよう」という執念と精神力で、極限状態の中で死力を尽くしたことが、奇跡を生んだ、と思います。悪夢を見たような苛烈な戦場体験でした。

 故国の高知に帰ると、家は焼け野原になっており、父は米軍の空襲で死亡していたことを知りました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/9 7:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 V 結び(不戦の誓い)

 一体、この戦争は何だっただろうか?
 戦友達の死をどの様に考えたら良いのか? その死に何の意義があるのだろうか? 何度も何度も考えました。

 「若人よ、陸へ、海へ、空へ」という軍部のスローガンに踊らされ、未だ思慮分別も乏しい15歳の少年が、何の疑念も持たず、純粋に国の為と信じて志願した己の愚かさを痛感したものです。死んだ戦友達は靖国神社に祭られており、「平和の礎として、尊い命を捧げた英霊」と称えられているかも知れませんが、彼等の無惨な最期を目撃した者として、また、何度も死にかけていた者として、この無謀な戦争の実態に憤懣のやり場が無く、幾ら考えても率直に納得することは出来ません。

 あの時から、もう60余年が過ぎましたが、今でも思い出すと寝られない夜があります。彼等は単に使い捨てにされた消耗品だったのではないか? 
 単なる犬死ではなかったのか?

 今もなお、彼等の遺骨は人跡未踏の山奥に、雨ざらしのまま散乱しており、政府からも見捨てられて淋しく眠っていると思うと、胸が締め付けられる思いがして、私の心の中の戦後は何時までも終わりません(政府によって戦後行われた遺骨収集の分布概見地図を見ますと、山の奥の方までは行われておりません。なお、厚生省の発表によるフイリピン全域での日本人戦没者は約52万人で、遺骨収集は、その内、約13万体となっています。従って39万体は今も山野に残されていることになります)。

 戦争は絶対に二度としてはなりません。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/10 7:47
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 (参戦記・抜粋) その1

 以上の「戦争体験」の冒頭、尾崎氏は「以前、フィリピン参戦記のタイトルで思い出話を綴り、云々」と語って居られますが、以下は、その「参戦記」の中の一節を抜粋したものです。文章は、19頁の「亡くした戦友2人」に繋がりますが、私は、この抜粋は「戦争体験」が壮絶な様々な事実を生々しく語っているのに比べ、氏自身がその戦友達の死を巡ってその時々に如何な心理状況にあったのか、また、後年、氏からその最期の模様を知らされたご遺族の心情は如何であったかを見事に描き出していると思いましたので、敢えて掲載させて頂きました。


 ・壮烈な戦死を遂げた池田鉄次郎君と小松君三君(参戦記・抜粋)その時に私は同期の親しい戦友を2人亡くしました。その一人・池田鉄次郎君は腹部を打抜かれ、腹の臓物を多量に露出して小屋の高い床から仰向けに上半身を下に垂らした格好で即死していました。その凄惨な姿に私は思わず目をそむけました。多分逃げる間もなく直撃を受けたに違いありません。また、小屋の近くの窪みで誰かが呻いていました。それが小松君三君でした。驚いて駆け寄ったところ彼には顎がありませんでした。多分、破片が当たって、もぎ取られたに違いありません。出血が激しく、急いで抱き上げました。気付いた彼はロレっの回らぬ声で、尾崎!、尾崎!一一と何度も何度も私の名前ばかり呼び続けました。「しっかりしろ」励ましましたが、彼の声は次第に小さくなり、僅か5分ほどで′息が絶えました。

 彼を横にした後、すぐ近くの河原に出て夜明けを待っことにしました。他の者達はどうなったのだろう一一気になりましたが小屋のある方は深沈とした暗闇で何も見えません。辺りを見回しても誰もいません。川面は薄明かりに反射して不気味に輝いていました。時折遠くの方で迫撃砲の発射音がしましたが、日標は他の方向らしく着弾音は聞こえません。砲撃に眠りを覚まされた名も知らぬ鳥の異様な鳴き声が時々気味悪く聞こえる以外は物音一っなく寂とした静寂に包まれていました。気が狂いそうな恐怖で胸が苦しく身体が小刻みに震えました。

 奇跡的に私の外に、たった一人だけがほぼ無傷で生きていました。また、その他に、一人の兵隊が右膝を負傷し、青ざめた顔をして高い小屋の床の上に座っていました。

 負傷者は面長の浅黒い40歳過ぎの兵で、大人しい優しい感じの人でした。「怖かった。砲撃に驚いて起き上がった瞬間、膝に破片を受けて動けなくなった。その後も砲撃が続いたので生きた心地がせず、ただ神に祈っていた」と言いました。
 右膝を負傷し衣類を幾重にも包帯代わりに巻き付けていましたが、それでも血がべっとり滲んでおり、可なりの重傷のように思えました。出血も激しいようで顔色も悪く、「あまり痛くはないが、歩けない。動けない」と悲痛な声で訴えました。
 敗残の戦場で歩けないことは死を宣告されるに等しく、彼も充分承知の筈で、慰める言葉がありません。

 ところが、無傷の若い兵隊は、「もうとてもこんなところには居られない。俺は怖いから逃げる」と言い残して直ぐ何処かへそそくさと立ち去ってしまいました。
 「自分本位の薄情な奴」と腹が立ちましたが、この敗戦最中の戦場では世の常識が通用しないことを改めて知らされた思いがしました。

 午後、非常用に残してあったコメを1合ほど粥にして炊き、負傷者と分け合って食べました。

 久しぶりの米の飯で、彼も喜んでくれました。でも私の下痢と血便は依然として止まりません。食ったらすぐに下腹部が痛み排便すると血の混じった粘液が出ました。相談する者は誰もいません。これからどうすれば良いか、途方に暮れました。部隊はとっくに散り散りになり、相談する戦友も上官もいない、負傷者を手当てする軍医、衛生兵も勿論いない、薬も包帯も無いのです。

 二人の命を繋ぐ食糧も残りは僅かです。さりとて、このまま重傷者を残して立ち去ることは出来ません。思案に暮れ、その夜は前夜と同じ河原の石ころの上で寝ました。心に受けた衝撃が大きくてなかなか眠られずにいた時、またも風を切る砲弾の飛来音に驚いて飛び起きました。生き残った者を徹底的に残滅しよう、という駄目押しの攻撃です。今度は薄明るい河原伝いに川下に向かって逃げました。砲撃は十数発ほどですぐ静かになりましたがヽ元のところに戻るのは怖ろしく、その夜は遠く離れた場所で寝ました。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/11 9:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 (参戦記・抜粋) その2

 翌朝戻ってみると、重傷者は無事で、私が来るのを待ちかねたように、「怖かったよ」と涙ぐんでいました。一歩も逃げることの出来ない彼は、さぞや恐ろしい思いをしたに違いありません。
 もう戦死者の屍臭が辺リー面に漂い始めていました。このまま此処にいては「明日は我が身だ」と思いました。苦しい選択でしたが、私は其処を離れる決心をしました。「薄情な奴」と責めた昨日の若い兵隊と何等変わりない無力な自分が情けなくなりました。

 残った米の中から約2合ほどを今度は普通に炊き、飯金のまま彼にそっと渡しました。顔がこわばりその手が震えました。私は何も言えませんでした。でも、それだけで彼は総てを察知したようでした。「有難う」と言った後、私の顔をじっと見つめていましたが更に小さな今にも泣き出しそうな声で「さよなら」とつぶやくように言って顔を伏せました。

 私はいたたまれなくなり、足早に其処を離れました。勿論、行くあてもありませんでしたが、彼が飯盆の飯を食べ終わった後のことを思うと身を切られるように辛いのです。膝の傷もきっと痛み出したことでしよう。そしてヽ誰もいない密林の中で食い物もなく苦悶の末、孤独に死を迎えたに違いありません。

 思い出すのが辛い。彼の名前も、出身地も一切聞いていないのです。

 その時、私自身まさか生還することが出来ようとは夢にも考えていませんでした。しかし、今になっても、顎をもぎ取られながら、息が絶えるまで、尾崎!尾崎!と何度も何度も呼び続けた小松君の悲痛な声が昨日のように聞こえてきます。

 また、私自身の意志で重傷者を置き去りにしたことは、生きている限りその罪悪感に苦しみ自責の重荷を背負い晦恨に苛まれ続けることでしょう。あの奥深い山中で彼らの屍は万斛の恨みを持って今でも野ざらしのまま横たわり、或いは散乱しているに違いありません。そして無念の最期を遂げた戦友達の魂は、何時までも成仏できず、ジヤャングルの中を彷徨い続けているのではないでしようか。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/18 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 

 (参戦記・抜粋) その3

 私は、復員後も、こうしたルソン島の密林の中で無念の最期を遂げた戦友達のことを「是非ご遺族にご報告しなければ」と、ずっと考えていましたが中々ご住所も分からぬまま徒に歳月を重ねてしまい、そのうち、今頃になってお知らせすることは、とっくに諦め忘れようと努めて来られたご遺族の幸い悲しみを、再び呼び戻すことになっては申し訳ない、と躊躇する気持ちになっていました。

 しかし、若くして異境の地で散華した戦友達の無念を思い、また、共に学んだ同期戦友達の何人かは、その死の最後を私一人が目撃、確認していることを考えた時、亡き戦友達は私の命を助けることによって、愛する故国の家族への切なる思いを私に託したかったのではなかろうか、そして、私は彼らに守られて故国の土を踏むことが出来たのだ、と気が付きました。

 そして、戦後33年という長い歳月を経過していたので、ためらいはありましたものの、思い直して両君のご遺族へ、夫々心をこめて知る限りのことをお知らせしました。一―一その時、頂いたご返書の一部は次の通りです。

 ーーーーーーーーーーーーーー

 池田鉄次郎君の弟嫁・池田千代子様より

 私は鉄次郎さんの弟の嫁でございます。この度はお忙しいところを私達の為に態々お手紙を頂き大変恐縮に存じております。こんなに詳しくご親切にお知らせ頂き、戦地は大変だったんだ、と今更ながら胸の痛む思いが致します。私は早速お姉さん達にも見せようと思います。お父さんは13年前に、お母さんは8年前に逝かれました。何時も鉄次郎さんのことを「一番偉いのが死んだ」と涙ながらに話しておられました。本当に戦地に出られた人でないと、この気持ちはわからないと思います。私等には到底想像もつきませんが、私は本家の嫁として鉄次郎お兄さんの霊を決して粗末にしてはならないと思いました。本当に有難うございました。主人も宜しく申しております。重ねて御礼申し上げます。かしこ


 小松君三君の実兄・小松弥一郎様より

 拝復お便り有難く頂戴、感動して拝読させて頂きました。私の弟は貴方という戦友の見守る中で死ぬことが出来、しかも、こうして最期の情況を家族に知らせて頂き、実に運の良い奴でした。他の即死された戦友の方々に申し訳ないような気持ちでございます。
     (中略)
 私が弟の戦死を知ったのは、北支から引き揚げてきた21年1月7日、家に到着した時でしたが、丁度その前日、富山県の戦友から戦死を知らせる手紙が両親のもとに届いたのです。両親は、私も北支から音信が無いので二人とも死んだものとがっかりしておりましたが、私が帰ったことで幾らか力が出たようでした。
 しかし、一番可愛がっていた弟の死は私も含め家中大変なシヨっクでした。
     (中略)
 フィリピンの大激戦の真っ只中で、困苦欠乏のなか、僅か16,7歳の少年達は、ひたすら祖国の勝利を信じて戦っていたのかと思うと、私の胸は張り裂けるような思いでございます。物量に物を云わせた敵の集中攻撃に、ただ死を待っばかりの哀れさ、凄絶さは思うだけでも身の毛のよだっ思いでございます。しかも、この修羅場の只中に一人生き残り、死を幾度も覚悟しながらも、戦友のため、遺族のため、生き続けて下さった貴方様のご.. ′い中は察するに余りあり、仏の御心として、深く深く御礼申し上げるばかりでございます。尊い若い命を落とした戦友を忘れて今日の繁栄を考えることは出来ないという貴方様の高邁なお心は、敵弾に倒れた戦友の屍の中で培われたものと思いますが、少通会の皆さんが皆貴方様と同じ考えであったことを、私は過日村松の参詣会で身を以て知り、感動して参ったのでございます。

 現在の日本人の連帯感の無さ、他人の犠牲の上に自分の欲望だけを追求している恥知らずさ、こんな風潮の中で、少通会の方々のような一貫して戦死された戦友と遺族の為に生涯を尽くそうとしている方々の貴重な存在の中に私自身取り巻かれていることを大変幸せに思い、心から御礼を申し上げ頭を下げたい気持ちで一杯でございます。

 私は弟を大変可愛がっておりました。私とは丁度10歳違いの7人兄弟の末っ子で男は2人だけでした。父は40年5月、母は42年6月に亡くなりました。弟は、私が云うのも変ですが、小学校時代はずっと級長で、高等2年の時は全校児童長であり、陸上の選手で剣道の主将でした。
 
 東村山の少通校に私が面会に行った時、弟の班長で木村という曹長殿が「貴男の弟は銃剣術が強い」と言って下さいましたが、その割に心の優しい大人しい子でした。貴方様のお手紙は早速仏前に供えて先祖と父母の霊に報告し、弟を慰めてやりました。

 弟の死に就いて、今まではっきりとした状況が判らなかった為、心がわだかまり、何かもやもやしたものがありましたが、今、そのもやもやが一瞬にして吹っ切れた思いでござます。と同時に、弟の死が昨日か一昨日だった様な生々しい気持ちが甦り、お手紙を何度も何度も読み返す度に涙を流し、この手紙を書きながらも何度か涙を拭いたことでございます。

 弟もこれで安らかに眠ることが出来るでしよう。これも、偏に貴方様の生涯をかけて苦しみ抜き、耐え抜いて下さった賜であり、心から御礼申し上げるものでございます。

 どうか、比の上はご自分のお心を安らげて毎日の生活をお健やかにお幸せにお暮し下さいますよう、弟に代ってお願い申し上げます。
 本当に有難うございました。先ずは乱筆、乱文にて御礼まで 草々
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/19 6:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 
 (参戦記・抜粋) その4

 この手紙の後、小松弥一郎様が、弟の最期をもっと詳しく知りたいと秋田県から態々上京され、私の勤務先に訪ねて来られたことがあります。
 この時、お話したのは2時間程でしたが、私は、弟様を思うお兄様の切々たるお気持ちに打たれ、生きて帰ったこの身を切られるように辛く思いました。

 その間、お兄様は何度も号泣され、報告はその都度中断しました。日を真っ赤にされたお兄様は私の顔をじっと見っめて居られましたが、何を思われたのか、突然、私の年齢を聞かれました。君三君の若かった当時の姿を私の年齢に重ね合わせて、亡き弟様の面影を偲ぼうとされたのではなかったでしようか。そして最後に、「そのあと、弟の亡骸は?」と尋ねられました。一一一思いがけない質問に、私は一瞬答えられず絶句しました。

 あの状況の中では埋葬するどころではなかった。30名余りの死体が散乱した中で私は気が動転し、たった一人になって途方に暮れていたのです。
  「埋葬のことは全く考えなかったし、考えられなかった。また、出来る筈もなかった」一一一このことを果たしてお兄様にご理解して頂けただろうか。でも、弁解はしたくありませんでした。

 小松君の遺体に(彼の遺体だけ他の兵達から少し離れたところにありました)、最後の別れを言って立ち去る時、「腐敗して蠅が群がらないように」と思い、小屋に戻り、天幕の端切れを持ち出して、そっと上にかけた。私に出来たのは、ただそれだけだったのです。
 そのことを申し上げると、お兄様は私の前であることも憚らず大声を上げて泣き崩れてしまわれました。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 しかし、11期生の悲劇はこれに留まりません。繰上げ卒業組に続き、翌20年3月に卒業された後発組も、内地勤務を除いては、州、朝鮮、樺太、支那大陸に派遣されましたが、このうち、多数の方が抑留され、戦後も長く酷寒のシベリアで「異国の丘」の歌そのものの苦難に満ちた生活を強いられました。

 その苦難の模様は、抑留された地域、環境等によって必ずしも一様ではありませんが、此処では村松少通校11期生の井上隆晴氏の文章を掲げます。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴

 1、 獅子や、何処に

 私が土爾池吟(トルチハ=チチハル西方約60 km)の電信第18連隊に着任したのは、昭和20年3月25日だったかと思う。

 広漠たる原野の、僅かに盛り上がった台地に、1階建ての兵舎や本部などが整然と建っている。練兵場は特にない。視界を遮るものは何一つない原野が天然のそれである。

 関東軍直轄の連隊とはいいながら、戦況の不利が色濃くなった17年10月に新設されただけに、在来の兵営に比べれば貧弱に見えるのはやむを得まい。建物自体も粗製乱造の誹りは免れないだろう。お世辞にも上等とは言えなかった。「中身が強ければいいではないか!」私の中に凛々たる闘志が滲み出るのを噛みしめたのである。

 1期の検閲が終わって間もない現役初年兵の教育助教として、日夜職務に没頭する日が続いた。
 拡大する戦線、高度に進む戦略戦術は、より高度、大量の通信機能を必要とした。それに応えなければならない。

 事実、17年9月頃から、ガダルカナル、東部ニューギニア方面の戦局の悪化に伴い関東軍からの兵力の抽出転用が顕著となり、それは日を追って雪崩のように進んでいった。電信連隊も例外ではなったのである。わが連隊に隣接して駐屯していた騎兵連隊も、20年5月頃、忽然として消えてしまった。兵舎を空にして。

 わが中隊の何人かが転属で出て行った。私の内務班からも、関特演で召集された古参兵長が伍長に任官して転属した。豪放轟落な人物であったが、離別の挨拶は悲痛であった。南方要員である。

 連隊を挙げて、或いは師団を挙げての南方戦線への転用も日を追って凄じいものとなった。しかも、その大部分は編成装備、教育訓練の優秀な「精鋭兵団」だといた。事実、復員後目にした資料により、その厖大さに唖然とした。

 わが関東軍は、日増しにやせ細ってゆく。一―一精鋭を誇った獅子や何処に。

 このような緊迫した状況を裏書きするように、期待をもって創立した我が電信連隊の保有する通信機器の実態は、粗末を通り越して腹立たしいものであった。無線中隊でありながら2号乙無線機、3号甲無線機それぞれ2~3機、しかも、そのうちの何機かは機能不調である。私は泣きたい思いにかられた。これで戦えるのか!?

 しかしながら、客観情勢が悲観的であるほど闘志は燃えた。一望千里、北満の漠々たる原野の中に立って遥かに東天を拝しながら、雄心鬱勃として抑えがたい思いに駆られることが、私の日課となっていた。

 現役初年兵と召集された補充兵とが半々で構成された内務班では、補充兵の意気が沈滞気味である。活気がない。歯がゆい。

 当時、初年兵教育に信念と情熱を持って専念する私であった。日課の合間、暇を見出しては無線機の補修に精出した。或る時は、先任の松下中尉や隊付きの丸田少尉に呼ばれて送信機を補修した。空中線電流が上がらないと苦心していた二人であったが、復調した送信機の大きく振れた空中線電流計を見て驚嘆させた。村松の訓育のたまものである。また、「故障」とされていた2号乙の受信機が無数に飛び交う電波を捉えたときは嬉しかった。しかし、捉えた電波の中にあった重慶放送やハワイの放送は、必勝の信念に燃える私を慌てさせた。私はそれを打ち消すべく自らを戒めた。20年5月、独軍の無条件降伏の前後から、ヨーロっパ戦線のソ連軍の極東への大輸送の放送も充分領けるものであった。とはいえ、これらのことは、総て私の胸に押さえ込んで密閉した。
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