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チョッパリの邑 (24) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (24) 椎野 公雄

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/5/31 15:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 一縷《いちる》の望みを持って過ごす日々

 北朝鮮における社会主義政権化の動きは、金日成が主導する共産党によってこの頃から極めて統一的に徹底して行われたと思われるのは、戦時中日本が「皇民化」政策を学校教育に持ち込んだように、教室では社会主義思想が唯一の教条《公認した協議を箇条として表現したもの》として教えられたことが、子供達が遊びながら朝鮮語で歌う「インター」によっても窺《うかが》い知れた。
 私たちには強制こそされなかったが、彼らの歌を聞きながら自然に覚えて歌うようになり、また、そうすることが彼らに親近感を持たせるのか以前ほど敵愾心《てきがいしん》を顕《あらわ》にしなくなったので、こちらも得たりとばかりに口ずさみながら遊んだものである。
 しかし親達にしてみれば、「生き延びること」、「帰ること」に心を砕いていた筈で、無邪気《むじゃき》とは思っても決して心地よくはなかったろうし、「そんな歌は止めなさい」と不満顔にいわれたことも思い出す。
 曲は帰国後暫くして、社会主義・共産主義にかぶれた連中が歌うのを開いて「ああ、あの歌か」と不思議な感覚であったが、朝鮮語の歌詞はもう忘れてしまっていた。
 こうした状況の中で、南楊市・三井軽金属日本人会はとにもかくにも「引き揚げ」実現に向けて積極的な運動を展開したにも拘わらず、何処からも一向に承認が出ないまま、私達は酷寒の地で寒さに震えながら、徒《いたずら》に時は流れていたのである。
 この頃になると食料事情は更に悪化し、米は勿論のこと、トウモロコシ、粟《あわ》、稗《ひえ》ですら配給量は減って、「腹減ったな!」、「何か美味いものが食べたいな!」と口にすることが増えていた。そして当然ながら食料不足を補う「仕事」に精を出さなければならなかった。

 三寒四温の春がまたまたやってきて他の氷が溶け始めると、蛋白質補給のための魚獲り作業ができるようになる。水が冷たい時は魚も動きが鈍く、鯉《こい》や鮒《ふな》など大型のものがザルなどで容易く掬い取ることができた。また初めのうちひどかった朝鮮人の苛《いじ》めも減ってきていたから、行動範囲も少しは広くなり、また父に頼むと何処かで釣り糸や針も仕入れてきてくれたので、こうした道具を持って少し遠くまで魚釣りに出かけることが多くなっていた。
 釣りは鮒に始まり鮒に終わるというほどで、釣りを趣味とする人には面白くて難しい釣りであるが、私たちの場合は食べるための「仕事」である。数多くある池には鮒がたくさんいて、朝鮮の太公望《たいこうぼう=釣り人の異称》が朝から糸を垂れる姿を見かけ、彼らも私たちを差ほど毛嫌いしなくなっていたから、側に寄って行っては釣る様子を見たりしていた。
 確かに「難しい」釣りで、こちらには容易には掛かってくれないが、彼らは次から次へとものにしている。不思議に思って餌を見ると、こちらの方が食べたい「ご飯粒」。それでいいのかと少し分けて貰い針に付けて放り込むと、私たちのミミズやトウモロコシの団子ではピクリともしない浮きが沈むようになる。
 「ここの鮒もやはりご飯が食べたいのか」と変な同情をしながら、その日は数尾をあげることに成功、夜の大変なご馳走《ごちそう》になってくれた。
 それからは毎日のように、家にあるなけなしの米粒をもって鮒釣りに精を出す日が続いた。

 春もたけなわとなって水がぬるむと、今度はウナギである。
 池には奴らが鮒よりもたくさんいて、面白いようによく獲れた。たこ糸に大き目の針をつけ田んぼの畦《あぜ=田んぼの境界を作る区切り》で捕ったドジョウを餌に付けて、夕方何本か放り込んでおく。勿論端《はし》っこは五〇センチほどの棒くいでしっかり岸に繋ぎとめ、翌朝早くこれを引き上げるのだ。掛かっていると糸がピンと伸びているのですぐわかる。 「しめた」と膝《ひざ》上まで水に入りこれを引き上げると、大きいのはIメートル近く、小さくとも五〇センチのウナギが手ごたえ豊かに上がってくる。一〇本仕掛けると三~四本には掛かったから確率は四割に近く、とにかく面白いように獲れて、初めは毎日のように仕事に励む日々であった。

 持ち帰った獲物は自分で捌《さば》く。普通の菜きり包丁ではうまくいかないので、道具は「肥後の守《ひごのかみ=小刀の一種、折り込み式で柄も鉄製》」。まな板に頭を錐《きり》で打ちつけ背開きにしたあと頭を切り落し、大物は三つから四つ、小物は二つにして蒲焼《かばやき》の下ごしらえは出来上がる。あとは母が、貴重な醤油と当時砂糖は手に入らず、サッカリンやズルチンなどの人工甘味料もなかったから、トウキビから絞り出した汁を甘味にして作ったタレを付けて蒲焼の出来上がり。少し辛めだが美味くて、これまた貴重で滅多に口にできない米の飯を少しばかり炊いて、その上に乗せると極上のウナ丼になる。ただ、米のご飯はやたらに食べられないが、粟や黍《きび》のご飯であっても蒲焼は蒲焼であって、久しぶりに「美味いものにありつけた」と皆が満足してくれた時は、私としても仕事のし甲斐《しがい》があったと本当に嬉しかった。

 しかし、或る日その美味そうな臭いを嗅ぎつけた近所の朝鮮人が、「贅沢なものを食べている」、「けしがらん奴は誰だ」と日本人会に怒鳴り込んできた、と忠告され唖然《あぜん》とする。
 「自分で獲ってきて勝手に作って食べて何か悪い」、「一緒に獲りに行った友達も同じように食べているのに、何故僕だけ」と思ったが、日本人会に迷惑がかかってもと、その後は少し遠慮しながらも漁は続けていた。

 こうして蛋白質《たんぱくしつ》は魚で摂れ、ビタミンCも周りの野山でヨモギや野蒜を取ってきて多少とも摂取できたが、主食の穀物はどうにもならない。仕方がないから、朝鮮人農家に行っては「田植え、草むしりをやらせて欲しい。手間賃は何でもいいから穀物を分けて貰いたい」と「農作業の売り込み」をしてみる。最初は何処へ行っても、にべも無く断られるが、粘っていると子供ということに同情するのか、少しずつ仕事をくれるようになって、終わると小さな袋に稗《ひえ》・粟を、また時には米を分けてくれた。
 何やら乞食のようで、と言うより実際に乞食なのだが、自分では「労働を希望し、対価を求めている」から「乞食ではない」と自ら言い聞かせて労働に励んだ。それでも初めは恥ずかしくて言葉もモゾモソ。しかし食べるためならやむを得ない。羞恥《ちじょく》心を捨てると、後はごく自然に「お願いします」と元気良く声が出るようになって収穫も少しずつ増え、食生活の手助けができることが自慢ですらあった。

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編集者 (代理投稿)

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