鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 14
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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- 鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 32 (編集者, 2012/12/3 8:43)
編集者
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Ⅳ終戦、武装解除
20年8月頃、私は骨と皮に痩せ細り、足は血まみれ迫撃砲の破片を受けた傷も治らず、ただ、生きることだけに執念を燃やし、体力の限界を感じながら、やっと、よろめきながら、最後は同期の3人で行動しましたが、歩き疲れ、夕暮れになると乾燥した比較的平坦な場所を探してその日のネグラにしていました。地面は岩のデコボコがあるので、痛くないように、その凹凸に背中を合わせて寝るのです。
空を見上げると満天に沢山の星が、とても近くに大きく輝いていました。南十字星も見ました。これから、一体どうなるのだろうか?生き残った他の兵隊は何処に行ったのか?(私達3人は、何時の間にか他の兵隊から遠く離れてしまい、近くには誰もいませんでした)全く情報はなく戦争の推移も皆目分りません。
何の希望も、明るい展望も無く、絶望に打ちひしがれ、明日の食い物、餌を如何するかだけ考えていました。郷愁に浸る心の余裕はありませんでした。
思えば、学校で習得した通信技術も殆ど活用することもなく、軍務に就いたのは、僅か1か月余で、あとは敵の攻撃から逃げ回り、そして飢餓地獄に苦しんだ戦争体験でした。
終戦を知って武装解除し、米軍の収容所に連行された時、私は驚きました。
既に大勢の友軍の兵達が収容されており、彼等の大半は終戦前に捕虜になった者達でした。彼等は米軍の給食を受けて丸々と肥っているのです。そして、PW (prisoner Of war 戦争の捕虜)の印字された服を着て、何の恥じらいもなく楽しそうに過ごしていました。ガリガリに痩せ、やっとよろめくようにしか歩けない自分と比較した時、彼等は捕虜になったあと、敗戦を知るや、躊躇なく気持ちを切りえた訳で、その変わり身の早さに、徹底した軍人教育を受けた私には直ぐに理解出来ず唖然としました。
そして、米軍収容所で1年3ヶ月間の労務を経て、21年11月に、やっと懐かしい故国日本の土を踏むことが出来ました(コレヒドール島の収容所では、洞窟.. の落盤事故等、2度の事故に遭遇しましたが、間一髪、危なく死を免れました。終戦後にも更に死の危機を迎えた己の運の悪さに、これでもか!と試練を与える神を呪ったものです)。
今から考えると、九死に一生を超えた奇跡的な生還であると思います。死に直面しても、その都度、不思議と思われる程、幸運に恵まれたこと、戦友に助けられたたこと、「生きよう」という執念と精神力で、極限状態の中で死力を尽くしたことが、奇跡を生んだ、と思います。悪夢を見たような苛烈な戦場体験でした。
故国の高知に帰ると、家は焼け野原になっており、父は米軍の空襲で死亡していたことを知りました。