鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 19
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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編集者
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(参戦記・抜粋) その4
この手紙の後、小松弥一郎様が、弟の最期をもっと詳しく知りたいと秋田県から態々上京され、私の勤務先に訪ねて来られたことがあります。
この時、お話したのは2時間程でしたが、私は、弟様を思うお兄様の切々たるお気持ちに打たれ、生きて帰ったこの身を切られるように辛く思いました。
その間、お兄様は何度も号泣され、報告はその都度中断しました。日を真っ赤にされたお兄様は私の顔をじっと見っめて居られましたが、何を思われたのか、突然、私の年齢を聞かれました。君三君の若かった当時の姿を私の年齢に重ね合わせて、亡き弟様の面影を偲ぼうとされたのではなかったでしようか。そして最後に、「そのあと、弟の亡骸は?」と尋ねられました。一一一思いがけない質問に、私は一瞬答えられず絶句しました。
あの状況の中では埋葬するどころではなかった。30名余りの死体が散乱した中で私は気が動転し、たった一人になって途方に暮れていたのです。
「埋葬のことは全く考えなかったし、考えられなかった。また、出来る筈もなかった」一一一このことを果たしてお兄様にご理解して頂けただろうか。でも、弁解はしたくありませんでした。
小松君の遺体に(彼の遺体だけ他の兵達から少し離れたところにありました)、最後の別れを言って立ち去る時、「腐敗して蠅が群がらないように」と思い、小屋に戻り、天幕の端切れを持ち出して、そっと上にかけた。私に出来たのは、ただそれだけだったのです。
そのことを申し上げると、お兄様は私の前であることも憚らず大声を上げて泣き崩れてしまわれました。
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しかし、11期生の悲劇はこれに留まりません。繰上げ卒業組に続き、翌20年3月に卒業された後発組も、内地勤務を除いては、州、朝鮮、樺太、支那大陸に派遣されましたが、このうち、多数の方が抑留され、戦後も長く酷寒のシベリアで「異国の丘」の歌そのものの苦難に満ちた生活を強いられました。
その苦難の模様は、抑留された地域、環境等によって必ずしも一様ではありませんが、此処では村松少通校11期生の井上隆晴氏の文章を掲げます。