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チョッパリの邑 (23) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (23) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/30 7:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
「帰還」の日を待ちわびながら辛い日々を送っていたころ、朝鮮では

 こういう辛い日々を過ごしながらも月日は経って、また新しい年が巡ってきた。
 この間十二月にはまた便所掃除もある筈だったが、どういうわけか取りやめになって苦行が一回で済んだのは、私にとってまことに幸いなことではあった。
 二十一年の正月は、さすがに「おせち料理」もなく寂しいものではあったが、皆が元気で新年を迎えるだけでも幸せといわねばならなかった。ただ、何時までこんな生活をしなければならないのか、何時日本に帰れるのかが唯一の不安材料で、「何とかしなければ」と皆一様に考え始めていたのではなかろうか。しかし早急な手立てがある筈もなく、「そのうちには日米、日ソ、日朝の間で正式な引き揚げ交渉が成立して帰れるだろう」との淡い期待を抱きながらその日を時つよりなかったのである。

 後に知り得たことながら、この頃の朝鮮は、昭和二十年八月十六日の米ソ協議によって三十八度線を境界とする占領分担が決められた後、十二月にモスクワで米・英・ソ・三国外相会議が開かれ、連合国による信託統治案が具体化されようとしていた。
 この案は、独立の前提として朝鮮民主主義臨時政府の樹立を目的とし、その前段階で米・ソ・中・英が五年を期限として信託統治を行い、米ソ両軍司令官による共同委員会が助力を与えることになっていた。しかしこの内容を聞いた現地朝鮮人の各派は、左・右・中道夫々《おのおの》の思惑の違いを背景に、反対運動(反託運動)を展開して混乱のあげく、即時独立を望む民衆の心情に訴えた保守派が勢力を伸ばす状況にあった。
 その後、外相会議の提案に基づき、翌二十一年三月から第一次米ソ共同委員会が開催されたものの合意に達せず、また国内でも中道派による左右合作を提唱して臨時政府樹立を図る動きもあったが、右派の韓国民主党、左派の朝鮮共産党が合作に応じず、結局五月の第二次米ソ共同委員会も決裂して、南北統一の臨時政府も樹立されることもなく、依然として南はアメリカ軍政が、北にはロシア指導の人民委員会制度が残ったのである。
 
 南ではその後インフレと食糧不足が激化、GAR10A(占領地域救済政府資金)、EROA(占領地域経済復興援助資金)などアメリカの援助はあったものの、植民地期に海外へ出た人々の帰国、北の社会主義的改革を嫌った地主・企業家の流入などから人口は急増、経済的混乱に拍車《はくしゃ》をかけて、ストライキやデモが多発するようになっていた。

 一方、北では植民地期ソ連領に逃れていた金日成がソ連軍とともに帰国するや、共産党が中心的勢力として力を得、北朝鮮を統治する人民政権の骨格が形成されようとしていた。
 そして翌二十一年二月には中央行政機関として北朝鮮臨時人民委員会が組織され、彼が委員長に就任している。この人民委員会は三月には土地改革を完了するとともに、数ケ月の間に旧日本人資産の国有化法案を採択、また軍隊・警察の創設、新しい法令の制定など、北朝鮮のみを対象とする統治機構の整備を進めた。
 こうして南北には米ソの影響下で夫々異なる政治体制が敷かれたが、一月二十九日に連合国最高司令官覚書《おぼえがき》で、朝鮮などの植民地を日本から分離する方針が示され、翌三十日からそれまで総督府が行っていた朝鮮関係事務が日本外務省の所管となっている。

 その後、昭和二十七年に発効したサンフランシスコ平和条約で、「日本国は朝鮮の独立を承認する」と規定され、法的にも朝鮮支配に終止符が打たれることになるが、国交や賠償問題は未解決のまま先送りされたことは史実の通りである。

 このような状況下、国連軍及び日本外務省に残された難問は、中国北東からの流人者を含め九十万人以上に膨《ふく》れ上がった日本人と、十八万人の旧日本軍の処遇《しょぐう=扱い》であった。
 欧米の植民地では、独立後に旧支配国民が残留するケースも多かったが、朝鮮では連合軍の指令によって「引き揚げ」と言う事態が始まった。

 南のアメリカ軍政庁は既に二十年十月から引揚者の輸送に着手、年内にはほぼこれを完了するとともに、翌二十一年三月には日本人の残留を禁止する布告まで出している。
 特に軍政庁が引き揚げを急がせたのは、軍人、神官《=神職、神主》、芸妓《げいぎ》・娼妓《しょうぎ=遊女》という、日本の植民地支配の先兵となった人々であった。神官については敗戦直後から朝鮮の神社で「昇神式」という儀式が行われ、神社破壊を恐れた神官が神体の焼却、埋蔵《まいぞう》するなどの行為が頻発《ひんぱつ》していたためともいわれる。

 しかし、この民間人九十万、軍人十八万が南北にどのような割合で居留していたのか、南から引き揚げた人数がこの内どれほどだったのかが不明である。
 つまり北では軍人と一部の民間人がこの「引き揚げ」対象になったことは想像されるが、私たちの耳には一切「引き揚げ」の[ひ]の字も届いていなかったし、私たちと同じような苦難を味わいながら正式な「引き揚げ」もできず、「抑留」生活を余儀なくさせられたまま、その生活にも耐え切れなくなって、無謀な逃亡を企てて三十八度線越えに成功した人、命を落とした人の話を、のちのち数限りなく聞くと、少なくとも数万人が「引き揚げ」の対象外となって北に残されたのではないかと思われる。
 ただ何故、対象外になったのか理由が今もってよく解らない。犯罪人または人質として拘留《こうりゅう》するには当時の食糧事情が許さなかっただろうし、距離が遠くて費用が嵩《かさ》むということも日本に負担させれば済むことで、これも理由にならない。
 考えられることは二つ、それもかなり穿《うが》った見方かも知れないが、あながち見当外れとも思われないのは、(1)植民地期、それも昭和初期に日本が推進した工業化政策と北部朝鮮の開発、そして昭和十一年から太平洋戦争初期にかけて進められた大陸兵站《へいたん=後方連絡の確保》基地化政策によって、特に北朝鮮には大規模な電力開発とともに化学肥料・セメント・油脂・火薬・航空機燃料・合成ゴムのほか鉄鋼・軽金属などの重工業・軍需工場が続々と整備され、産業の地理的配置は、北に電力・重化学工業、南に軽工業・農業と極端な偏在が見られたこと。(2)北には昭和二十一年に統治機構として北朝鮮人民委員会が作られて事実上の単独政権が成立し、その後二十二年に人民会議、人民委員会から構成される社会主義政権が確立することとなるが、二十一年当時から既に北朝鮮を民主主義の根拠地として強化し、アメリカ軍政下の南朝鮮を解放すべしとの「民主基地論」が背景にあって、アメリカ主導の連合国とは対峙《たいじ》する関係にあったこと。
 この二つを理由として、終戦後の資材不足とはいいながら、これらの工業生産を再び軌道に乗せ、社会主義国家発展の基盤を確保したいと考えた、そのためには民間人であっても過去の抑圧者で準犯罪人たる日本人従事者を全員帰還させることに同意できなかった、と考えられなくもない。

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編集者 (代理投稿)

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