鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 16
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鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ (編集者, 2012/10/26 7:59)
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- 鎮魂・西海に、比島に、そしてシベリアへ 32 (編集者, 2012/12/3 8:43)
編集者
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(参戦記・抜粋) その1
以上の「戦争体験」の冒頭、尾崎氏は「以前、フィリピン参戦記のタイトルで思い出話を綴り、云々」と語って居られますが、以下は、その「参戦記」の中の一節を抜粋したものです。文章は、19頁の「亡くした戦友2人」に繋がりますが、私は、この抜粋は「戦争体験」が壮絶な様々な事実を生々しく語っているのに比べ、氏自身がその戦友達の死を巡ってその時々に如何な心理状況にあったのか、また、後年、氏からその最期の模様を知らされたご遺族の心情は如何であったかを見事に描き出していると思いましたので、敢えて掲載させて頂きました。
・壮烈な戦死を遂げた池田鉄次郎君と小松君三君(参戦記・抜粋)その時に私は同期の親しい戦友を2人亡くしました。その一人・池田鉄次郎君は腹部を打抜かれ、腹の臓物を多量に露出して小屋の高い床から仰向けに上半身を下に垂らした格好で即死していました。その凄惨な姿に私は思わず目をそむけました。多分逃げる間もなく直撃を受けたに違いありません。また、小屋の近くの窪みで誰かが呻いていました。それが小松君三君でした。驚いて駆け寄ったところ彼には顎がありませんでした。多分、破片が当たって、もぎ取られたに違いありません。出血が激しく、急いで抱き上げました。気付いた彼はロレっの回らぬ声で、尾崎!、尾崎!一一と何度も何度も私の名前ばかり呼び続けました。「しっかりしろ」励ましましたが、彼の声は次第に小さくなり、僅か5分ほどで′息が絶えました。
彼を横にした後、すぐ近くの河原に出て夜明けを待っことにしました。他の者達はどうなったのだろう一一気になりましたが小屋のある方は深沈とした暗闇で何も見えません。辺りを見回しても誰もいません。川面は薄明かりに反射して不気味に輝いていました。時折遠くの方で迫撃砲の発射音がしましたが、日標は他の方向らしく着弾音は聞こえません。砲撃に眠りを覚まされた名も知らぬ鳥の異様な鳴き声が時々気味悪く聞こえる以外は物音一っなく寂とした静寂に包まれていました。気が狂いそうな恐怖で胸が苦しく身体が小刻みに震えました。
奇跡的に私の外に、たった一人だけがほぼ無傷で生きていました。また、その他に、一人の兵隊が右膝を負傷し、青ざめた顔をして高い小屋の床の上に座っていました。
負傷者は面長の浅黒い40歳過ぎの兵で、大人しい優しい感じの人でした。「怖かった。砲撃に驚いて起き上がった瞬間、膝に破片を受けて動けなくなった。その後も砲撃が続いたので生きた心地がせず、ただ神に祈っていた」と言いました。
右膝を負傷し衣類を幾重にも包帯代わりに巻き付けていましたが、それでも血がべっとり滲んでおり、可なりの重傷のように思えました。出血も激しいようで顔色も悪く、「あまり痛くはないが、歩けない。動けない」と悲痛な声で訴えました。
敗残の戦場で歩けないことは死を宣告されるに等しく、彼も充分承知の筈で、慰める言葉がありません。
ところが、無傷の若い兵隊は、「もうとてもこんなところには居られない。俺は怖いから逃げる」と言い残して直ぐ何処かへそそくさと立ち去ってしまいました。
「自分本位の薄情な奴」と腹が立ちましたが、この敗戦最中の戦場では世の常識が通用しないことを改めて知らされた思いがしました。
午後、非常用に残してあったコメを1合ほど粥にして炊き、負傷者と分け合って食べました。
久しぶりの米の飯で、彼も喜んでくれました。でも私の下痢と血便は依然として止まりません。食ったらすぐに下腹部が痛み排便すると血の混じった粘液が出ました。相談する者は誰もいません。これからどうすれば良いか、途方に暮れました。部隊はとっくに散り散りになり、相談する戦友も上官もいない、負傷者を手当てする軍医、衛生兵も勿論いない、薬も包帯も無いのです。
二人の命を繋ぐ食糧も残りは僅かです。さりとて、このまま重傷者を残して立ち去ることは出来ません。思案に暮れ、その夜は前夜と同じ河原の石ころの上で寝ました。心に受けた衝撃が大きくてなかなか眠られずにいた時、またも風を切る砲弾の飛来音に驚いて飛び起きました。生き残った者を徹底的に残滅しよう、という駄目押しの攻撃です。今度は薄明るい河原伝いに川下に向かって逃げました。砲撃は十数発ほどですぐ静かになりましたがヽ元のところに戻るのは怖ろしく、その夜は遠く離れた場所で寝ました。