チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり>
- このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
- このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています
投稿ツリー
- チョッパリの邑 (21) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/28 7:07)
- チョッパリの邑 (22) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/29 7:36)
- チョッパリの邑 (23) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/30 7:39)
- チョッパリの邑 (24) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/31 15:39)
- チョッパリの邑 (25) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/1 7:56)
- チョッパリの邑 (26) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/2 6:56)
- チョッパリの邑 (27) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/3 7:22)
- チョッパリの邑 (28) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/4 7:19)
- チョッパリの邑 (29) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/5 8:04)
- チョッパリの邑 (30) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/6 7:43)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
ブタ小屋地獄の冬
そうこうしながら、十月に入ると又々寒い北風が吹き始め、北朝鮮三度目の冬がやってきた。
寒さには慣れてきたとはいうものの、環境と健康状態が前年までと大きく違うから、寒さは骨の髄《ずい》まで染み込む感じ。「豚小屋」は入り口の筵《むしろ》を外して手製の板扉を打ち付けはしたが、それでも隙間風が否応なく入り込んでくるので、家の中でも何枚か着込んで寒さを凌《しの》がなければならない。寝る時も布団をかける分一枚ぐらいは脱いでも、昼間とあまり変わらない姿で六人がごろ寝することになる。
家の中には風呂がなく、ゆったりとお湯に浸かった記億もないから、たまにお湯で身体を拭くだけでは当然の如く身体も温まらないばかりか、清潔とは無縁ということでもあって、必然的に蚤《のみ》、虱《しらみ》、南京虫《なんきんむし》が湧いて寝ながらボリボリ。或る晩など、痒《かゆ》くて眠れないので起きて下着を調べると、縫い日に沿って白い虱と黒い南京虫が行列している。眠い目をこすりながら爪でプツリ・プツリ、作業に小一時間はかかったろうか。作業が済んで横になったが今度は日が冴えて眠れない。暗い天井を見ながら耳を澄ますと「サワサワ」と何かが動いている音がかすかに聞こえる。気持ち悪くなって父を起こすと、音を間いて、「ああ、南京虫が障子《しょうじ》を這ってる音だ」というと「そんなことで起こすな」とばかり平気な顔をして、またブウブウ寝てしまった。
とにかくひどい家で不衛生な生活環境だったし、栄養状態も良くなかったけれども、一家揃って病気らしい病気をしなかったのは不思議といえば不思議、結局は気が張っていたお陰であったのだろう。
その頃になると、相変わらず「チョツパリ」の声は聞こえたものの、朝鮮人の嫌がらせも少しずつ減って、周辺の山に出かけ竈《かまど》とオンドル用燃料として薪を調達することぐらいはできるようになっていたから、子供の仕事として毎日のようにやらされた。
取ってきた薪は鋸《のこぎり》で適当な長さに切り、斧《おの》で割る。もともと運動は好きだったし感も悪くなかったから薪割りは得意で、隣近所の手伝いも買って出るほど。感謝されれば嬉しくなって、得意先は増えていった。
遊びの方も「ケイシン」は相変わらず怖かったけど、段々と行動範囲が広がっていった。周りには用水池がたくさんあって、氷さえ張ればリンクに困ることはない。しかしスケート靴がなかったから、またソリを作って滑ることしかできなかった。
用水池は小さいものが多くて凍るのも早い。といっても周囲から凍り始め、子供といえども何人かが一緒に乗って池全体が大丈夫となるには半月はかかる。待ち遠しくて未だミシミシ音がする水に乗ってはズブズブと落ち込んだこともあったが、今考えるとよく風邪を引かなかったものだ。
池の水で不思議だったのは、最初は平面に凍るが、寒さも増して木枯らしが何度か吹くと、氷が池の真中から次第に淵《ふち》へ吹き寄せられ丁度スノーボード用のハーフパイプ型の氷が出来上がる。従ってスケートで滑るよりソリの方が面白いから、早くハープパイプになれと願ったものである。
そうこうしながら、十月に入ると又々寒い北風が吹き始め、北朝鮮三度目の冬がやってきた。
寒さには慣れてきたとはいうものの、環境と健康状態が前年までと大きく違うから、寒さは骨の髄《ずい》まで染み込む感じ。「豚小屋」は入り口の筵《むしろ》を外して手製の板扉を打ち付けはしたが、それでも隙間風が否応なく入り込んでくるので、家の中でも何枚か着込んで寒さを凌《しの》がなければならない。寝る時も布団をかける分一枚ぐらいは脱いでも、昼間とあまり変わらない姿で六人がごろ寝することになる。
家の中には風呂がなく、ゆったりとお湯に浸かった記億もないから、たまにお湯で身体を拭くだけでは当然の如く身体も温まらないばかりか、清潔とは無縁ということでもあって、必然的に蚤《のみ》、虱《しらみ》、南京虫《なんきんむし》が湧いて寝ながらボリボリ。或る晩など、痒《かゆ》くて眠れないので起きて下着を調べると、縫い日に沿って白い虱と黒い南京虫が行列している。眠い目をこすりながら爪でプツリ・プツリ、作業に小一時間はかかったろうか。作業が済んで横になったが今度は日が冴えて眠れない。暗い天井を見ながら耳を澄ますと「サワサワ」と何かが動いている音がかすかに聞こえる。気持ち悪くなって父を起こすと、音を間いて、「ああ、南京虫が障子《しょうじ》を這ってる音だ」というと「そんなことで起こすな」とばかり平気な顔をして、またブウブウ寝てしまった。
とにかくひどい家で不衛生な生活環境だったし、栄養状態も良くなかったけれども、一家揃って病気らしい病気をしなかったのは不思議といえば不思議、結局は気が張っていたお陰であったのだろう。
その頃になると、相変わらず「チョツパリ」の声は聞こえたものの、朝鮮人の嫌がらせも少しずつ減って、周辺の山に出かけ竈《かまど》とオンドル用燃料として薪を調達することぐらいはできるようになっていたから、子供の仕事として毎日のようにやらされた。
取ってきた薪は鋸《のこぎり》で適当な長さに切り、斧《おの》で割る。もともと運動は好きだったし感も悪くなかったから薪割りは得意で、隣近所の手伝いも買って出るほど。感謝されれば嬉しくなって、得意先は増えていった。
遊びの方も「ケイシン」は相変わらず怖かったけど、段々と行動範囲が広がっていった。周りには用水池がたくさんあって、氷さえ張ればリンクに困ることはない。しかしスケート靴がなかったから、またソリを作って滑ることしかできなかった。
用水池は小さいものが多くて凍るのも早い。といっても周囲から凍り始め、子供といえども何人かが一緒に乗って池全体が大丈夫となるには半月はかかる。待ち遠しくて未だミシミシ音がする水に乗ってはズブズブと落ち込んだこともあったが、今考えるとよく風邪を引かなかったものだ。
池の水で不思議だったのは、最初は平面に凍るが、寒さも増して木枯らしが何度か吹くと、氷が池の真中から次第に淵《ふち》へ吹き寄せられ丁度スノーボード用のハーフパイプ型の氷が出来上がる。従ってスケートで滑るよりソリの方が面白いから、早くハープパイプになれと願ったものである。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
警察署の便所掃除便役
日本人会の仕事も相変わらずで、便利にこき使われていた。
そんな仕事のなかで一番嫌だったのが警察署の掃除係。言わば一種の使役《しえき=雑役をさせられる》である。
十一月も半ばを過ぎた頃だったろうか、或る寒い日のこと。
日本人会から「警察の掃除係りを要請されたので誰か行って欲しい。大人は工場の仕事があるから何処かの男子に頼みたい」と依頼され、父もやむを得ず引き受けたという。
「公雄、悪いけど行ってくれないか」。一週間に一度、二人ずつの交代勤務で八人が選ばれたとのこと。つまり毎月一回は行かされる計算である。時間を聞くと早朝の六時から七時との答え。警察署には勿論今まで行ったこともないし家から三〇分ほどの場所だとすれば、家を五時半には出なければならない。今までは文句も言わず何事でもやってきたが、寒いし、怖いし、さすがに物怖《ものお》じして「嫌だ」と父に返事すると「男のくせにだらしない。もう五年生なんだから、それ位のことはしなければ」父は頑として譲らない。母も見かねたように「大人の人は誰も付いて行かないんでしょう? 二人といっても子供だけでは可哀想ですよ」と助け舟を出してくれるが、言い出したら聞かない父の性格も知っているから、それ以上は言葉も続かず「仕方ないか」と黙り込んでしまう。
翌朝が当番という夜になって最後の反抗を試みたが、父は相変わらず首を横に振るばかり。母も諦めて「辛いだろうけど行って頂戴」と、今度は懇請作戦。私も嫌だが行かざるを得ないと覚悟を決めた。
しかし、当日五時に母親に起こされ、これでもかと言うほどの防寒着を着せられて送り出される時には、何故こんな目に遭わねばならないのかと涙が出て仕方がなかった。
父は「気をつけてな」と一言。母もさすがに辛かったのか、肩を抱くように出口までくると「大丈夫よ」というとすぐ家の中へ消えた。涙は見えなかったが、様子から察すると恐らく泣いていたのではなかったろうか。
同行する友達「シゲちゃん」の家まで迎えに行くと、彼も同じように母親に諭されながら出てきた。
「おはよう」、「おはよう。じゃ行こうか」。
お互いに不承不承《ふしょうぶしょう》だから、声もこもりがちである。
とにかく私たちにとって、こんな時間の外出は生まれて初めて。外は真っ暗、物音一つしない静けさで、しかも寒さは防寒着を通して肌に突き刺さるようだ。怖さと寒さが一緒になって震えは止まらない。彼も私も暫くは無言のまま、首と手をすくめて歩いていたが、何とか早くこの闇と寒さからは逃れたいと途中から小走りになっていた。
警察署までの道は事前に地図を見て調べてあったから迷うことはなかったが、途中には朝鮮人部落があるのが嫌だった。しかしこの時間では起きている者も少なかったから、幸いなことに「チョッパリ」と苛《いじ》められることもなく、目的地には思ったより早く着くことができて取りあえず胸をなでおろす。
警察署には深夜当番の警官一人が待ち受けており、日本語で「入れ」と命令するのに従って中に入った。
中は日本の交番を三つ、四つ集めた程の広さだったから、地方の支署と思われ、少しばかり書類を積み上げた机が五、六個ある大部屋のほか、隣には応接用の小部屋と台所、便所が付いている。大部屋には小さいストーブがあって少しは温かいが、台所や便所は外と同じように寒い。
警察官の指図に従って、着てきた防寒着一枚と手袋、帽子を脱ぐと早速作業開始である。
「道具は台所にあるから、それを使って先ず便所からやれ」
見下したような彼の言葉は癪《しゃく》に障《さわ》るが、命じられるまま台所からバケツ・雑巾《ぞうきん》・タワシを持ち出して作業にかかる。掃除といわれていたから単に部屋を掃いたり拭いたりする程度と思っていたから、「先ず便所」といわれて腹立たしかったが、仕方がない。
シゲちゃんと顔を見合わせながら、凍ってチョロチョロしか出ない水をバケツに貯めると、先ずその便所から取り掛かった。家でも学校でも便所掃除などやったこともないから、どうやるのか先ず要領がわからない。目の前にある旧式の便器は、大も小も手の施しようがないという程ではないが、汚れて臭い。ままよとばかりに水をかけ、そっとタワシで擦ってみると多少は汚れも落ちるようだ。とにかく「早く終えたい」の一心で、水をかけてはゴシゴシ擦る作業を繰り返し、半分ほどいったところで手の感覚がなくなってきた。一旦手を洗いポケットにつっこんで暖め、また取り掛かる。
最初のうちは「何故僕らがこんなことをしなければならないのか」と泣き出したい思いで始めた作業であったが、途中からは[寒さと冷たさ]で「汚い・臭い」の感覚も麻痺《まひ》して、ただただ身体と手が勝手に勤いているといったありさま。
最後に残った水を土間にぶちまける頃には、涙の出るのも通り越していた。
二〇分程で便所掃除を済ますと今度は部屋の掃除。こちらは掃いたり、拭いたりで、先ほどと違って楽なもの、とはいえ雑巾がけは冷たくて手は凍りつくよう。
全ての作業を終える頃、ようやく外が明るくなってきた。
交代の警察官もきて彼らは二人になっていたが、夜勤の警官が我々の仕事を点検すると、ご苦労さん、でもなく「よし、帰っていいぞ」と独り言のように呟《つぶや》く言葉で、我々二人のおぞましい使役はようやく終わったのである。
しかし仕事は終わっても、家に帰り着くまでの怖い道程が待ち構えている。
「シゲちゃん走ろう」、二人して駆け出した。
息を切らしながら我が家にたどり着くと、両親も心配していたとみえて
「ご苦労さんだったね」、「偉かったぞ」と労いの言葉をかけてくれる。
同居人の栗原さんも「公雄君は大したものだ。僕だったらできないな」と、お世辞とはいえ、我が子のように誉《ほ》めてくれた。
用意してくれていた温かい朝食は、粗末であっても美味しくて、辛かった「仕事」を忘れさせてくれる。
「それで仕事の方はどうだった?」。
父の問いに、食事をかきこみながら一部始終を報告すると、母は再び「本当によくやったね。でも便所掃除までとは」というと、あとは声を詰まらせる。父も安心したように笑顔を作りながら黙って頷《うなづ》いている。私にも「辛かったけど役に立ったのだ」という実感が湧いていた。
日本人会の仕事も相変わらずで、便利にこき使われていた。
そんな仕事のなかで一番嫌だったのが警察署の掃除係。言わば一種の使役《しえき=雑役をさせられる》である。
十一月も半ばを過ぎた頃だったろうか、或る寒い日のこと。
日本人会から「警察の掃除係りを要請されたので誰か行って欲しい。大人は工場の仕事があるから何処かの男子に頼みたい」と依頼され、父もやむを得ず引き受けたという。
「公雄、悪いけど行ってくれないか」。一週間に一度、二人ずつの交代勤務で八人が選ばれたとのこと。つまり毎月一回は行かされる計算である。時間を聞くと早朝の六時から七時との答え。警察署には勿論今まで行ったこともないし家から三〇分ほどの場所だとすれば、家を五時半には出なければならない。今までは文句も言わず何事でもやってきたが、寒いし、怖いし、さすがに物怖《ものお》じして「嫌だ」と父に返事すると「男のくせにだらしない。もう五年生なんだから、それ位のことはしなければ」父は頑として譲らない。母も見かねたように「大人の人は誰も付いて行かないんでしょう? 二人といっても子供だけでは可哀想ですよ」と助け舟を出してくれるが、言い出したら聞かない父の性格も知っているから、それ以上は言葉も続かず「仕方ないか」と黙り込んでしまう。
翌朝が当番という夜になって最後の反抗を試みたが、父は相変わらず首を横に振るばかり。母も諦めて「辛いだろうけど行って頂戴」と、今度は懇請作戦。私も嫌だが行かざるを得ないと覚悟を決めた。
しかし、当日五時に母親に起こされ、これでもかと言うほどの防寒着を着せられて送り出される時には、何故こんな目に遭わねばならないのかと涙が出て仕方がなかった。
父は「気をつけてな」と一言。母もさすがに辛かったのか、肩を抱くように出口までくると「大丈夫よ」というとすぐ家の中へ消えた。涙は見えなかったが、様子から察すると恐らく泣いていたのではなかったろうか。
同行する友達「シゲちゃん」の家まで迎えに行くと、彼も同じように母親に諭されながら出てきた。
「おはよう」、「おはよう。じゃ行こうか」。
お互いに不承不承《ふしょうぶしょう》だから、声もこもりがちである。
とにかく私たちにとって、こんな時間の外出は生まれて初めて。外は真っ暗、物音一つしない静けさで、しかも寒さは防寒着を通して肌に突き刺さるようだ。怖さと寒さが一緒になって震えは止まらない。彼も私も暫くは無言のまま、首と手をすくめて歩いていたが、何とか早くこの闇と寒さからは逃れたいと途中から小走りになっていた。
警察署までの道は事前に地図を見て調べてあったから迷うことはなかったが、途中には朝鮮人部落があるのが嫌だった。しかしこの時間では起きている者も少なかったから、幸いなことに「チョッパリ」と苛《いじ》められることもなく、目的地には思ったより早く着くことができて取りあえず胸をなでおろす。
警察署には深夜当番の警官一人が待ち受けており、日本語で「入れ」と命令するのに従って中に入った。
中は日本の交番を三つ、四つ集めた程の広さだったから、地方の支署と思われ、少しばかり書類を積み上げた机が五、六個ある大部屋のほか、隣には応接用の小部屋と台所、便所が付いている。大部屋には小さいストーブがあって少しは温かいが、台所や便所は外と同じように寒い。
警察官の指図に従って、着てきた防寒着一枚と手袋、帽子を脱ぐと早速作業開始である。
「道具は台所にあるから、それを使って先ず便所からやれ」
見下したような彼の言葉は癪《しゃく》に障《さわ》るが、命じられるまま台所からバケツ・雑巾《ぞうきん》・タワシを持ち出して作業にかかる。掃除といわれていたから単に部屋を掃いたり拭いたりする程度と思っていたから、「先ず便所」といわれて腹立たしかったが、仕方がない。
シゲちゃんと顔を見合わせながら、凍ってチョロチョロしか出ない水をバケツに貯めると、先ずその便所から取り掛かった。家でも学校でも便所掃除などやったこともないから、どうやるのか先ず要領がわからない。目の前にある旧式の便器は、大も小も手の施しようがないという程ではないが、汚れて臭い。ままよとばかりに水をかけ、そっとタワシで擦ってみると多少は汚れも落ちるようだ。とにかく「早く終えたい」の一心で、水をかけてはゴシゴシ擦る作業を繰り返し、半分ほどいったところで手の感覚がなくなってきた。一旦手を洗いポケットにつっこんで暖め、また取り掛かる。
最初のうちは「何故僕らがこんなことをしなければならないのか」と泣き出したい思いで始めた作業であったが、途中からは[寒さと冷たさ]で「汚い・臭い」の感覚も麻痺《まひ》して、ただただ身体と手が勝手に勤いているといったありさま。
最後に残った水を土間にぶちまける頃には、涙の出るのも通り越していた。
二〇分程で便所掃除を済ますと今度は部屋の掃除。こちらは掃いたり、拭いたりで、先ほどと違って楽なもの、とはいえ雑巾がけは冷たくて手は凍りつくよう。
全ての作業を終える頃、ようやく外が明るくなってきた。
交代の警察官もきて彼らは二人になっていたが、夜勤の警官が我々の仕事を点検すると、ご苦労さん、でもなく「よし、帰っていいぞ」と独り言のように呟《つぶや》く言葉で、我々二人のおぞましい使役はようやく終わったのである。
しかし仕事は終わっても、家に帰り着くまでの怖い道程が待ち構えている。
「シゲちゃん走ろう」、二人して駆け出した。
息を切らしながら我が家にたどり着くと、両親も心配していたとみえて
「ご苦労さんだったね」、「偉かったぞ」と労いの言葉をかけてくれる。
同居人の栗原さんも「公雄君は大したものだ。僕だったらできないな」と、お世辞とはいえ、我が子のように誉《ほ》めてくれた。
用意してくれていた温かい朝食は、粗末であっても美味しくて、辛かった「仕事」を忘れさせてくれる。
「それで仕事の方はどうだった?」。
父の問いに、食事をかきこみながら一部始終を報告すると、母は再び「本当によくやったね。でも便所掃除までとは」というと、あとは声を詰まらせる。父も安心したように笑顔を作りながら黙って頷《うなづ》いている。私にも「辛かったけど役に立ったのだ」という実感が湧いていた。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
「帰還」の日を待ちわびながら辛い日々を送っていたころ、朝鮮では
こういう辛い日々を過ごしながらも月日は経って、また新しい年が巡ってきた。
この間十二月にはまた便所掃除もある筈だったが、どういうわけか取りやめになって苦行が一回で済んだのは、私にとってまことに幸いなことではあった。
二十一年の正月は、さすがに「おせち料理」もなく寂しいものではあったが、皆が元気で新年を迎えるだけでも幸せといわねばならなかった。ただ、何時までこんな生活をしなければならないのか、何時日本に帰れるのかが唯一の不安材料で、「何とかしなければ」と皆一様に考え始めていたのではなかろうか。しかし早急な手立てがある筈もなく、「そのうちには日米、日ソ、日朝の間で正式な引き揚げ交渉が成立して帰れるだろう」との淡い期待を抱きながらその日を時つよりなかったのである。
後に知り得たことながら、この頃の朝鮮は、昭和二十年八月十六日の米ソ協議によって三十八度線を境界とする占領分担が決められた後、十二月にモスクワで米・英・ソ・三国外相会議が開かれ、連合国による信託統治案が具体化されようとしていた。
この案は、独立の前提として朝鮮民主主義臨時政府の樹立を目的とし、その前段階で米・ソ・中・英が五年を期限として信託統治を行い、米ソ両軍司令官による共同委員会が助力を与えることになっていた。しかしこの内容を聞いた現地朝鮮人の各派は、左・右・中道夫々《おのおの》の思惑の違いを背景に、反対運動(反託運動)を展開して混乱のあげく、即時独立を望む民衆の心情に訴えた保守派が勢力を伸ばす状況にあった。
その後、外相会議の提案に基づき、翌二十一年三月から第一次米ソ共同委員会が開催されたものの合意に達せず、また国内でも中道派による左右合作を提唱して臨時政府樹立を図る動きもあったが、右派の韓国民主党、左派の朝鮮共産党が合作に応じず、結局五月の第二次米ソ共同委員会も決裂して、南北統一の臨時政府も樹立されることもなく、依然として南はアメリカ軍政が、北にはロシア指導の人民委員会制度が残ったのである。
南ではその後インフレと食糧不足が激化、GAR10A(占領地域救済政府資金)、EROA(占領地域経済復興援助資金)などアメリカの援助はあったものの、植民地期に海外へ出た人々の帰国、北の社会主義的改革を嫌った地主・企業家の流入などから人口は急増、経済的混乱に拍車《はくしゃ》をかけて、ストライキやデモが多発するようになっていた。
一方、北では植民地期ソ連領に逃れていた金日成がソ連軍とともに帰国するや、共産党が中心的勢力として力を得、北朝鮮を統治する人民政権の骨格が形成されようとしていた。
そして翌二十一年二月には中央行政機関として北朝鮮臨時人民委員会が組織され、彼が委員長に就任している。この人民委員会は三月には土地改革を完了するとともに、数ケ月の間に旧日本人資産の国有化法案を採択、また軍隊・警察の創設、新しい法令の制定など、北朝鮮のみを対象とする統治機構の整備を進めた。
こうして南北には米ソの影響下で夫々異なる政治体制が敷かれたが、一月二十九日に連合国最高司令官覚書《おぼえがき》で、朝鮮などの植民地を日本から分離する方針が示され、翌三十日からそれまで総督府が行っていた朝鮮関係事務が日本外務省の所管となっている。
その後、昭和二十七年に発効したサンフランシスコ平和条約で、「日本国は朝鮮の独立を承認する」と規定され、法的にも朝鮮支配に終止符が打たれることになるが、国交や賠償問題は未解決のまま先送りされたことは史実の通りである。
このような状況下、国連軍及び日本外務省に残された難問は、中国北東からの流人者を含め九十万人以上に膨《ふく》れ上がった日本人と、十八万人の旧日本軍の処遇《しょぐう=扱い》であった。
欧米の植民地では、独立後に旧支配国民が残留するケースも多かったが、朝鮮では連合軍の指令によって「引き揚げ」と言う事態が始まった。
南のアメリカ軍政庁は既に二十年十月から引揚者の輸送に着手、年内にはほぼこれを完了するとともに、翌二十一年三月には日本人の残留を禁止する布告まで出している。
特に軍政庁が引き揚げを急がせたのは、軍人、神官《=神職、神主》、芸妓《げいぎ》・娼妓《しょうぎ=遊女》という、日本の植民地支配の先兵となった人々であった。神官については敗戦直後から朝鮮の神社で「昇神式」という儀式が行われ、神社破壊を恐れた神官が神体の焼却、埋蔵《まいぞう》するなどの行為が頻発《ひんぱつ》していたためともいわれる。
しかし、この民間人九十万、軍人十八万が南北にどのような割合で居留していたのか、南から引き揚げた人数がこの内どれほどだったのかが不明である。
つまり北では軍人と一部の民間人がこの「引き揚げ」対象になったことは想像されるが、私たちの耳には一切「引き揚げ」の[ひ]の字も届いていなかったし、私たちと同じような苦難を味わいながら正式な「引き揚げ」もできず、「抑留」生活を余儀なくさせられたまま、その生活にも耐え切れなくなって、無謀な逃亡を企てて三十八度線越えに成功した人、命を落とした人の話を、のちのち数限りなく聞くと、少なくとも数万人が「引き揚げ」の対象外となって北に残されたのではないかと思われる。
ただ何故、対象外になったのか理由が今もってよく解らない。犯罪人または人質として拘留《こうりゅう》するには当時の食糧事情が許さなかっただろうし、距離が遠くて費用が嵩《かさ》むということも日本に負担させれば済むことで、これも理由にならない。
考えられることは二つ、それもかなり穿《うが》った見方かも知れないが、あながち見当外れとも思われないのは、(1)植民地期、それも昭和初期に日本が推進した工業化政策と北部朝鮮の開発、そして昭和十一年から太平洋戦争初期にかけて進められた大陸兵站《へいたん=後方連絡の確保》基地化政策によって、特に北朝鮮には大規模な電力開発とともに化学肥料・セメント・油脂・火薬・航空機燃料・合成ゴムのほか鉄鋼・軽金属などの重工業・軍需工場が続々と整備され、産業の地理的配置は、北に電力・重化学工業、南に軽工業・農業と極端な偏在が見られたこと。(2)北には昭和二十一年に統治機構として北朝鮮人民委員会が作られて事実上の単独政権が成立し、その後二十二年に人民会議、人民委員会から構成される社会主義政権が確立することとなるが、二十一年当時から既に北朝鮮を民主主義の根拠地として強化し、アメリカ軍政下の南朝鮮を解放すべしとの「民主基地論」が背景にあって、アメリカ主導の連合国とは対峙《たいじ》する関係にあったこと。
この二つを理由として、終戦後の資材不足とはいいながら、これらの工業生産を再び軌道に乗せ、社会主義国家発展の基盤を確保したいと考えた、そのためには民間人であっても過去の抑圧者で準犯罪人たる日本人従事者を全員帰還させることに同意できなかった、と考えられなくもない。
こういう辛い日々を過ごしながらも月日は経って、また新しい年が巡ってきた。
この間十二月にはまた便所掃除もある筈だったが、どういうわけか取りやめになって苦行が一回で済んだのは、私にとってまことに幸いなことではあった。
二十一年の正月は、さすがに「おせち料理」もなく寂しいものではあったが、皆が元気で新年を迎えるだけでも幸せといわねばならなかった。ただ、何時までこんな生活をしなければならないのか、何時日本に帰れるのかが唯一の不安材料で、「何とかしなければ」と皆一様に考え始めていたのではなかろうか。しかし早急な手立てがある筈もなく、「そのうちには日米、日ソ、日朝の間で正式な引き揚げ交渉が成立して帰れるだろう」との淡い期待を抱きながらその日を時つよりなかったのである。
後に知り得たことながら、この頃の朝鮮は、昭和二十年八月十六日の米ソ協議によって三十八度線を境界とする占領分担が決められた後、十二月にモスクワで米・英・ソ・三国外相会議が開かれ、連合国による信託統治案が具体化されようとしていた。
この案は、独立の前提として朝鮮民主主義臨時政府の樹立を目的とし、その前段階で米・ソ・中・英が五年を期限として信託統治を行い、米ソ両軍司令官による共同委員会が助力を与えることになっていた。しかしこの内容を聞いた現地朝鮮人の各派は、左・右・中道夫々《おのおの》の思惑の違いを背景に、反対運動(反託運動)を展開して混乱のあげく、即時独立を望む民衆の心情に訴えた保守派が勢力を伸ばす状況にあった。
その後、外相会議の提案に基づき、翌二十一年三月から第一次米ソ共同委員会が開催されたものの合意に達せず、また国内でも中道派による左右合作を提唱して臨時政府樹立を図る動きもあったが、右派の韓国民主党、左派の朝鮮共産党が合作に応じず、結局五月の第二次米ソ共同委員会も決裂して、南北統一の臨時政府も樹立されることもなく、依然として南はアメリカ軍政が、北にはロシア指導の人民委員会制度が残ったのである。
南ではその後インフレと食糧不足が激化、GAR10A(占領地域救済政府資金)、EROA(占領地域経済復興援助資金)などアメリカの援助はあったものの、植民地期に海外へ出た人々の帰国、北の社会主義的改革を嫌った地主・企業家の流入などから人口は急増、経済的混乱に拍車《はくしゃ》をかけて、ストライキやデモが多発するようになっていた。
一方、北では植民地期ソ連領に逃れていた金日成がソ連軍とともに帰国するや、共産党が中心的勢力として力を得、北朝鮮を統治する人民政権の骨格が形成されようとしていた。
そして翌二十一年二月には中央行政機関として北朝鮮臨時人民委員会が組織され、彼が委員長に就任している。この人民委員会は三月には土地改革を完了するとともに、数ケ月の間に旧日本人資産の国有化法案を採択、また軍隊・警察の創設、新しい法令の制定など、北朝鮮のみを対象とする統治機構の整備を進めた。
こうして南北には米ソの影響下で夫々異なる政治体制が敷かれたが、一月二十九日に連合国最高司令官覚書《おぼえがき》で、朝鮮などの植民地を日本から分離する方針が示され、翌三十日からそれまで総督府が行っていた朝鮮関係事務が日本外務省の所管となっている。
その後、昭和二十七年に発効したサンフランシスコ平和条約で、「日本国は朝鮮の独立を承認する」と規定され、法的にも朝鮮支配に終止符が打たれることになるが、国交や賠償問題は未解決のまま先送りされたことは史実の通りである。
このような状況下、国連軍及び日本外務省に残された難問は、中国北東からの流人者を含め九十万人以上に膨《ふく》れ上がった日本人と、十八万人の旧日本軍の処遇《しょぐう=扱い》であった。
欧米の植民地では、独立後に旧支配国民が残留するケースも多かったが、朝鮮では連合軍の指令によって「引き揚げ」と言う事態が始まった。
南のアメリカ軍政庁は既に二十年十月から引揚者の輸送に着手、年内にはほぼこれを完了するとともに、翌二十一年三月には日本人の残留を禁止する布告まで出している。
特に軍政庁が引き揚げを急がせたのは、軍人、神官《=神職、神主》、芸妓《げいぎ》・娼妓《しょうぎ=遊女》という、日本の植民地支配の先兵となった人々であった。神官については敗戦直後から朝鮮の神社で「昇神式」という儀式が行われ、神社破壊を恐れた神官が神体の焼却、埋蔵《まいぞう》するなどの行為が頻発《ひんぱつ》していたためともいわれる。
しかし、この民間人九十万、軍人十八万が南北にどのような割合で居留していたのか、南から引き揚げた人数がこの内どれほどだったのかが不明である。
つまり北では軍人と一部の民間人がこの「引き揚げ」対象になったことは想像されるが、私たちの耳には一切「引き揚げ」の[ひ]の字も届いていなかったし、私たちと同じような苦難を味わいながら正式な「引き揚げ」もできず、「抑留」生活を余儀なくさせられたまま、その生活にも耐え切れなくなって、無謀な逃亡を企てて三十八度線越えに成功した人、命を落とした人の話を、のちのち数限りなく聞くと、少なくとも数万人が「引き揚げ」の対象外となって北に残されたのではないかと思われる。
ただ何故、対象外になったのか理由が今もってよく解らない。犯罪人または人質として拘留《こうりゅう》するには当時の食糧事情が許さなかっただろうし、距離が遠くて費用が嵩《かさ》むということも日本に負担させれば済むことで、これも理由にならない。
考えられることは二つ、それもかなり穿《うが》った見方かも知れないが、あながち見当外れとも思われないのは、(1)植民地期、それも昭和初期に日本が推進した工業化政策と北部朝鮮の開発、そして昭和十一年から太平洋戦争初期にかけて進められた大陸兵站《へいたん=後方連絡の確保》基地化政策によって、特に北朝鮮には大規模な電力開発とともに化学肥料・セメント・油脂・火薬・航空機燃料・合成ゴムのほか鉄鋼・軽金属などの重工業・軍需工場が続々と整備され、産業の地理的配置は、北に電力・重化学工業、南に軽工業・農業と極端な偏在が見られたこと。(2)北には昭和二十一年に統治機構として北朝鮮人民委員会が作られて事実上の単独政権が成立し、その後二十二年に人民会議、人民委員会から構成される社会主義政権が確立することとなるが、二十一年当時から既に北朝鮮を民主主義の根拠地として強化し、アメリカ軍政下の南朝鮮を解放すべしとの「民主基地論」が背景にあって、アメリカ主導の連合国とは対峙《たいじ》する関係にあったこと。
この二つを理由として、終戦後の資材不足とはいいながら、これらの工業生産を再び軌道に乗せ、社会主義国家発展の基盤を確保したいと考えた、そのためには民間人であっても過去の抑圧者で準犯罪人たる日本人従事者を全員帰還させることに同意できなかった、と考えられなくもない。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
一縷《いちる》の望みを持って過ごす日々
北朝鮮における社会主義政権化の動きは、金日成が主導する共産党によってこの頃から極めて統一的に徹底して行われたと思われるのは、戦時中日本が「皇民化」政策を学校教育に持ち込んだように、教室では社会主義思想が唯一の教条《公認した協議を箇条として表現したもの》として教えられたことが、子供達が遊びながら朝鮮語で歌う「インター」によっても窺《うかが》い知れた。
私たちには強制こそされなかったが、彼らの歌を聞きながら自然に覚えて歌うようになり、また、そうすることが彼らに親近感を持たせるのか以前ほど敵愾心《てきがいしん》を顕《あらわ》にしなくなったので、こちらも得たりとばかりに口ずさみながら遊んだものである。
しかし親達にしてみれば、「生き延びること」、「帰ること」に心を砕いていた筈で、無邪気《むじゃき》とは思っても決して心地よくはなかったろうし、「そんな歌は止めなさい」と不満顔にいわれたことも思い出す。
曲は帰国後暫くして、社会主義・共産主義にかぶれた連中が歌うのを開いて「ああ、あの歌か」と不思議な感覚であったが、朝鮮語の歌詞はもう忘れてしまっていた。
こうした状況の中で、南楊市・三井軽金属日本人会はとにもかくにも「引き揚げ」実現に向けて積極的な運動を展開したにも拘わらず、何処からも一向に承認が出ないまま、私達は酷寒の地で寒さに震えながら、徒《いたずら》に時は流れていたのである。
この頃になると食料事情は更に悪化し、米は勿論のこと、トウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》ですら配給量は減って、「腹減ったな!」、「何か美味いものが食べたいな!」と口にすることが増えていた。そして当然ながら食料不足を補う「仕事」に精を出さなければならなかった。
三寒四温の春がまたまたやってきて他の氷が溶け始めると、蛋白質補給のための魚獲り作業ができるようになる。水が冷たい時は魚も動きが鈍く、鯉《こい》や鮒《ふな》など大型のものがザルなどで容易く掬い取ることができた。また初めのうちひどかった朝鮮人の苛《いじ》めも減ってきていたから、行動範囲も少しは広くなり、また父に頼むと何処かで釣り糸や針も仕入れてきてくれたので、こうした道具を持って少し遠くまで魚釣りに出かけることが多くなっていた。
釣りは鮒に始まり鮒に終わるというほどで、釣りを趣味とする人には面白くて難しい釣りであるが、私たちの場合は食べるための「仕事」である。数多くある池には鮒がたくさんいて、朝鮮の太公望《たいこうぼう=釣り人の異称》が朝から糸を垂れる姿を見かけ、彼らも私たちを差ほど毛嫌いしなくなっていたから、側に寄って行っては釣る様子を見たりしていた。
確かに「難しい」釣りで、こちらには容易には掛かってくれないが、彼らは次から次へとものにしている。不思議に思って餌を見ると、こちらの方が食べたい「ご飯粒」。それでいいのかと少し分けて貰い針に付けて放り込むと、私たちのミミズやトウモロコシの団子ではピクリともしない浮きが沈むようになる。
「ここの鮒もやはりご飯が食べたいのか」と変な同情をしながら、その日は数尾をあげることに成功、夜の大変なご馳走《ごちそう》になってくれた。
それからは毎日のように、家にあるなけなしの米粒をもって鮒釣りに精を出す日が続いた。
春もたけなわとなって水がぬるむと、今度はウナギである。
池には奴らが鮒よりもたくさんいて、面白いようによく獲れた。たこ糸に大き目の針をつけ田んぼの畦《あぜ=田んぼの境界を作る区切り》で捕ったドジョウを餌に付けて、夕方何本か放り込んでおく。勿論端《はし》っこは五〇センチほどの棒くいでしっかり岸に繋ぎとめ、翌朝早くこれを引き上げるのだ。掛かっていると糸がピンと伸びているのですぐわかる。 「しめた」と膝《ひざ》上まで水に入りこれを引き上げると、大きいのはIメートル近く、小さくとも五〇センチのウナギが手ごたえ豊かに上がってくる。一〇本仕掛けると三~四本には掛かったから確率は四割に近く、とにかく面白いように獲れて、初めは毎日のように仕事に励む日々であった。
持ち帰った獲物は自分で捌《さば》く。普通の菜きり包丁ではうまくいかないので、道具は「肥後の守《ひごのかみ=小刀の一種、折り込み式で柄も鉄製》」。まな板に頭を錐《きり》で打ちつけ背開きにしたあと頭を切り落し、大物は三つから四つ、小物は二つにして蒲焼《かばやき》の下ごしらえは出来上がる。あとは母が、貴重な醤油と当時砂糖は手に入らず、サッカリンやズルチンなどの人工甘味料もなかったから、トウキビから絞り出した汁を甘味にして作ったタレを付けて蒲焼の出来上がり。少し辛めだが美味くて、これまた貴重で滅多に口にできない米の飯を少しばかり炊いて、その上に乗せると極上のウナ丼になる。ただ、米のご飯はやたらに食べられないが、粟や黍《きび》のご飯であっても蒲焼は蒲焼であって、久しぶりに「美味いものにありつけた」と皆が満足してくれた時は、私としても仕事のし甲斐《しがい》があったと本当に嬉しかった。
しかし、或る日その美味そうな臭いを嗅ぎつけた近所の朝鮮人が、「贅沢なものを食べている」、「けしがらん奴は誰だ」と日本人会に怒鳴り込んできた、と忠告され唖然《あぜん》とする。
「自分で獲ってきて勝手に作って食べて何か悪い」、「一緒に獲りに行った友達も同じように食べているのに、何故僕だけ」と思ったが、日本人会に迷惑がかかってもと、その後は少し遠慮しながらも漁は続けていた。
こうして蛋白質《たんぱくしつ》は魚で摂れ、ビタミンCも周りの野山でヨモギや野蒜を取ってきて多少とも摂取できたが、主食の穀物はどうにもならない。仕方がないから、朝鮮人農家に行っては「田植え、草むしりをやらせて欲しい。手間賃は何でもいいから穀物を分けて貰いたい」と「農作業の売り込み」をしてみる。最初は何処へ行っても、にべも無く断られるが、粘っていると子供ということに同情するのか、少しずつ仕事をくれるようになって、終わると小さな袋に稗《ひえ》・粟を、また時には米を分けてくれた。
何やら乞食のようで、と言うより実際に乞食なのだが、自分では「労働を希望し、対価を求めている」から「乞食ではない」と自ら言い聞かせて労働に励んだ。それでも初めは恥ずかしくて言葉もモゾモソ。しかし食べるためならやむを得ない。羞恥《ちじょく》心を捨てると、後はごく自然に「お願いします」と元気良く声が出るようになって収穫も少しずつ増え、食生活の手助けができることが自慢ですらあった。
北朝鮮における社会主義政権化の動きは、金日成が主導する共産党によってこの頃から極めて統一的に徹底して行われたと思われるのは、戦時中日本が「皇民化」政策を学校教育に持ち込んだように、教室では社会主義思想が唯一の教条《公認した協議を箇条として表現したもの》として教えられたことが、子供達が遊びながら朝鮮語で歌う「インター」によっても窺《うかが》い知れた。
私たちには強制こそされなかったが、彼らの歌を聞きながら自然に覚えて歌うようになり、また、そうすることが彼らに親近感を持たせるのか以前ほど敵愾心《てきがいしん》を顕《あらわ》にしなくなったので、こちらも得たりとばかりに口ずさみながら遊んだものである。
しかし親達にしてみれば、「生き延びること」、「帰ること」に心を砕いていた筈で、無邪気《むじゃき》とは思っても決して心地よくはなかったろうし、「そんな歌は止めなさい」と不満顔にいわれたことも思い出す。
曲は帰国後暫くして、社会主義・共産主義にかぶれた連中が歌うのを開いて「ああ、あの歌か」と不思議な感覚であったが、朝鮮語の歌詞はもう忘れてしまっていた。
こうした状況の中で、南楊市・三井軽金属日本人会はとにもかくにも「引き揚げ」実現に向けて積極的な運動を展開したにも拘わらず、何処からも一向に承認が出ないまま、私達は酷寒の地で寒さに震えながら、徒《いたずら》に時は流れていたのである。
この頃になると食料事情は更に悪化し、米は勿論のこと、トウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》ですら配給量は減って、「腹減ったな!」、「何か美味いものが食べたいな!」と口にすることが増えていた。そして当然ながら食料不足を補う「仕事」に精を出さなければならなかった。
三寒四温の春がまたまたやってきて他の氷が溶け始めると、蛋白質補給のための魚獲り作業ができるようになる。水が冷たい時は魚も動きが鈍く、鯉《こい》や鮒《ふな》など大型のものがザルなどで容易く掬い取ることができた。また初めのうちひどかった朝鮮人の苛《いじ》めも減ってきていたから、行動範囲も少しは広くなり、また父に頼むと何処かで釣り糸や針も仕入れてきてくれたので、こうした道具を持って少し遠くまで魚釣りに出かけることが多くなっていた。
釣りは鮒に始まり鮒に終わるというほどで、釣りを趣味とする人には面白くて難しい釣りであるが、私たちの場合は食べるための「仕事」である。数多くある池には鮒がたくさんいて、朝鮮の太公望《たいこうぼう=釣り人の異称》が朝から糸を垂れる姿を見かけ、彼らも私たちを差ほど毛嫌いしなくなっていたから、側に寄って行っては釣る様子を見たりしていた。
確かに「難しい」釣りで、こちらには容易には掛かってくれないが、彼らは次から次へとものにしている。不思議に思って餌を見ると、こちらの方が食べたい「ご飯粒」。それでいいのかと少し分けて貰い針に付けて放り込むと、私たちのミミズやトウモロコシの団子ではピクリともしない浮きが沈むようになる。
「ここの鮒もやはりご飯が食べたいのか」と変な同情をしながら、その日は数尾をあげることに成功、夜の大変なご馳走《ごちそう》になってくれた。
それからは毎日のように、家にあるなけなしの米粒をもって鮒釣りに精を出す日が続いた。
春もたけなわとなって水がぬるむと、今度はウナギである。
池には奴らが鮒よりもたくさんいて、面白いようによく獲れた。たこ糸に大き目の針をつけ田んぼの畦《あぜ=田んぼの境界を作る区切り》で捕ったドジョウを餌に付けて、夕方何本か放り込んでおく。勿論端《はし》っこは五〇センチほどの棒くいでしっかり岸に繋ぎとめ、翌朝早くこれを引き上げるのだ。掛かっていると糸がピンと伸びているのですぐわかる。 「しめた」と膝《ひざ》上まで水に入りこれを引き上げると、大きいのはIメートル近く、小さくとも五〇センチのウナギが手ごたえ豊かに上がってくる。一〇本仕掛けると三~四本には掛かったから確率は四割に近く、とにかく面白いように獲れて、初めは毎日のように仕事に励む日々であった。
持ち帰った獲物は自分で捌《さば》く。普通の菜きり包丁ではうまくいかないので、道具は「肥後の守《ひごのかみ=小刀の一種、折り込み式で柄も鉄製》」。まな板に頭を錐《きり》で打ちつけ背開きにしたあと頭を切り落し、大物は三つから四つ、小物は二つにして蒲焼《かばやき》の下ごしらえは出来上がる。あとは母が、貴重な醤油と当時砂糖は手に入らず、サッカリンやズルチンなどの人工甘味料もなかったから、トウキビから絞り出した汁を甘味にして作ったタレを付けて蒲焼の出来上がり。少し辛めだが美味くて、これまた貴重で滅多に口にできない米の飯を少しばかり炊いて、その上に乗せると極上のウナ丼になる。ただ、米のご飯はやたらに食べられないが、粟や黍《きび》のご飯であっても蒲焼は蒲焼であって、久しぶりに「美味いものにありつけた」と皆が満足してくれた時は、私としても仕事のし甲斐《しがい》があったと本当に嬉しかった。
しかし、或る日その美味そうな臭いを嗅ぎつけた近所の朝鮮人が、「贅沢なものを食べている」、「けしがらん奴は誰だ」と日本人会に怒鳴り込んできた、と忠告され唖然《あぜん》とする。
「自分で獲ってきて勝手に作って食べて何か悪い」、「一緒に獲りに行った友達も同じように食べているのに、何故僕だけ」と思ったが、日本人会に迷惑がかかってもと、その後は少し遠慮しながらも漁は続けていた。
こうして蛋白質《たんぱくしつ》は魚で摂れ、ビタミンCも周りの野山でヨモギや野蒜を取ってきて多少とも摂取できたが、主食の穀物はどうにもならない。仕方がないから、朝鮮人農家に行っては「田植え、草むしりをやらせて欲しい。手間賃は何でもいいから穀物を分けて貰いたい」と「農作業の売り込み」をしてみる。最初は何処へ行っても、にべも無く断られるが、粘っていると子供ということに同情するのか、少しずつ仕事をくれるようになって、終わると小さな袋に稗《ひえ》・粟を、また時には米を分けてくれた。
何やら乞食のようで、と言うより実際に乞食なのだが、自分では「労働を希望し、対価を求めている」から「乞食ではない」と自ら言い聞かせて労働に励んだ。それでも初めは恥ずかしくて言葉もモゾモソ。しかし食べるためならやむを得ない。羞恥《ちじょく》心を捨てると、後はごく自然に「お願いします」と元気良く声が出るようになって収穫も少しずつ増え、食生活の手助けができることが自慢ですらあった。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
期待と不安の中の脱出計画
春も過ぎ、暑い夏がそこまできていても、一向に「引き揚げ」の具体的な話が出る様子はない。一部では「終戦から、かれこれ一年になる。これまで無かったということは、これ以上待ってもあり得ないのでは」、或いは「正式な引き揚げが無いとすれば、自分達で三十八度線を越える方法を考えなければ」、「もっともだ。此処で餓死するわけにもいかないから、何班かに分かれて自力で帰ろう」といった極論すら出始める。
とはいえ、それ以上の妙案もなくただ時間だけが過ぎていた或る日、「七月には引揚者として帰国できそうだ」という話が舞い込んできた。「本当だろうか」と疑いながらも希望を繋《つな》いで待つこと一週間、「やはりデマだった」との知らせで皆がっくり。
しかし日本人会では、「正式なルートでの引き揚げは諦めざるを得ない」、「このままだと今年の冬は越しきれない」との意見が大勢を占めるようになって、「闇く《やみ》ルート」を探る動きが活発化していた。一方では「ここより南にいる或る一団が徒歩で三十八度線を渡ろうとして官憲に見つかり引き戻されたらしい」、「指導者の一部は処刑された」との噂《うわさ》もあったし、いくら闇ルートとはいえここから三〇〇~四〇〇キロを、一部を汽車や自動車に頼ったとしても何事もなく歩き切るなどできる相談ではない。といって可能な限り全員が一緒に、しかも安全にとなると、なかなか良い方法が見つからない。
誰と、どんな交渉がなされたのか今もって明らかでないが、七月初句になって「鴨緑江河口の多獅島から海上を船で渡る案があって、出発は八月中旬で決まりそうだ」との話を父から聞かされた。
「あと一ケ月ちょっとですね」母も、いかにも嬉しそう。私たち子供も「やっとこの地獄から抜け出すことができるのか」と、万歳したい気分であった。
詳細はこれから決まると思うけど、少しずつ準備するように」といわれても、持って行くものは貴重品と衣服、それに食料ぐらいしかない。あとは水筒に途中で使うであろう鍋や薬缶《やかん》だけだ。
貴重品は現地通貨と少しばかり残っている日本円に、ロシア兵の略奪《りゃくだつ=むりやりうばわれる》を免れた父の懐中時計一個、それに母が隠し特っている僅かな宝石類だけである。紙幣は裸だと盗られるので、衣服に縫い付けたり、態々《わざわざ》草履《ぞうり》を作って鼻緒《はなを》に縒《よ》り込むことにした。藁草履《わらぞうり》はよく作らされ手馴《てな》れていたから上手いもの。ただ藁だけでは隠し切れないし弱いから布切れを使って縒ると、紙幣も見えず、しかも頑丈な草履が出来上がった。途中何日かかるかわからないが少し余分目にと一人三足、計十八足を仕上げた。
また食料、特に主食は当座食べるものは出発直前におにぎりや団子を作るとして、少なくとも四~五日、長引けば一週間はかかるであろう時間を見越して長持ちする干飯《ほしいい=乾燥したご飯》が必要と、出発までに食べる分を残し、あるだけの米を使って干飯を作った。こうして差し当たっての準備完了、あとは出発を待つだけである。
もうじき八月という頃、「船の手配に手間取って出発が少し遅れそう」、「若しかすると九月になるかも知れない」との情報が入った。
「この前のように引き揚げはデマだったということはないでしょうね」母が心配して聞くと「交渉はちゃんと進んでいるから大丈夫。少し遅れるだけだ」父も安心しろとばかりに答えるが、私だちとしてはやはり不安である。
しかし不安ながらも「帰れる希望」がかすかでもあるということが、私たちの生活をそれまでと違って明るくさせ、空腹など忘れる思いであった。
春も過ぎ、暑い夏がそこまできていても、一向に「引き揚げ」の具体的な話が出る様子はない。一部では「終戦から、かれこれ一年になる。これまで無かったということは、これ以上待ってもあり得ないのでは」、或いは「正式な引き揚げが無いとすれば、自分達で三十八度線を越える方法を考えなければ」、「もっともだ。此処で餓死するわけにもいかないから、何班かに分かれて自力で帰ろう」といった極論すら出始める。
とはいえ、それ以上の妙案もなくただ時間だけが過ぎていた或る日、「七月には引揚者として帰国できそうだ」という話が舞い込んできた。「本当だろうか」と疑いながらも希望を繋《つな》いで待つこと一週間、「やはりデマだった」との知らせで皆がっくり。
しかし日本人会では、「正式なルートでの引き揚げは諦めざるを得ない」、「このままだと今年の冬は越しきれない」との意見が大勢を占めるようになって、「闇く《やみ》ルート」を探る動きが活発化していた。一方では「ここより南にいる或る一団が徒歩で三十八度線を渡ろうとして官憲に見つかり引き戻されたらしい」、「指導者の一部は処刑された」との噂《うわさ》もあったし、いくら闇ルートとはいえここから三〇〇~四〇〇キロを、一部を汽車や自動車に頼ったとしても何事もなく歩き切るなどできる相談ではない。といって可能な限り全員が一緒に、しかも安全にとなると、なかなか良い方法が見つからない。
誰と、どんな交渉がなされたのか今もって明らかでないが、七月初句になって「鴨緑江河口の多獅島から海上を船で渡る案があって、出発は八月中旬で決まりそうだ」との話を父から聞かされた。
「あと一ケ月ちょっとですね」母も、いかにも嬉しそう。私たち子供も「やっとこの地獄から抜け出すことができるのか」と、万歳したい気分であった。
詳細はこれから決まると思うけど、少しずつ準備するように」といわれても、持って行くものは貴重品と衣服、それに食料ぐらいしかない。あとは水筒に途中で使うであろう鍋や薬缶《やかん》だけだ。
貴重品は現地通貨と少しばかり残っている日本円に、ロシア兵の略奪《りゃくだつ=むりやりうばわれる》を免れた父の懐中時計一個、それに母が隠し特っている僅かな宝石類だけである。紙幣は裸だと盗られるので、衣服に縫い付けたり、態々《わざわざ》草履《ぞうり》を作って鼻緒《はなを》に縒《よ》り込むことにした。藁草履《わらぞうり》はよく作らされ手馴《てな》れていたから上手いもの。ただ藁だけでは隠し切れないし弱いから布切れを使って縒ると、紙幣も見えず、しかも頑丈な草履が出来上がった。途中何日かかるかわからないが少し余分目にと一人三足、計十八足を仕上げた。
また食料、特に主食は当座食べるものは出発直前におにぎりや団子を作るとして、少なくとも四~五日、長引けば一週間はかかるであろう時間を見越して長持ちする干飯《ほしいい=乾燥したご飯》が必要と、出発までに食べる分を残し、あるだけの米を使って干飯を作った。こうして差し当たっての準備完了、あとは出発を待つだけである。
もうじき八月という頃、「船の手配に手間取って出発が少し遅れそう」、「若しかすると九月になるかも知れない」との情報が入った。
「この前のように引き揚げはデマだったということはないでしょうね」母が心配して聞くと「交渉はちゃんと進んでいるから大丈夫。少し遅れるだけだ」父も安心しろとばかりに答えるが、私だちとしてはやはり不安である。
しかし不安ながらも「帰れる希望」がかすかでもあるということが、私たちの生活をそれまでと違って明るくさせ、空腹など忘れる思いであった。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
いよいよ計画実行
あの忌まわしい八月十五日も過ぎて暑い夏も終わろうとする或る日、全ての帰還計画が決まったと伝えられた。その内容は
(1) 出発は九月七日、単身派遣・技術者の一部を除く全員が二班に分れて先ず多獅島まで移動する。
(2) 先発の第一班の出発は午前九時、第二班は二時間後の十一時とする。
(3) 移動は各班とも多獅島の手前、龍岩浦《ヨンアムポ》の先の町まで工場のトラック五台に分乗し、その後は徒歩とする。
(4) 二班が多獅島にて合流後、日の暮れるのを待って二隻の船に乗船し、南朝鮮・仁川《インチョン》に向かう。
(5) 多獅島を離れるまでの行動は工場側がこれを保証し、警察も黙認することになっている。
(6) 全ての行動は警察が黙認するとはいえ、関係者を除く現地・朝鮮人には知らされていないので、粛然《しゅくぜん=しずかに》と行動されたい。
(7) 残留する技術者の身柄は、技術移転が完了するまで保証され、のち速やかに帰還させる。
であった。
計画はまことに良くできていて、交渉当事者の苦労が目に見えるよう。
この交渉に父がどのように関ったのか、南で解放されるまで何も言ってくれなかったからよく解らなかったが、「あの時は苦労した」と後で聞かされ、かなり重要な役目をしていたようであった。しかしながら極めて極秘裏に進められた計画であったと思われ、父のその後の言からすると相当な金銭が動いたと察せられる。
しかし、それをどのように工面したのかは父も最後まで言わなかったから、今もって解らないままである。
金銭といっても、一年前に社宅を追い出された時、日本内地から持ってきて没収された家財道具のすべてを換算《かんさん》すればかなりの金額、当然これらも交渉の材料にはなったであろう。
一部の人は、ある程度内地に分散残置したのかも知れないが、我が家の場合「必ず帰れる」と信じて刀剣類を含む骨董品まで全財産を持ってきていたから、彼らの余禄は大きかった筈である。そんな中で父が一番残念がったのは、梅原さんに渡した残りの「刀」と大事に使っていた「カメラ」数台で、後々まで「惜しかったな」といっていたところを見ると、よほど悔しかったのだと思う。従って若し父が交渉の一員であったのなら、その価値を当然の如く訴えたことは想像できる。
一方彼らにしてみれば、当時の工場で作られるものは鍋《なべ》・釜《かま》などの生活財が主になっていたから、将来の生産計画は別にして、それらの製品を少量生産するだけでは労働力は過剰、家族まで入れると二〇〇人近くの面倒をみる余裕は工場にはなかったと思われ、また北朝鮮の行政としても我々を持て余していたことは想像に難くなかった。従って、これはあくまでも個人的な推測であるが、人員削減、将来計画支援に「金銭」を加えて解決しようとした日本人会の作戦は正解だったと思われる。
しかしながら、この時の私たち日本人会の人数は、正確ではないが、この一年で病死した老人・子供、リンチで命を奪われた人たち、残留の技術者を除いても老若男女一八〇人ほどは居たと推定され、とにかく大きな集団である。この一団が若し無事帰還できたら「奇跡《きせき》」といえるくらいの大事業、「この地で犬死するよりはその奇跡に賭《か》けよう」と思ったにしても、交渉責任者は勿論、大人たちには大変な覚悟が必要であったに違いない。
私自身も正直いって半信半疑、「まあ何とかなるだろう」とは考えたが、恐らく他の人も確率五割、上手く行って七~八割と思っていたのではないだろうか。
特に一ケ月近く出発が遅れたことで、時たま黄海方面にもやってくることがあった台風が心配され、海上脱出に影響が出ないとも限らぬことであった。
それにしても、「犬死するよりは」と覚悟して帰国する者はいいとして、残留させられる人たちの気持ちは「保証される」とはいえ、どんなに不安・不満だったろう。私たち子供ですら「申し訳ない」という気持ちがあったから、親達にすれば「申し訳ない」どころではなく、神・仏と手を合わせたい気持ちだった筈だ。
そして出発の日が近づくと、どんな旅になるのか次第に不安が募ってくる。私もできるだけ良い結果のみを考えるようにしてその日を待ったが、さすがに前の晩は興奮《こうふん》して寝つきが悪かった。
あの忌まわしい八月十五日も過ぎて暑い夏も終わろうとする或る日、全ての帰還計画が決まったと伝えられた。その内容は
(1) 出発は九月七日、単身派遣・技術者の一部を除く全員が二班に分れて先ず多獅島まで移動する。
(2) 先発の第一班の出発は午前九時、第二班は二時間後の十一時とする。
(3) 移動は各班とも多獅島の手前、龍岩浦《ヨンアムポ》の先の町まで工場のトラック五台に分乗し、その後は徒歩とする。
(4) 二班が多獅島にて合流後、日の暮れるのを待って二隻の船に乗船し、南朝鮮・仁川《インチョン》に向かう。
(5) 多獅島を離れるまでの行動は工場側がこれを保証し、警察も黙認することになっている。
(6) 全ての行動は警察が黙認するとはいえ、関係者を除く現地・朝鮮人には知らされていないので、粛然《しゅくぜん=しずかに》と行動されたい。
(7) 残留する技術者の身柄は、技術移転が完了するまで保証され、のち速やかに帰還させる。
であった。
計画はまことに良くできていて、交渉当事者の苦労が目に見えるよう。
この交渉に父がどのように関ったのか、南で解放されるまで何も言ってくれなかったからよく解らなかったが、「あの時は苦労した」と後で聞かされ、かなり重要な役目をしていたようであった。しかしながら極めて極秘裏に進められた計画であったと思われ、父のその後の言からすると相当な金銭が動いたと察せられる。
しかし、それをどのように工面したのかは父も最後まで言わなかったから、今もって解らないままである。
金銭といっても、一年前に社宅を追い出された時、日本内地から持ってきて没収された家財道具のすべてを換算《かんさん》すればかなりの金額、当然これらも交渉の材料にはなったであろう。
一部の人は、ある程度内地に分散残置したのかも知れないが、我が家の場合「必ず帰れる」と信じて刀剣類を含む骨董品まで全財産を持ってきていたから、彼らの余禄は大きかった筈である。そんな中で父が一番残念がったのは、梅原さんに渡した残りの「刀」と大事に使っていた「カメラ」数台で、後々まで「惜しかったな」といっていたところを見ると、よほど悔しかったのだと思う。従って若し父が交渉の一員であったのなら、その価値を当然の如く訴えたことは想像できる。
一方彼らにしてみれば、当時の工場で作られるものは鍋《なべ》・釜《かま》などの生活財が主になっていたから、将来の生産計画は別にして、それらの製品を少量生産するだけでは労働力は過剰、家族まで入れると二〇〇人近くの面倒をみる余裕は工場にはなかったと思われ、また北朝鮮の行政としても我々を持て余していたことは想像に難くなかった。従って、これはあくまでも個人的な推測であるが、人員削減、将来計画支援に「金銭」を加えて解決しようとした日本人会の作戦は正解だったと思われる。
しかしながら、この時の私たち日本人会の人数は、正確ではないが、この一年で病死した老人・子供、リンチで命を奪われた人たち、残留の技術者を除いても老若男女一八〇人ほどは居たと推定され、とにかく大きな集団である。この一団が若し無事帰還できたら「奇跡《きせき》」といえるくらいの大事業、「この地で犬死するよりはその奇跡に賭《か》けよう」と思ったにしても、交渉責任者は勿論、大人たちには大変な覚悟が必要であったに違いない。
私自身も正直いって半信半疑、「まあ何とかなるだろう」とは考えたが、恐らく他の人も確率五割、上手く行って七~八割と思っていたのではないだろうか。
特に一ケ月近く出発が遅れたことで、時たま黄海方面にもやってくることがあった台風が心配され、海上脱出に影響が出ないとも限らぬことであった。
それにしても、「犬死するよりは」と覚悟して帰国する者はいいとして、残留させられる人たちの気持ちは「保証される」とはいえ、どんなに不安・不満だったろう。私たち子供ですら「申し訳ない」という気持ちがあったから、親達にすれば「申し訳ない」どころではなく、神・仏と手を合わせたい気持ちだった筈だ。
そして出発の日が近づくと、どんな旅になるのか次第に不安が募ってくる。私もできるだけ良い結果のみを考えるようにしてその日を待ったが、さすがに前の晩は興奮《こうふん》して寝つきが悪かった。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
ブタ小屋を去る日
九月七日は、それまでの辛酸《=にがい経験》を吹き飛ばしてくれるかの如き「日本晴れ」ならぬ「朝鮮晴れ」。前日までに各家族とも準備は万端で、「いよいよ待ちに待った日が来た」と早朝からあちこちで明るい声が飛び交っている。
私たちは第二班、十一時の出発というのに七時には朝食も済ませ、前夜準備した荷物を再点検すると、既に早々と、指定された「リュックー個に手提げ二個」を手にして集合し始めた先発家族の見送りに出る。
またすぐ会えるというのに、肩を抱き合ったり、涙を流している人もいる。
私が友達三、四人と「じやあ後から追いかけるからな」などと話している所に、同じ二班のマナブ君が、布でぐるぐる巻きにした足を引きずりながらやってきた。
「どうしたんだよ」と尋ねると、悪戯《いたずら》っぽく片目をつぶって「昨日釘《くぎ》を踏んづけちゃった。ちょっと痛いけど大丈夫だ」。
こんな時に怪我をするとは不注意だが、したくてやった怪我ではないし、彼の様子からするとさほど心配することでもなさそう。しかしそばにいた私の母が、かっての看護婦らしく「あまり無理しないようにね。錆《さ》びた釘でしょうから、破傷風《はしょうふう》になることもあるからね」というと、「ちょっと見せてごらん」と布を取って傷を診て「まあ大丈夫でしょう。私も一緒だから何かあったらすぐ言うのよ」との言葉で彼も少しホッとした顔になった。
一班の出発を見送ると、一旦家に取って返し、帰ってくる五台のトラックを待ちながら暫く休憩。改めて家の中を見回し「よくもこんな所で一年過ごしたな」と感慨も一入《ひとしお》である。ロ助(ロシア兵のことを、その後私たちはこう呼んでいた)の襲撃のこと、虱《しらみ》・南京虫《=トコジラミの別称刺されるとすごく痒い》を退治した夜のこと、警察の便所掃除に出かけた朝のこと、ウナギを割《さ》いて食べ苦情を貰ったこと、次から次へと思い出される。
十一時少し前にトラック五台が帰ってきた。一班は無事に送られたらしい。
さあ今度は私たちの番だ。
一台に15~20人が乗り終わると、いよいよ出発。目指すは日本内地、その前に仁川《インチョン》、差し当たっては多獅島である。車はがたごとと動き始めた。
地獄の出口:多獅島
途中さしたる出来事もなく、目的地の町に着きトラックから降ろされる。
既に昼を過ぎていたから、木陰に座り込み、夫々朝作ったおにぎりや団子で昼食をとって小一時間休憩すると、そこから多獅島までは徒歩移動である。皆リュックと両手に荷物を持ってぞろぞろと歩く。父は、弟の手を引く母を助けて一個余分に持っている。一年前、職員社宅から歩かされた時と同様、現地の朝鮮人が物珍しそうに眺めてはいるが、今度はあの時の「チョッパリ」の声はなかった。
同じトラックに乗っていたマナブ君もびっこを引きながらどうにか歩いている。
「大丈夫か」声をかけると、「大丈夫だ」と元気な返事。
一時間半以上かかっただろうか、多獅島の船着場に到着、先発班に合流した時にはもう夕方近くなっていた。
多獅島には魚獲りにも来たし、多少街の様子は知ってはいたが、船着場はごみごみして何とも汚らしい。どの船に乗るのかと周りを見渡すが、漁船や港内の貨物運搬船が何隻か舫《もやう=杭などにつなぐ》っているものの、外洋にまで出られそうな大型の船は見当たらない。もうすぐ来るのだろうと待ち構えていると、朝鮮人が二人近づいてきて「こちらへ」と誘導してくれる。
二班を夫々引率して来た日本人会の案内役が、彼ら朝鮮人と何やら話し合っていたと思ったら、皆に聞こえるように大きな声で伝える。
「これから、この二隻に先はどの二班に分かれて乗船します」見ると先ほど貨物運搬船と思っていた船ではないか。
長さ三〇メートル、幅一五メートルほどのずんぐりした貨物運送用木造機帆船《発動機つき帆船》。マストは前方に1本、シングルデッキ・ハッチ、小型のエンジンを装備した言わば平水機帆船で、貨物積載《せきさい》量は精々三〇〇トン程度の通称ダルマ船とも呼ばれるもの。平水(近海)の場合帆走で単独航行できるが、通常港内ではタグボートの曳航《えいこう》を要する大型の孵である。
ハッチ蓋は中央が高く左右に流れるように50センチ幅の板を敷き詰め、上をシートで覆っているが、今は出入りできるように後方1/3ほどが開けられている。
豪華な旅客船とは思っていなかったにしても、「こんな小さい『舟』で本当に大丈夫なのか」とみな心配顔。「犬死するよりは」と覚悟した上での旅立ちであっても、これでは台風がきたら海の上で犬死し兼ねない。しかしここまできた以上は引き返すわけにもいかず、運を天に任せるより仕方がなかった。
「それでは家族単位で順次乗船して下さい」
指示に従って、船に近い者からアブミを渡って次々に乗り込む。
今度は停泊中の先船に第二班から乗船することになり、列の中央にいた私たちは父を先頭にして乗り移ると、デッキから梯子で三メートル程降りてハッチの中央部に場所を確保する。中は夫々の荷物を傍らに何とか九〇人全員が横になれる広さはあったから、早速薄い毛布を二枚敷いて一家の居所ができた。
全員が二隻に乗り終わった頃には辺りはもう薄暗くなっていた。
九月七日は、それまでの辛酸《=にがい経験》を吹き飛ばしてくれるかの如き「日本晴れ」ならぬ「朝鮮晴れ」。前日までに各家族とも準備は万端で、「いよいよ待ちに待った日が来た」と早朝からあちこちで明るい声が飛び交っている。
私たちは第二班、十一時の出発というのに七時には朝食も済ませ、前夜準備した荷物を再点検すると、既に早々と、指定された「リュックー個に手提げ二個」を手にして集合し始めた先発家族の見送りに出る。
またすぐ会えるというのに、肩を抱き合ったり、涙を流している人もいる。
私が友達三、四人と「じやあ後から追いかけるからな」などと話している所に、同じ二班のマナブ君が、布でぐるぐる巻きにした足を引きずりながらやってきた。
「どうしたんだよ」と尋ねると、悪戯《いたずら》っぽく片目をつぶって「昨日釘《くぎ》を踏んづけちゃった。ちょっと痛いけど大丈夫だ」。
こんな時に怪我をするとは不注意だが、したくてやった怪我ではないし、彼の様子からするとさほど心配することでもなさそう。しかしそばにいた私の母が、かっての看護婦らしく「あまり無理しないようにね。錆《さ》びた釘でしょうから、破傷風《はしょうふう》になることもあるからね」というと、「ちょっと見せてごらん」と布を取って傷を診て「まあ大丈夫でしょう。私も一緒だから何かあったらすぐ言うのよ」との言葉で彼も少しホッとした顔になった。
一班の出発を見送ると、一旦家に取って返し、帰ってくる五台のトラックを待ちながら暫く休憩。改めて家の中を見回し「よくもこんな所で一年過ごしたな」と感慨も一入《ひとしお》である。ロ助(ロシア兵のことを、その後私たちはこう呼んでいた)の襲撃のこと、虱《しらみ》・南京虫《=トコジラミの別称刺されるとすごく痒い》を退治した夜のこと、警察の便所掃除に出かけた朝のこと、ウナギを割《さ》いて食べ苦情を貰ったこと、次から次へと思い出される。
十一時少し前にトラック五台が帰ってきた。一班は無事に送られたらしい。
さあ今度は私たちの番だ。
一台に15~20人が乗り終わると、いよいよ出発。目指すは日本内地、その前に仁川《インチョン》、差し当たっては多獅島である。車はがたごとと動き始めた。
地獄の出口:多獅島
途中さしたる出来事もなく、目的地の町に着きトラックから降ろされる。
既に昼を過ぎていたから、木陰に座り込み、夫々朝作ったおにぎりや団子で昼食をとって小一時間休憩すると、そこから多獅島までは徒歩移動である。皆リュックと両手に荷物を持ってぞろぞろと歩く。父は、弟の手を引く母を助けて一個余分に持っている。一年前、職員社宅から歩かされた時と同様、現地の朝鮮人が物珍しそうに眺めてはいるが、今度はあの時の「チョッパリ」の声はなかった。
同じトラックに乗っていたマナブ君もびっこを引きながらどうにか歩いている。
「大丈夫か」声をかけると、「大丈夫だ」と元気な返事。
一時間半以上かかっただろうか、多獅島の船着場に到着、先発班に合流した時にはもう夕方近くなっていた。
多獅島には魚獲りにも来たし、多少街の様子は知ってはいたが、船着場はごみごみして何とも汚らしい。どの船に乗るのかと周りを見渡すが、漁船や港内の貨物運搬船が何隻か舫《もやう=杭などにつなぐ》っているものの、外洋にまで出られそうな大型の船は見当たらない。もうすぐ来るのだろうと待ち構えていると、朝鮮人が二人近づいてきて「こちらへ」と誘導してくれる。
二班を夫々引率して来た日本人会の案内役が、彼ら朝鮮人と何やら話し合っていたと思ったら、皆に聞こえるように大きな声で伝える。
「これから、この二隻に先はどの二班に分かれて乗船します」見ると先ほど貨物運搬船と思っていた船ではないか。
長さ三〇メートル、幅一五メートルほどのずんぐりした貨物運送用木造機帆船《発動機つき帆船》。マストは前方に1本、シングルデッキ・ハッチ、小型のエンジンを装備した言わば平水機帆船で、貨物積載《せきさい》量は精々三〇〇トン程度の通称ダルマ船とも呼ばれるもの。平水(近海)の場合帆走で単独航行できるが、通常港内ではタグボートの曳航《えいこう》を要する大型の孵である。
ハッチ蓋は中央が高く左右に流れるように50センチ幅の板を敷き詰め、上をシートで覆っているが、今は出入りできるように後方1/3ほどが開けられている。
豪華な旅客船とは思っていなかったにしても、「こんな小さい『舟』で本当に大丈夫なのか」とみな心配顔。「犬死するよりは」と覚悟した上での旅立ちであっても、これでは台風がきたら海の上で犬死し兼ねない。しかしここまできた以上は引き返すわけにもいかず、運を天に任せるより仕方がなかった。
「それでは家族単位で順次乗船して下さい」
指示に従って、船に近い者からアブミを渡って次々に乗り込む。
今度は停泊中の先船に第二班から乗船することになり、列の中央にいた私たちは父を先頭にして乗り移ると、デッキから梯子で三メートル程降りてハッチの中央部に場所を確保する。中は夫々の荷物を傍らに何とか九〇人全員が横になれる広さはあったから、早速薄い毛布を二枚敷いて一家の居所ができた。
全員が二隻に乗り終わった頃には辺りはもう薄暗くなっていた。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
次なる地獄に向けて出航
帆を降ろした二隻の船は10センチ程のロープで繋がれ、更にその先を三〇トン程のタグボートが曳航《えいこう》する姿になっている。曳《ひ》かれる船には夫々《それぞれ》朝鮮人の船員が二人ずつ乗り、タグには操舵室《そうだしつ》、甲板、機関室に各一人の計三人、合計七人の船員によって船団は動かされるようである。
舫《もやい》が解かれ船が岸壁を離れたのは、もう夜半に近かった。
とにかく公式に認められていない移動、いわば集団脱走である。周囲に知られず密かに行動しなければならないから、タグの汽笛が小さく鳴っただけで静かに動き出した。
事前の注意で「これから目的地の仁川《インチョン》までの航海日数は四日ほどです。しかし、あくまでも秘密の行動ですから、船も注意深く航行しますが、皆さんも目立たないようにできるだけ船艙《せんそう=貨物を積むところ》にいるよう心がけて下さい」、「大きな船ではないので、安全を考慮して昼間は少し沖に出ますが夜間は沿岸部を南下する予定です」、「この付近の沿岸警備艇は船団の航行は承知していますが、管区が違う所まで行くと不審船として臨検《=国際法上の立つ入り検査》されることがあるかも知れません」と聞かされ凡《およ》その旅程は理解していたが、脱走者としては何時、何処に危険があるか判らないから用心するにこしたことはない。未だ多獅島港内だというのに、裸電球が数個ついている薄暗い船艙でみな息を殺し、身を縮めるしかなかった。
外は「ポン・ポン・ポン」とタグボートの焼玉エンジン音、曳かれている私たちの船の「ギイ・ギイ」とかすかに軋《きし》む音がするだけで、未だ波しぶきは聞こえない。
乗船後すぐ、夫々に朝作ったもので夜食は済ませていたから、昼間の旅で疲れた身体には忽《たちま》ち眠気が襲ってきた。
船の揺れと周囲の気配で目を覚ますと、ハッチの隙間《すきま》から外の明るさが感じられる。
どうやら無事に朝が来たようだ。小用をもよおし甲板に出ると既に数人が順番を持って並んでいた。便所は後部にある小さな船員用の小部屋に一つ付いているほか、急遽《きゅうきょ》船側からはみ出すような形で作られたシート張りの簡易便所が二つあって、こちらは主に男性が使用することになっているらしい。順番を待ちながら周囲を見回すと、今どの辺かはわからないが少し曇った空の下に二つ、三つ島影が、更に島の向こうには陸地までが見える。
「夜間はできるだけ沿岸を」と言われた通り、夕べはあまり沖には出なかったようだ。暫く持って順番がきたので、少し風もあって揺れる手摺《てすり》を片手で持ち、おそるおそる用をたし終えた。
側の水桶・数個には貴重な水と、洗い物用の海水が汲んで置いてある。勿論水は飲食用だから、海水で手と顔を洗って船艙に戻る頃には、船酔いしたか体調を崩したかで横になっている人を除いて、もう殆《ほとん》どの人が目を覚まして起き上がり、陸地を離れた安堵感《あんどかん》からか隣近所笑顔で話し合っている。
隅の方では未だ言葉も言えない小さな子供の泣き声が聞こえ、「お父さんオシッコ」と大きな声を出す子もいて、夕べ乗り込んだ時にはシュンとしていた船舶も今朝は賑《にぎ》やかである。
小学校一年の弟も父に連れられて便所へ、母と姉は「食事の支度でもしましょうか」と甲板に上がっていく。食事といっても昨日のおにぎりや団子などは未だ少し残っているし、トウモロコシなど茄《ゆ》でたものは火を通すまでもない。干飯(糒《ほしい》)はもう少し経って食べればいいから、結局甲板に用意された水を少し分けて貰《もら》い、七輪《=こんろのひとつ》でこれを沸かしてきて手持ちの食料を並べるだけのことだ。お湯を沸かす人が多かったとみえて三〇~四〇分かかって降りてきた。
食事を済ますとあとはすることもなく、甲板に上がってぼんやりと少しずつ景色が変わっていく様子を眺めるだけ。
私たちの船は多獅島から出て、最初は黄海北部、朝鮮半島を東へ押しやるように広がった西朝鮮湾を南下し椴島(カド)、大和島(テファド)、身彌島(シンミド)を東に回りこんだ後、新安州(シンアンジュ)から南下し、漢川(スンチョン)、南浦(ナンポ)、椒島(スクド)の沖を通って、長山串(チャンサンゴ)を回り込み大東湾(テドンマン)に入って更に南下、巡威島(スンウィド)、大延平島(テョンピョンド)沖を東に回って南鮮の京畿湾(キョンギマン)に入り仁川(インチョン)までというのがその航路である。
距離にして四〇〇キロ以上はあったと思われ、新安州《シンアンジュ》あたりを除けば多くの島や岬を縫うように走らなければならない。
椴島、大和島から身彌島などの島々を抜け、曇ってはいるか穏やかな航海で新安州沖に達したのはもう夕方近くであったろうか。途中周りに漁船の姿もあったが、脱走者の私達もできるだけ彼らの目につかないようにしていたから、貨物運搬と思ったか何の不審も抱かれず一日目の船旅は無事に過ぎて夜もふけていった。
帆を降ろした二隻の船は10センチ程のロープで繋がれ、更にその先を三〇トン程のタグボートが曳航《えいこう》する姿になっている。曳《ひ》かれる船には夫々《それぞれ》朝鮮人の船員が二人ずつ乗り、タグには操舵室《そうだしつ》、甲板、機関室に各一人の計三人、合計七人の船員によって船団は動かされるようである。
舫《もやい》が解かれ船が岸壁を離れたのは、もう夜半に近かった。
とにかく公式に認められていない移動、いわば集団脱走である。周囲に知られず密かに行動しなければならないから、タグの汽笛が小さく鳴っただけで静かに動き出した。
事前の注意で「これから目的地の仁川《インチョン》までの航海日数は四日ほどです。しかし、あくまでも秘密の行動ですから、船も注意深く航行しますが、皆さんも目立たないようにできるだけ船艙《せんそう=貨物を積むところ》にいるよう心がけて下さい」、「大きな船ではないので、安全を考慮して昼間は少し沖に出ますが夜間は沿岸部を南下する予定です」、「この付近の沿岸警備艇は船団の航行は承知していますが、管区が違う所まで行くと不審船として臨検《=国際法上の立つ入り検査》されることがあるかも知れません」と聞かされ凡《およ》その旅程は理解していたが、脱走者としては何時、何処に危険があるか判らないから用心するにこしたことはない。未だ多獅島港内だというのに、裸電球が数個ついている薄暗い船艙でみな息を殺し、身を縮めるしかなかった。
外は「ポン・ポン・ポン」とタグボートの焼玉エンジン音、曳かれている私たちの船の「ギイ・ギイ」とかすかに軋《きし》む音がするだけで、未だ波しぶきは聞こえない。
乗船後すぐ、夫々に朝作ったもので夜食は済ませていたから、昼間の旅で疲れた身体には忽《たちま》ち眠気が襲ってきた。
船の揺れと周囲の気配で目を覚ますと、ハッチの隙間《すきま》から外の明るさが感じられる。
どうやら無事に朝が来たようだ。小用をもよおし甲板に出ると既に数人が順番を持って並んでいた。便所は後部にある小さな船員用の小部屋に一つ付いているほか、急遽《きゅうきょ》船側からはみ出すような形で作られたシート張りの簡易便所が二つあって、こちらは主に男性が使用することになっているらしい。順番を待ちながら周囲を見回すと、今どの辺かはわからないが少し曇った空の下に二つ、三つ島影が、更に島の向こうには陸地までが見える。
「夜間はできるだけ沿岸を」と言われた通り、夕べはあまり沖には出なかったようだ。暫く持って順番がきたので、少し風もあって揺れる手摺《てすり》を片手で持ち、おそるおそる用をたし終えた。
側の水桶・数個には貴重な水と、洗い物用の海水が汲んで置いてある。勿論水は飲食用だから、海水で手と顔を洗って船艙に戻る頃には、船酔いしたか体調を崩したかで横になっている人を除いて、もう殆《ほとん》どの人が目を覚まして起き上がり、陸地を離れた安堵感《あんどかん》からか隣近所笑顔で話し合っている。
隅の方では未だ言葉も言えない小さな子供の泣き声が聞こえ、「お父さんオシッコ」と大きな声を出す子もいて、夕べ乗り込んだ時にはシュンとしていた船舶も今朝は賑《にぎ》やかである。
小学校一年の弟も父に連れられて便所へ、母と姉は「食事の支度でもしましょうか」と甲板に上がっていく。食事といっても昨日のおにぎりや団子などは未だ少し残っているし、トウモロコシなど茄《ゆ》でたものは火を通すまでもない。干飯(糒《ほしい》)はもう少し経って食べればいいから、結局甲板に用意された水を少し分けて貰《もら》い、七輪《=こんろのひとつ》でこれを沸かしてきて手持ちの食料を並べるだけのことだ。お湯を沸かす人が多かったとみえて三〇~四〇分かかって降りてきた。
食事を済ますとあとはすることもなく、甲板に上がってぼんやりと少しずつ景色が変わっていく様子を眺めるだけ。
私たちの船は多獅島から出て、最初は黄海北部、朝鮮半島を東へ押しやるように広がった西朝鮮湾を南下し椴島(カド)、大和島(テファド)、身彌島(シンミド)を東に回りこんだ後、新安州(シンアンジュ)から南下し、漢川(スンチョン)、南浦(ナンポ)、椒島(スクド)の沖を通って、長山串(チャンサンゴ)を回り込み大東湾(テドンマン)に入って更に南下、巡威島(スンウィド)、大延平島(テョンピョンド)沖を東に回って南鮮の京畿湾(キョンギマン)に入り仁川(インチョン)までというのがその航路である。
距離にして四〇〇キロ以上はあったと思われ、新安州《シンアンジュ》あたりを除けば多くの島や岬を縫うように走らなければならない。
椴島、大和島から身彌島などの島々を抜け、曇ってはいるか穏やかな航海で新安州沖に達したのはもう夕方近くであったろうか。途中周りに漁船の姿もあったが、脱走者の私達もできるだけ彼らの目につかないようにしていたから、貨物運搬と思ったか何の不審も抱かれず一日目の船旅は無事に過ぎて夜もふけていった。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
台風に遭遇《そうぐう》し命からがらの避難
翌朝も前日と同じような天気、遠くに陸地が見え順調に船は進んでいるようである。
しかし昼頃になると曇った空は雲が厚くなって風も強くなってきた。普段はその辺にいる筈の漁船の姿も見えない。台風でも近づいているのかなと思っていると、タグが我々の船に寄ってきて空を見上げながら船員同士大きな声で何か話し合っている。様子を窺《うかが》っていると、どうやら本当に台風が来ているらしく、時化を避ける算段をしているようだ。
日本人の世話役から説明がある。
「台風が来ているそうで、夕方までに少し陸地に寄って波を避けることにします。若し許されれば港に入るかも知れません。しかし皆さんはできるだけ船艙《せんそう=ふなぐら》にいて下さい」
台風を避けようとした場所ははっきりしないが、平壌《ピョンヤン》の西、江西(カンソ)・龍岡(ヨンガン)の沖合い、鎮南浦までもう少しという地点だったと思われる。少しずつ陸地が近づいてくる頃には風も強くなって船の揺れもだいぶ大きくなっていた。
辺りも薄暗くなり始め、ぼんやり小さな港らしきところが見えた頃、案の定一隻の沿岸警備艇が近づいてきた。一人がタグに乗り移りこちらの方を指差しながら船員と暫く話し込んでいたが、事情を了解したのかこちらの船の中を検査するでもなく、自船に戻ると「こちらへ来い」とばかりに大きく手を振って我々を先導する形で離れていく。
こちら側も仔細《しさい》が飲み込めないので、日本人世話役を通じて確認するが、船員は「とにかく港まで来るように」との指示だという。
すぐ大人達何人かが協議し、「今は海上の危険を回避するのが先決」、「しかも時間的な余裕がないので直ちに指示に従おう」との結論である。ただこの荒天でのタグの曳航《えいこう》は危険が大きく、いざとなったら自分たちの安全のために後ろは切り離されて、我々は港に着くどころか漂流の憂き目に遭わないとも限らない。どこまで彼らが我慢してくれるか判らないが、何としても港まではタグに逃げられない手段を講じる必要がある。
そして「三、四人がタグに乗るべし」となって人選が始まった。しかし事は急を要する。
大人…といっても家族を放置するわけにもいかず、結局また小学校高学年の私たちにお鉢《=順番》が回ってきた。
私を含めて三人が乗ることになり、双方の船が揺れるなか先ず私が乗り移り、あと二人。
だが一人は怖がって乗りきれない。時間は刻々と進むし、船員も苛立《いらだ》ってもう一人は拒否されたまま、最終的に私一人が「人質」となったのである。
私はこれまでも色んなことをやらされ「仕方ない」と腹も据わっていたし、好奇心も手伝って、タグに乗れることが嬉しくもあった。
タグの船長も最初は自分たちが疑われたことが面白くないとみえて憮然《ぶぜん》としていたが、健気《けなげ》に乗り込んできた私を頼もしく思ったか、厄介者扱いもせず私を操舵室《そうだしつ》の端に座らせると、「では行くぞ」とばかりに目配せして、先ほど警備艇が指示した方へ走り始めた。
いくら好奇心旺盛、また命令とはいえ小学校六年の子供が皆と離れて一人で行動するなど、今にして思えば我ながらも大胆だったと思うが、その時は未だごく安気に考えて数時間後の地獄は頭になかったのである。
だんだん風も強くなり波頭も白く砕《くだ》けるようになる中、私の乗ったタグと二隻の船は小一時聞かけて小さな島を回りこんで、遠くにあまり大きくない貨物船や漁船の影、そして町の灯りがかすかに見えるから何処かの港に違いないという地点に辿《たど》り着こうとしていた。
しかしあと数キロ程という辺りで急に風が強くなって波は右手前方から大きく打ち寄せるようになってきた。
船長は右に大きく舵《かじ》を切って波を真正面から受ける形を整える。しかし次第に大きさを増す波は眼前に高い壁になったかと思うと激しい勢いで舳《へさき》に叩《たた》きつけてくる。その直後船は大きく宙に浮いたと思った瞬間、今度は海の底に引きずり込まれるように沈んで、前のどす黒い波の壁は更に大きくなって船に覆い《おおい》被《かぶ》さってくる。瞬間、ドスンと壁にぶつかってはじける波しぶきは激しく流れ飛んで操舵室の窓は一瞬何も見えなくなる。甲板で後ろの船の様子を見ていた船員も危険を感じたのか、波しぶきを浴びながらよろよろと操舵室に入り込んできて狭い船室の中は私を含め三人になった。中央で蛇輪を握《にぎ》りながら仁王立ち《におうだち》になって船を制御している船長も、ある程度は予測していたとはいえ風波の急激な変化に戸惑ったと見え大声で叫び始める。
「○○OO………OOOO……○○○○」
何を言っているのか勿論私には解らないし、それも半分以上は波しぶきの音でかき消されて良く聞こえないが、身振りから想像すると「これ以上曳航は無理」、「後ろの船に錨《いかり》を下ろさせ、繋がったロープを外せ」と言っているようだ。
確かにこの状態では、素人目にみても曳き船の機能は完全に麻痺《まひ》しているし、互いが危険ですらある。港は間近だし中に入らなくても錨綱は届くのだろう。一人が船窓から身を乗り出すようにして後ろの船に合図をし、彼も外に出ようとするが船の揺れに身が定まらない。
不安定な姿勢で暫く身振り手振り連絡していたが、後ろも状況を理解したのか作業に取り掛かり始めた。しかし如何せんこの事態ではスムーズに事が運ぶ筈もなく、手間取っている間も高波は間断《かんだん=たえま》なく襲いかかってくる。
「ドスン…パシャ…ギシギシ…カラカラ…」、船はまるで大波に弄《もてあそ》ばされる木の葉のよう。波しぶきと一緒に間歇的《かんけつてき=止んでまたおこる》に聞こえる「カラカラ」が最初は何の音かと不思議であったが、船が宙に浮いた時スクリューが空回りする音であることに気が付いた。
激しくなる波しぶきや船の軋《きし》みとともに、叫びあう船員達の声も次第に悲鳴に近くなって、私も「これはただ事ではない」、「このまま波に飲み込まれて沈没?」と不吉な予感が脳裏をかすめる。心配になって椅子の背もたれをしっかり掴《つか》みながら後ろの小窓から後方を見ると、波に乗り上がった瞬間に父たちの船もこちらを向いて大きく揺れているのがわかる。
しかし三〇トンと三〇〇トンでは揺れ具合もだいぶ違う。こちらが「葉っぱ」なら向こうは「木の枝」、少なくとも「沈没するとしたらこちらが先」と思い始めたら急に怖くなってきた。
しかしこうなってしまった以上今更泣き言をいっても始まらない。船は船長に任せ、天気の回復を天に祈るしかない。ままよと腹を決め、しっかり手摺りを握って上下・前後・左右に揺れ動く船から、少なくとも外に放り出されないような姿勢をとって、執拗《ひつよう》に襲ってくる波と必死で闘うよりなかったのである。
どれくらい波と格闘していたろうか。風が右から左に少し変わって船の浮き沈みの合間、正面に港の灯りが見えるようになると、風もほんの少し弱まって波に翻弄《ほんろう》される度合いもだいぶ小さくなってきた。
「若しかしたら助かるのかも」と、私は初めて正気に返っていた。
外はもう真っ暗。振り向いても後ろにいる筈の父たちの船影は見えない。或いはあのとき錨を下ろし私のタグとは離れてしまったのだろうか。
辺りは暗いが近くに突堤の灯もあるから私たちはどうやら港の入り口付近にいるらしい。
私はようやく平常心を取り戻している船長に「後ろの船はどうした」と手振りで間くと、彼も「安心せよ」、「少し離れたけど大丈夫だ」と笑顔を作りながら片言の日本語混じりで答えてくれ、とにかくホッと胸を撫《な》で下ろす。そして「怖かったろう、でもよく頑張ったな」と肩を叩《たた》いてくれた船長が急に頼もしく、また親しい友人のように思えてきたのも不思議な感覚であった。
船室の時計を見るともう九時を過ぎている。とすると三時間以上は激浪に身を委ね続けていたということだ。
暫くすると先はどの警備艇が近づいてきて、二人の隊員が乗り込んできた。
彼らは何事かを話し込んでいるが、勿論内容は私には解らない。時々私の顔を見てもあまり険《けわ》しい様子を見せないのが救いである。十五分ほどで警備艇は離れていった。
「このまま此処で台風をやり過ごし、夜が明けたら後ろの船に合流する」、腹が減っただろうから、これを食べて休め」と片言の日本語で言い、トウモロコシのパンと生ぬるいお茶を分けてくれた。考えてみると昼飯もろくに食べていなかったから、「コマスミダ」と礼をいって口に放り込んだが、「肋かっか」という気持ちも手伝って、久しぶりに美味い食べ物に出会ったような気持ちであった。
後ろの船にいる家族は心配だったが、この際はジタバタしても始まらない。船長の言葉を信じて船室でごろりと横になると、そのまま眠り込んでしまった。
翌朝も前日と同じような天気、遠くに陸地が見え順調に船は進んでいるようである。
しかし昼頃になると曇った空は雲が厚くなって風も強くなってきた。普段はその辺にいる筈の漁船の姿も見えない。台風でも近づいているのかなと思っていると、タグが我々の船に寄ってきて空を見上げながら船員同士大きな声で何か話し合っている。様子を窺《うかが》っていると、どうやら本当に台風が来ているらしく、時化を避ける算段をしているようだ。
日本人の世話役から説明がある。
「台風が来ているそうで、夕方までに少し陸地に寄って波を避けることにします。若し許されれば港に入るかも知れません。しかし皆さんはできるだけ船艙《せんそう=ふなぐら》にいて下さい」
台風を避けようとした場所ははっきりしないが、平壌《ピョンヤン》の西、江西(カンソ)・龍岡(ヨンガン)の沖合い、鎮南浦までもう少しという地点だったと思われる。少しずつ陸地が近づいてくる頃には風も強くなって船の揺れもだいぶ大きくなっていた。
辺りも薄暗くなり始め、ぼんやり小さな港らしきところが見えた頃、案の定一隻の沿岸警備艇が近づいてきた。一人がタグに乗り移りこちらの方を指差しながら船員と暫く話し込んでいたが、事情を了解したのかこちらの船の中を検査するでもなく、自船に戻ると「こちらへ来い」とばかりに大きく手を振って我々を先導する形で離れていく。
こちら側も仔細《しさい》が飲み込めないので、日本人世話役を通じて確認するが、船員は「とにかく港まで来るように」との指示だという。
すぐ大人達何人かが協議し、「今は海上の危険を回避するのが先決」、「しかも時間的な余裕がないので直ちに指示に従おう」との結論である。ただこの荒天でのタグの曳航《えいこう》は危険が大きく、いざとなったら自分たちの安全のために後ろは切り離されて、我々は港に着くどころか漂流の憂き目に遭わないとも限らない。どこまで彼らが我慢してくれるか判らないが、何としても港まではタグに逃げられない手段を講じる必要がある。
そして「三、四人がタグに乗るべし」となって人選が始まった。しかし事は急を要する。
大人…といっても家族を放置するわけにもいかず、結局また小学校高学年の私たちにお鉢《=順番》が回ってきた。
私を含めて三人が乗ることになり、双方の船が揺れるなか先ず私が乗り移り、あと二人。
だが一人は怖がって乗りきれない。時間は刻々と進むし、船員も苛立《いらだ》ってもう一人は拒否されたまま、最終的に私一人が「人質」となったのである。
私はこれまでも色んなことをやらされ「仕方ない」と腹も据わっていたし、好奇心も手伝って、タグに乗れることが嬉しくもあった。
タグの船長も最初は自分たちが疑われたことが面白くないとみえて憮然《ぶぜん》としていたが、健気《けなげ》に乗り込んできた私を頼もしく思ったか、厄介者扱いもせず私を操舵室《そうだしつ》の端に座らせると、「では行くぞ」とばかりに目配せして、先ほど警備艇が指示した方へ走り始めた。
いくら好奇心旺盛、また命令とはいえ小学校六年の子供が皆と離れて一人で行動するなど、今にして思えば我ながらも大胆だったと思うが、その時は未だごく安気に考えて数時間後の地獄は頭になかったのである。
だんだん風も強くなり波頭も白く砕《くだ》けるようになる中、私の乗ったタグと二隻の船は小一時聞かけて小さな島を回りこんで、遠くにあまり大きくない貨物船や漁船の影、そして町の灯りがかすかに見えるから何処かの港に違いないという地点に辿《たど》り着こうとしていた。
しかしあと数キロ程という辺りで急に風が強くなって波は右手前方から大きく打ち寄せるようになってきた。
船長は右に大きく舵《かじ》を切って波を真正面から受ける形を整える。しかし次第に大きさを増す波は眼前に高い壁になったかと思うと激しい勢いで舳《へさき》に叩《たた》きつけてくる。その直後船は大きく宙に浮いたと思った瞬間、今度は海の底に引きずり込まれるように沈んで、前のどす黒い波の壁は更に大きくなって船に覆い《おおい》被《かぶ》さってくる。瞬間、ドスンと壁にぶつかってはじける波しぶきは激しく流れ飛んで操舵室の窓は一瞬何も見えなくなる。甲板で後ろの船の様子を見ていた船員も危険を感じたのか、波しぶきを浴びながらよろよろと操舵室に入り込んできて狭い船室の中は私を含め三人になった。中央で蛇輪を握《にぎ》りながら仁王立ち《におうだち》になって船を制御している船長も、ある程度は予測していたとはいえ風波の急激な変化に戸惑ったと見え大声で叫び始める。
「○○OO………OOOO……○○○○」
何を言っているのか勿論私には解らないし、それも半分以上は波しぶきの音でかき消されて良く聞こえないが、身振りから想像すると「これ以上曳航は無理」、「後ろの船に錨《いかり》を下ろさせ、繋がったロープを外せ」と言っているようだ。
確かにこの状態では、素人目にみても曳き船の機能は完全に麻痺《まひ》しているし、互いが危険ですらある。港は間近だし中に入らなくても錨綱は届くのだろう。一人が船窓から身を乗り出すようにして後ろの船に合図をし、彼も外に出ようとするが船の揺れに身が定まらない。
不安定な姿勢で暫く身振り手振り連絡していたが、後ろも状況を理解したのか作業に取り掛かり始めた。しかし如何せんこの事態ではスムーズに事が運ぶ筈もなく、手間取っている間も高波は間断《かんだん=たえま》なく襲いかかってくる。
「ドスン…パシャ…ギシギシ…カラカラ…」、船はまるで大波に弄《もてあそ》ばされる木の葉のよう。波しぶきと一緒に間歇的《かんけつてき=止んでまたおこる》に聞こえる「カラカラ」が最初は何の音かと不思議であったが、船が宙に浮いた時スクリューが空回りする音であることに気が付いた。
激しくなる波しぶきや船の軋《きし》みとともに、叫びあう船員達の声も次第に悲鳴に近くなって、私も「これはただ事ではない」、「このまま波に飲み込まれて沈没?」と不吉な予感が脳裏をかすめる。心配になって椅子の背もたれをしっかり掴《つか》みながら後ろの小窓から後方を見ると、波に乗り上がった瞬間に父たちの船もこちらを向いて大きく揺れているのがわかる。
しかし三〇トンと三〇〇トンでは揺れ具合もだいぶ違う。こちらが「葉っぱ」なら向こうは「木の枝」、少なくとも「沈没するとしたらこちらが先」と思い始めたら急に怖くなってきた。
しかしこうなってしまった以上今更泣き言をいっても始まらない。船は船長に任せ、天気の回復を天に祈るしかない。ままよと腹を決め、しっかり手摺りを握って上下・前後・左右に揺れ動く船から、少なくとも外に放り出されないような姿勢をとって、執拗《ひつよう》に襲ってくる波と必死で闘うよりなかったのである。
どれくらい波と格闘していたろうか。風が右から左に少し変わって船の浮き沈みの合間、正面に港の灯りが見えるようになると、風もほんの少し弱まって波に翻弄《ほんろう》される度合いもだいぶ小さくなってきた。
「若しかしたら助かるのかも」と、私は初めて正気に返っていた。
外はもう真っ暗。振り向いても後ろにいる筈の父たちの船影は見えない。或いはあのとき錨を下ろし私のタグとは離れてしまったのだろうか。
辺りは暗いが近くに突堤の灯もあるから私たちはどうやら港の入り口付近にいるらしい。
私はようやく平常心を取り戻している船長に「後ろの船はどうした」と手振りで間くと、彼も「安心せよ」、「少し離れたけど大丈夫だ」と笑顔を作りながら片言の日本語混じりで答えてくれ、とにかくホッと胸を撫《な》で下ろす。そして「怖かったろう、でもよく頑張ったな」と肩を叩《たた》いてくれた船長が急に頼もしく、また親しい友人のように思えてきたのも不思議な感覚であった。
船室の時計を見るともう九時を過ぎている。とすると三時間以上は激浪に身を委ね続けていたということだ。
暫くすると先はどの警備艇が近づいてきて、二人の隊員が乗り込んできた。
彼らは何事かを話し込んでいるが、勿論内容は私には解らない。時々私の顔を見てもあまり険《けわ》しい様子を見せないのが救いである。十五分ほどで警備艇は離れていった。
「このまま此処で台風をやり過ごし、夜が明けたら後ろの船に合流する」、腹が減っただろうから、これを食べて休め」と片言の日本語で言い、トウモロコシのパンと生ぬるいお茶を分けてくれた。考えてみると昼飯もろくに食べていなかったから、「コマスミダ」と礼をいって口に放り込んだが、「肋かっか」という気持ちも手伝って、久しぶりに美味い食べ物に出会ったような気持ちであった。
後ろの船にいる家族は心配だったが、この際はジタバタしても始まらない。船長の言葉を信じて船室でごろりと横になると、そのまま眠り込んでしまった。
--
編集者 (代理投稿)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
拾った命:此処は何所?
翌朝は前日の台風が嘘《うそ》のような快晴。見回すと我々がいるもう少し先に大きな船が数隻停泊《ていはく》している港がもう一つ見える。船長に聞くと、「あれが南浦《ナムポ》港だ」という。つまり私達は南浦ではあるがどうやら鎮南浦《チンナンポ》というところにいるらしい。
多獅島を出る時、新安州、漢川、南浦あたりは沖合いを通ると思っていたが、時化でやむを得ず鎮南浦に立ち寄ったということのようである。この地名は以前父からも「北朝鮮でも有数の工業地帯で日本人もたくさんいる」と聞いたことがあった。
因みに北朝鮮には日本海側に北から羅津(ラジン)、清津(チョンジン)、興南(フンナム)、元山(ウオンサン)の外港かあるが、黄海側は北から龍岩浦(ョンアムポ・多獅鳥)、新安州(シンアンジュ)、南浦(ナンポ)、海州(ハエジュ)の港があっても大きな外港は南浦と海州のみで、中でも平壌《ビョンヤン》の南を西へ流れ下る大同江(テドンガン)下流にある南浦(ナンポ)は平壌を控えているだけに最も大きく、中国(大連・上海)、東南アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパ、日本を結ぶ航路の玄関口にもなっている。
終戦前はこの地に日本鉱業南浦精錬所、朝鮮朝日軽金属岐陽工場、朝鮮製鉄大安電気精錬工場、三菱製鋼降仙電気精練工場などがあったほか、近くの松林(ソンニム)には日本製鉄兼二浦製鉄所、またすぐ南の沙里院《サリウォン》には紡績・肥料工場、鳳出には朝鮮浅野セメント鳳出工場などがあって、この一帯だけでも日本人の工場関係者は一万人近くいたと思われ、その他の人達を入れると数万の日本人が住んでいたのではないだろうか。
ただ私達が寄港したこの頃に、これらの日本人がどうなっていたのか全くわからなかった。我々のいた新義州《シンウィジュ》に比べれば三十八度線にも近く、早い時期に相当数の人が正規なルートで引揚げたのではないかとも思われたし、あとに残された人達にとっても、私達と同じように船で脱出することは比較的容易だったのではなかろうか。しかし後になって聞く話では、南にいた人達も東側を含め多くの人が難渋《なんじゅう》しながら陸上を歩いて越えたともいわれ、或いは未だかなりの人達が残留していたのかも知れなかった。
ここがその「鎮南浦」と暫く港の様子を眺めていると、昨日の警備艇が再び寄ってきて、こちらの船に接舷《せつげん》したまま彼ら同士で何事かを話し合っている。話し終わると警備艇が先導する形で、夕べ離れてしまった後船のところへ行こうと動き出した。
突堤を出ると、少しいったところに二隻の船が間隔をおいて錨《いかり》を下ろし静かに停泊している。
近づいていくと夫々気が付いたか何人かが甲板で手を振っている。 「おーい、大丈夫だったか!」、
「お互いに助かって良かったな」
着船すると私は降ろされた梯子《はしご》を駆け上った。
引き上げてくれた人達は皆疲れた顔をしながらも、恐ろしかった昨日の出来事を忘れたかのように笑顔で出迎えてくれる。さながら凱旋《がいせん》が将軍を迎えるが如き扱いで、私としては多少気恥ずかしい。
「昨日は本当にどうなるかと思ったけど、無事で何よりだった。怪我は無かったか?」甲板上で迎えてくれた父が「悪かったな」という言葉を押し殺して労《いたわ》ってくれる。
船艙に降りると中では散乱した物を片付ける人がいるかと思うと、未だぐったり横だわっている人達もいる。その傍らで、母や姉、弟がニコニコしながら待ち受けてくれていた。
「それにしても恐ろしかったね。どうなることかと思ったけどお互いに無事で良かった」、「お腹も空いてるでしょう。何か食べる?といってもトウモロコシのパンが少しあるだけだけど」、母が気遣ってくれる。
差し出されたパンを皆で分け合い口に入れると、同じものをくれた船長の顔や怖かった昨日の出来事がすべて甦《よみがえ》ってくる。「死ぬかも」、「皆にもう会えないかも」と思ったことが夢のようだ。
「もう二度とあんなことはさせないから」母の言葉は毅然《きぜん》としていて、暖かく真実の気持ちが込められていた。
--
編集者 (代理投稿)