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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 11

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通常 鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 11

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/11/5 6:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 Ⅲ 山岳地帯への逃避とその生活 その1

 長くなるので、結論から申し上げます。
 ルソン島にやっと上陸を果たした東京校の同期200余名は、その後、地獄の戦場の中で戦死、餓死、衰弱死、病死、自決等によって、その殆どが死亡して、終戦後奇跡的に日本の上を踏むことが出来た生還者は、調査の結果、私を含めて18名程と言われています。繰上げ卒業372名が18名だけ生き残ったのです(但し台湾で下船して勤務した数名が生還しています)。また、村松校は347名のうち生還者は22名程ではないかと聞いています。

 なお、厚生省が戦後発表した資料によりますと、フィリピン全域に於ける日本兵士の死亡者数は49万8千人6百人と書かれています(全兵力は630,967名、戦没者は498,600名、死亡率79%一一私の部隊が所属したルソン島南部の振武兵団は、兵力8万名に対して生存者は6千3百名で死亡率は92%と言われています)。また、戦火に巻き込まれて死亡したフィリピン民間人の犠牲者は、推定100万人と言われていますが正確には分りません。

 次に少しだけ具体的に書きます。
 20年1月上旬、所属する通信隊の6~7名の者がトラっク3~4台で移動中にゲリラの待伏せに遭い、全員が射殺される事件があり、その時に軍の重要機密書類(通信の暗号解読書)も奪われました。

 その報復として数日後、マニラに駐屯していた各部隊が動員され、襲撃された集落を包囲して、戦車砲まで打ち込み、部落の若い男子、約30名を強制的に縛り上げ、何の調べも行わずに、一カ所に集めて全員を軽機関銃で射殺しました。

 私はその殺害現場を目撃し大きなショっクを受けたのですが「これが戦争というものだ」と自分を納得させるしかありませんでした。非情極まる討伐戦でした。多分、犯人のゲリラ達はいち早く逃亡し、殺害されたのは無関係な一般住民ではなかったかと思います。また、その時、兵士達は部落の家(比較的裕福な家が多かった)に土足で押し入り、手当たり次第に家捜しをして貴金属類(指輪、ネっクレス、ブローチ、時計、その他)を略奪していましたが、こうしたことが、その後の対日感情の更なる悪化と、ゲリラの増大を招いたのではないでしようか。

 配属された部隊が壊滅し、食糧の補給が無くなり、山に逃げ込んだ私達は、文字通り草木を薔って生き延びました。そして終戦を知って(米軍機の撒いたビラで知りました)、武装解除したのが20年9月末か、10月頃でしたので、約8~9ケ月間、調味料も全くなく雑草を主食として、山中を街復しながら飢餓地獄と戦ったのです。

 生きることに必死で、月日の経過記憶は皆目分りませんでした。特にフィリピンは四季がないので、尚更のことでした。まともな食い物は何もありません。また、米軍の執拗な空爆、砲撃(主として迫撃砲)、それにゲリラの狙撃もあって、死亡者が続出しました。ゲリラ(米軍に協力した現地人)に捕らわれて、惨殺された友軍の死体を何度も見たことがあります。

 敵の迫撃砲は上空をシュル、シュルと空気を切って飛来するのですが、その不気味な音に生きた心地がせず、気が狂いそうな恐怖を覚えました。

 また、米軍に近くまで攻め込まれ、自動小銃の連射を浴びたこともあり、必死に逃げたのですが、直ぐ傍らの樹木に、ビシ!ビシ!と当たる音が数回聞こえ、「もう駄日だ」と観念したこともあります(日本兵の持っている銃は5発を装填し、最初に1発撃って次を撃っまでに3~5秒程かかります。全部撃ち終ると、また5発の弾を装填しなければならないので、時間がかかり、敵の自動小銃には全く太刀打ち出来ませんでした。特に私達通信兵は戦闘訓練を全く受けていないので、小銃の取扱いは素人同然でした)。そうした攻撃から身を守りながら、食い物を探してジャングルの中を徘徊したのです。

 食べたものは雑草が中心で、時たま見かける蛇、トカゲ(大きさが50 clll~lmもありました)、ヵエル、オタマジャクシ、野ネズミ、バっタ、そして川の沢蟹を捕らえて、何の調味料も無しに、焼いたり煮たりして食べました。食べられない毒草を誤って食べ、1週間程、胸を掻き毟られるように苦しんだことも再三あります。河で炊事用の水を飯金に掬っていると、上流から死体が流れてきたこともあります。マっチが無いので、火を起こすのには苦労しました。雨が降れば火は起こせません。生水は絶対に飲めません。飲めば直ぐ下痢が始まります。食い物の調達は自分でするのが鉄則であり、体力と才覚がなければ生きていけないのが山の生活です。一緒に行動している親しい戦友でも助けてはくれません。皆それぞれに生きることに必死でした。

 食えるものは何でも日の中に入れました。私達はそれを「餌」と呼んでいました。「白い飯が腹一杯食べられたら死んでも良い」とさえ思い、ご馳走の夢をよく見ましたが、目が覚めると、飢餓の現実に引き戻されて、がっかりしたものです。

 町育ちの私は山野草の知識に乏しく、田舎育ちの戦友に教えられ、助けられました。餓死者、衰弱死者、病死者が続出し、それに発狂して自決する者も多く、深夜に手楷弾の炸裂音を聞けば、「また、誰かが死んだな」と思って間違いはありませんでした。死に直面して「天皇陛下万歳」と叫んだ兵を私は知りません。

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