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チョッパリの邑 (25) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (25) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/1 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 期待と不安の中の脱出計画

 春も過ぎ、暑い夏がそこまできていても、一向に「引き揚げ」の具体的な話が出る様子はない。一部では「終戦から、かれこれ一年になる。これまで無かったということは、これ以上待ってもあり得ないのでは」、或いは「正式な引き揚げが無いとすれば、自分達で三十八度線を越える方法を考えなければ」、「もっともだ。此処で餓死するわけにもいかないから、何班かに分かれて自力で帰ろう」といった極論すら出始める。
 とはいえ、それ以上の妙案もなくただ時間だけが過ぎていた或る日、「七月には引揚者として帰国できそうだ」という話が舞い込んできた。「本当だろうか」と疑いながらも希望を繋《つな》いで待つこと一週間、「やはりデマだった」との知らせで皆がっくり。

 しかし日本人会では、「正式なルートでの引き揚げは諦めざるを得ない」、「このままだと今年の冬は越しきれない」との意見が大勢を占めるようになって、「闇く《やみ》ルート」を探る動きが活発化していた。一方では「ここより南にいる或る一団が徒歩で三十八度線を渡ろうとして官憲に見つかり引き戻されたらしい」、「指導者の一部は処刑された」との噂《うわさ》もあったし、いくら闇ルートとはいえここから三〇〇~四〇〇キロを、一部を汽車や自動車に頼ったとしても何事もなく歩き切るなどできる相談ではない。といって可能な限り全員が一緒に、しかも安全にとなると、なかなか良い方法が見つからない。

 誰と、どんな交渉がなされたのか今もって明らかでないが、七月初句になって「鴨緑江河口の多獅島から海上を船で渡る案があって、出発は八月中旬で決まりそうだ」との話を父から聞かされた。
 「あと一ケ月ちょっとですね」母も、いかにも嬉しそう。私たち子供も「やっとこの地獄から抜け出すことができるのか」と、万歳したい気分であった。
 詳細はこれから決まると思うけど、少しずつ準備するように」といわれても、持って行くものは貴重品と衣服、それに食料ぐらいしかない。あとは水筒に途中で使うであろう鍋や薬缶《やかん》だけだ。
 貴重品は現地通貨と少しばかり残っている日本円に、ロシア兵の略奪《りゃくだつ=むりやりうばわれる》を免れた父の懐中時計一個、それに母が隠し特っている僅かな宝石類だけである。紙幣は裸だと盗られるので、衣服に縫い付けたり、態々《わざわざ》草履《ぞうり》を作って鼻緒《はなを》に縒《よ》り込むことにした。藁草履《わらぞうり》はよく作らされ手馴《てな》れていたから上手いもの。ただ藁だけでは隠し切れないし弱いから布切れを使って縒ると、紙幣も見えず、しかも頑丈な草履が出来上がった。途中何日かかるかわからないが少し余分目にと一人三足、計十八足を仕上げた。
 また食料、特に主食は当座食べるものは出発直前におにぎりや団子を作るとして、少なくとも四~五日、長引けば一週間はかかるであろう時間を見越して長持ちする干飯《ほしいい=乾燥したご飯》が必要と、出発までに食べる分を残し、あるだけの米を使って干飯を作った。こうして差し当たっての準備完了、あとは出発を待つだけである。

 もうじき八月という頃、「船の手配に手間取って出発が少し遅れそう」、「若しかすると九月になるかも知れない」との情報が入った。
 「この前のように引き揚げはデマだったということはないでしょうね」母が心配して聞くと「交渉はちゃんと進んでいるから大丈夫。少し遅れるだけだ」父も安心しろとばかりに答えるが、私だちとしてはやはり不安である。
 しかし不安ながらも「帰れる希望」がかすかでもあるということが、私たちの生活をそれまでと違って明るくさせ、空腹など忘れる思いであった。

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編集者 (代理投稿)

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