鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 20
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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終戦前夜、そしてシベリアヘ 井上隆晴
1、 獅子や、何処に
私が土爾池吟(トルチハ=チチハル西方約60 km)の電信第18連隊に着任したのは、昭和20年3月25日だったかと思う。
広漠たる原野の、僅かに盛り上がった台地に、1階建ての兵舎や本部などが整然と建っている。練兵場は特にない。視界を遮るものは何一つない原野が天然のそれである。
関東軍直轄の連隊とはいいながら、戦況の不利が色濃くなった17年10月に新設されただけに、在来の兵営に比べれば貧弱に見えるのはやむを得まい。建物自体も粗製乱造の誹りは免れないだろう。お世辞にも上等とは言えなかった。「中身が強ければいいではないか!」私の中に凛々たる闘志が滲み出るのを噛みしめたのである。
1期の検閲が終わって間もない現役初年兵の教育助教として、日夜職務に没頭する日が続いた。
拡大する戦線、高度に進む戦略戦術は、より高度、大量の通信機能を必要とした。それに応えなければならない。
事実、17年9月頃から、ガダルカナル、東部ニューギニア方面の戦局の悪化に伴い関東軍からの兵力の抽出転用が顕著となり、それは日を追って雪崩のように進んでいった。電信連隊も例外ではなったのである。わが連隊に隣接して駐屯していた騎兵連隊も、20年5月頃、忽然として消えてしまった。兵舎を空にして。
わが中隊の何人かが転属で出て行った。私の内務班からも、関特演で召集された古参兵長が伍長に任官して転属した。豪放轟落な人物であったが、離別の挨拶は悲痛であった。南方要員である。
連隊を挙げて、或いは師団を挙げての南方戦線への転用も日を追って凄じいものとなった。しかも、その大部分は編成装備、教育訓練の優秀な「精鋭兵団」だといた。事実、復員後目にした資料により、その厖大さに唖然とした。
わが関東軍は、日増しにやせ細ってゆく。一―一精鋭を誇った獅子や何処に。
このような緊迫した状況を裏書きするように、期待をもって創立した我が電信連隊の保有する通信機器の実態は、粗末を通り越して腹立たしいものであった。無線中隊でありながら2号乙無線機、3号甲無線機それぞれ2~3機、しかも、そのうちの何機かは機能不調である。私は泣きたい思いにかられた。これで戦えるのか!?
しかしながら、客観情勢が悲観的であるほど闘志は燃えた。一望千里、北満の漠々たる原野の中に立って遥かに東天を拝しながら、雄心鬱勃として抑えがたい思いに駆られることが、私の日課となっていた。
現役初年兵と召集された補充兵とが半々で構成された内務班では、補充兵の意気が沈滞気味である。活気がない。歯がゆい。
当時、初年兵教育に信念と情熱を持って専念する私であった。日課の合間、暇を見出しては無線機の補修に精出した。或る時は、先任の松下中尉や隊付きの丸田少尉に呼ばれて送信機を補修した。空中線電流が上がらないと苦心していた二人であったが、復調した送信機の大きく振れた空中線電流計を見て驚嘆させた。村松の訓育のたまものである。また、「故障」とされていた2号乙の受信機が無数に飛び交う電波を捉えたときは嬉しかった。しかし、捉えた電波の中にあった重慶放送やハワイの放送は、必勝の信念に燃える私を慌てさせた。私はそれを打ち消すべく自らを戒めた。20年5月、独軍の無条件降伏の前後から、ヨーロっパ戦線のソ連軍の極東への大輸送の放送も充分領けるものであった。とはいえ、これらのことは、総て私の胸に押さえ込んで密閉した。