チョッパリの邑 (29) 椎野 公雄
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チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり> (編集者, 2007/4/28 7:38)
- チョッパリの邑 (2) 椎野 公雄 (編集者, 2007/4/29 7:43)
- チョッパリの邑 (3) 椎野 公雄 (編集者, 2007/4/30 6:49)
- チョッパリの邑 (4) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/1 7:21)
- チョッパリの邑 (5) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/2 8:31)
- チョッパリの邑 (6) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/3 7:38)
- チョッパリの邑 (7) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/4 8:37)
- チョッパリの邑 (8) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/5 7:51)
- チョッパリの邑 (9) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/6 8:12)
- チョッパリの邑 (10) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/7 7:47)
- チョッパリの邑 (11) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/8 7:46)
- チョッパリの邑 (12) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/9 5:57)
- チョッパリの邑 (13) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/20 10:17)
- チョッパリの邑 (14) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/21 9:32)
- チョッパリの邑 (15) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/22 8:44)
- チョッパリの邑 (16) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/23 8:05)
- チョッパリの邑 (17) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/24 7:23)
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- チョッパリの邑 (19) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/26 6:51)
- チョッパリの邑 (20) 椎野 公雄 (編集者, 2007/5/27 7:27)
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- チョッパリの邑 (26) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/2 6:56)
- チョッパリの邑 (27) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/3 7:22)
- チョッパリの邑 (28) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/4 7:19)
- チョッパリの邑 (29) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/5 8:04)
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- チョッパリの邑 (32) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/8 8:21)
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- チョッパリの邑 (34) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/10 8:08)
- チョッパリの邑 (35) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/11 7:53)
- チョッパリの邑 (36) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/12 7:54)
- チョッパリの邑 (37) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/13 7:15)
- チョッパリの邑 (38) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/14 7:59)
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チョッパリの邑 (39) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/15 7:52)
- チョッパリの邑 (40) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/16 8:46)
- チョッパリの邑 (41・最終回) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/17 7:27)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
台風に遭遇《そうぐう》し命からがらの避難
翌朝も前日と同じような天気、遠くに陸地が見え順調に船は進んでいるようである。
しかし昼頃になると曇った空は雲が厚くなって風も強くなってきた。普段はその辺にいる筈の漁船の姿も見えない。台風でも近づいているのかなと思っていると、タグが我々の船に寄ってきて空を見上げながら船員同士大きな声で何か話し合っている。様子を窺《うかが》っていると、どうやら本当に台風が来ているらしく、時化を避ける算段をしているようだ。
日本人の世話役から説明がある。
「台風が来ているそうで、夕方までに少し陸地に寄って波を避けることにします。若し許されれば港に入るかも知れません。しかし皆さんはできるだけ船艙《せんそう=ふなぐら》にいて下さい」
台風を避けようとした場所ははっきりしないが、平壌《ピョンヤン》の西、江西(カンソ)・龍岡(ヨンガン)の沖合い、鎮南浦までもう少しという地点だったと思われる。少しずつ陸地が近づいてくる頃には風も強くなって船の揺れもだいぶ大きくなっていた。
辺りも薄暗くなり始め、ぼんやり小さな港らしきところが見えた頃、案の定一隻の沿岸警備艇が近づいてきた。一人がタグに乗り移りこちらの方を指差しながら船員と暫く話し込んでいたが、事情を了解したのかこちらの船の中を検査するでもなく、自船に戻ると「こちらへ来い」とばかりに大きく手を振って我々を先導する形で離れていく。
こちら側も仔細《しさい》が飲み込めないので、日本人世話役を通じて確認するが、船員は「とにかく港まで来るように」との指示だという。
すぐ大人達何人かが協議し、「今は海上の危険を回避するのが先決」、「しかも時間的な余裕がないので直ちに指示に従おう」との結論である。ただこの荒天でのタグの曳航《えいこう》は危険が大きく、いざとなったら自分たちの安全のために後ろは切り離されて、我々は港に着くどころか漂流の憂き目に遭わないとも限らない。どこまで彼らが我慢してくれるか判らないが、何としても港まではタグに逃げられない手段を講じる必要がある。
そして「三、四人がタグに乗るべし」となって人選が始まった。しかし事は急を要する。
大人…といっても家族を放置するわけにもいかず、結局また小学校高学年の私たちにお鉢《=順番》が回ってきた。
私を含めて三人が乗ることになり、双方の船が揺れるなか先ず私が乗り移り、あと二人。
だが一人は怖がって乗りきれない。時間は刻々と進むし、船員も苛立《いらだ》ってもう一人は拒否されたまま、最終的に私一人が「人質」となったのである。
私はこれまでも色んなことをやらされ「仕方ない」と腹も据わっていたし、好奇心も手伝って、タグに乗れることが嬉しくもあった。
タグの船長も最初は自分たちが疑われたことが面白くないとみえて憮然《ぶぜん》としていたが、健気《けなげ》に乗り込んできた私を頼もしく思ったか、厄介者扱いもせず私を操舵室《そうだしつ》の端に座らせると、「では行くぞ」とばかりに目配せして、先ほど警備艇が指示した方へ走り始めた。
いくら好奇心旺盛、また命令とはいえ小学校六年の子供が皆と離れて一人で行動するなど、今にして思えば我ながらも大胆だったと思うが、その時は未だごく安気に考えて数時間後の地獄は頭になかったのである。
だんだん風も強くなり波頭も白く砕《くだ》けるようになる中、私の乗ったタグと二隻の船は小一時聞かけて小さな島を回りこんで、遠くにあまり大きくない貨物船や漁船の影、そして町の灯りがかすかに見えるから何処かの港に違いないという地点に辿《たど》り着こうとしていた。
しかしあと数キロ程という辺りで急に風が強くなって波は右手前方から大きく打ち寄せるようになってきた。
船長は右に大きく舵《かじ》を切って波を真正面から受ける形を整える。しかし次第に大きさを増す波は眼前に高い壁になったかと思うと激しい勢いで舳《へさき》に叩《たた》きつけてくる。その直後船は大きく宙に浮いたと思った瞬間、今度は海の底に引きずり込まれるように沈んで、前のどす黒い波の壁は更に大きくなって船に覆い《おおい》被《かぶ》さってくる。瞬間、ドスンと壁にぶつかってはじける波しぶきは激しく流れ飛んで操舵室の窓は一瞬何も見えなくなる。甲板で後ろの船の様子を見ていた船員も危険を感じたのか、波しぶきを浴びながらよろよろと操舵室に入り込んできて狭い船室の中は私を含め三人になった。中央で蛇輪を握《にぎ》りながら仁王立ち《におうだち》になって船を制御している船長も、ある程度は予測していたとはいえ風波の急激な変化に戸惑ったと見え大声で叫び始める。
「○○OO………OOOO……○○○○」
何を言っているのか勿論私には解らないし、それも半分以上は波しぶきの音でかき消されて良く聞こえないが、身振りから想像すると「これ以上曳航は無理」、「後ろの船に錨《いかり》を下ろさせ、繋がったロープを外せ」と言っているようだ。
確かにこの状態では、素人目にみても曳き船の機能は完全に麻痺《まひ》しているし、互いが危険ですらある。港は間近だし中に入らなくても錨綱は届くのだろう。一人が船窓から身を乗り出すようにして後ろの船に合図をし、彼も外に出ようとするが船の揺れに身が定まらない。
不安定な姿勢で暫く身振り手振り連絡していたが、後ろも状況を理解したのか作業に取り掛かり始めた。しかし如何せんこの事態ではスムーズに事が運ぶ筈もなく、手間取っている間も高波は間断《かんだん=たえま》なく襲いかかってくる。
「ドスン…パシャ…ギシギシ…カラカラ…」、船はまるで大波に弄《もてあそ》ばされる木の葉のよう。波しぶきと一緒に間歇的《かんけつてき=止んでまたおこる》に聞こえる「カラカラ」が最初は何の音かと不思議であったが、船が宙に浮いた時スクリューが空回りする音であることに気が付いた。
激しくなる波しぶきや船の軋《きし》みとともに、叫びあう船員達の声も次第に悲鳴に近くなって、私も「これはただ事ではない」、「このまま波に飲み込まれて沈没?」と不吉な予感が脳裏をかすめる。心配になって椅子の背もたれをしっかり掴《つか》みながら後ろの小窓から後方を見ると、波に乗り上がった瞬間に父たちの船もこちらを向いて大きく揺れているのがわかる。
しかし三〇トンと三〇〇トンでは揺れ具合もだいぶ違う。こちらが「葉っぱ」なら向こうは「木の枝」、少なくとも「沈没するとしたらこちらが先」と思い始めたら急に怖くなってきた。
しかしこうなってしまった以上今更泣き言をいっても始まらない。船は船長に任せ、天気の回復を天に祈るしかない。ままよと腹を決め、しっかり手摺りを握って上下・前後・左右に揺れ動く船から、少なくとも外に放り出されないような姿勢をとって、執拗《ひつよう》に襲ってくる波と必死で闘うよりなかったのである。
どれくらい波と格闘していたろうか。風が右から左に少し変わって船の浮き沈みの合間、正面に港の灯りが見えるようになると、風もほんの少し弱まって波に翻弄《ほんろう》される度合いもだいぶ小さくなってきた。
「若しかしたら助かるのかも」と、私は初めて正気に返っていた。
外はもう真っ暗。振り向いても後ろにいる筈の父たちの船影は見えない。或いはあのとき錨を下ろし私のタグとは離れてしまったのだろうか。
辺りは暗いが近くに突堤の灯もあるから私たちはどうやら港の入り口付近にいるらしい。
私はようやく平常心を取り戻している船長に「後ろの船はどうした」と手振りで間くと、彼も「安心せよ」、「少し離れたけど大丈夫だ」と笑顔を作りながら片言の日本語混じりで答えてくれ、とにかくホッと胸を撫《な》で下ろす。そして「怖かったろう、でもよく頑張ったな」と肩を叩《たた》いてくれた船長が急に頼もしく、また親しい友人のように思えてきたのも不思議な感覚であった。
船室の時計を見るともう九時を過ぎている。とすると三時間以上は激浪に身を委ね続けていたということだ。
暫くすると先はどの警備艇が近づいてきて、二人の隊員が乗り込んできた。
彼らは何事かを話し込んでいるが、勿論内容は私には解らない。時々私の顔を見てもあまり険《けわ》しい様子を見せないのが救いである。十五分ほどで警備艇は離れていった。
「このまま此処で台風をやり過ごし、夜が明けたら後ろの船に合流する」、腹が減っただろうから、これを食べて休め」と片言の日本語で言い、トウモロコシのパンと生ぬるいお茶を分けてくれた。考えてみると昼飯もろくに食べていなかったから、「コマスミダ」と礼をいって口に放り込んだが、「肋かっか」という気持ちも手伝って、久しぶりに美味い食べ物に出会ったような気持ちであった。
後ろの船にいる家族は心配だったが、この際はジタバタしても始まらない。船長の言葉を信じて船室でごろりと横になると、そのまま眠り込んでしまった。
翌朝も前日と同じような天気、遠くに陸地が見え順調に船は進んでいるようである。
しかし昼頃になると曇った空は雲が厚くなって風も強くなってきた。普段はその辺にいる筈の漁船の姿も見えない。台風でも近づいているのかなと思っていると、タグが我々の船に寄ってきて空を見上げながら船員同士大きな声で何か話し合っている。様子を窺《うかが》っていると、どうやら本当に台風が来ているらしく、時化を避ける算段をしているようだ。
日本人の世話役から説明がある。
「台風が来ているそうで、夕方までに少し陸地に寄って波を避けることにします。若し許されれば港に入るかも知れません。しかし皆さんはできるだけ船艙《せんそう=ふなぐら》にいて下さい」
台風を避けようとした場所ははっきりしないが、平壌《ピョンヤン》の西、江西(カンソ)・龍岡(ヨンガン)の沖合い、鎮南浦までもう少しという地点だったと思われる。少しずつ陸地が近づいてくる頃には風も強くなって船の揺れもだいぶ大きくなっていた。
辺りも薄暗くなり始め、ぼんやり小さな港らしきところが見えた頃、案の定一隻の沿岸警備艇が近づいてきた。一人がタグに乗り移りこちらの方を指差しながら船員と暫く話し込んでいたが、事情を了解したのかこちらの船の中を検査するでもなく、自船に戻ると「こちらへ来い」とばかりに大きく手を振って我々を先導する形で離れていく。
こちら側も仔細《しさい》が飲み込めないので、日本人世話役を通じて確認するが、船員は「とにかく港まで来るように」との指示だという。
すぐ大人達何人かが協議し、「今は海上の危険を回避するのが先決」、「しかも時間的な余裕がないので直ちに指示に従おう」との結論である。ただこの荒天でのタグの曳航《えいこう》は危険が大きく、いざとなったら自分たちの安全のために後ろは切り離されて、我々は港に着くどころか漂流の憂き目に遭わないとも限らない。どこまで彼らが我慢してくれるか判らないが、何としても港まではタグに逃げられない手段を講じる必要がある。
そして「三、四人がタグに乗るべし」となって人選が始まった。しかし事は急を要する。
大人…といっても家族を放置するわけにもいかず、結局また小学校高学年の私たちにお鉢《=順番》が回ってきた。
私を含めて三人が乗ることになり、双方の船が揺れるなか先ず私が乗り移り、あと二人。
だが一人は怖がって乗りきれない。時間は刻々と進むし、船員も苛立《いらだ》ってもう一人は拒否されたまま、最終的に私一人が「人質」となったのである。
私はこれまでも色んなことをやらされ「仕方ない」と腹も据わっていたし、好奇心も手伝って、タグに乗れることが嬉しくもあった。
タグの船長も最初は自分たちが疑われたことが面白くないとみえて憮然《ぶぜん》としていたが、健気《けなげ》に乗り込んできた私を頼もしく思ったか、厄介者扱いもせず私を操舵室《そうだしつ》の端に座らせると、「では行くぞ」とばかりに目配せして、先ほど警備艇が指示した方へ走り始めた。
いくら好奇心旺盛、また命令とはいえ小学校六年の子供が皆と離れて一人で行動するなど、今にして思えば我ながらも大胆だったと思うが、その時は未だごく安気に考えて数時間後の地獄は頭になかったのである。
だんだん風も強くなり波頭も白く砕《くだ》けるようになる中、私の乗ったタグと二隻の船は小一時聞かけて小さな島を回りこんで、遠くにあまり大きくない貨物船や漁船の影、そして町の灯りがかすかに見えるから何処かの港に違いないという地点に辿《たど》り着こうとしていた。
しかしあと数キロ程という辺りで急に風が強くなって波は右手前方から大きく打ち寄せるようになってきた。
船長は右に大きく舵《かじ》を切って波を真正面から受ける形を整える。しかし次第に大きさを増す波は眼前に高い壁になったかと思うと激しい勢いで舳《へさき》に叩《たた》きつけてくる。その直後船は大きく宙に浮いたと思った瞬間、今度は海の底に引きずり込まれるように沈んで、前のどす黒い波の壁は更に大きくなって船に覆い《おおい》被《かぶ》さってくる。瞬間、ドスンと壁にぶつかってはじける波しぶきは激しく流れ飛んで操舵室の窓は一瞬何も見えなくなる。甲板で後ろの船の様子を見ていた船員も危険を感じたのか、波しぶきを浴びながらよろよろと操舵室に入り込んできて狭い船室の中は私を含め三人になった。中央で蛇輪を握《にぎ》りながら仁王立ち《におうだち》になって船を制御している船長も、ある程度は予測していたとはいえ風波の急激な変化に戸惑ったと見え大声で叫び始める。
「○○OO………OOOO……○○○○」
何を言っているのか勿論私には解らないし、それも半分以上は波しぶきの音でかき消されて良く聞こえないが、身振りから想像すると「これ以上曳航は無理」、「後ろの船に錨《いかり》を下ろさせ、繋がったロープを外せ」と言っているようだ。
確かにこの状態では、素人目にみても曳き船の機能は完全に麻痺《まひ》しているし、互いが危険ですらある。港は間近だし中に入らなくても錨綱は届くのだろう。一人が船窓から身を乗り出すようにして後ろの船に合図をし、彼も外に出ようとするが船の揺れに身が定まらない。
不安定な姿勢で暫く身振り手振り連絡していたが、後ろも状況を理解したのか作業に取り掛かり始めた。しかし如何せんこの事態ではスムーズに事が運ぶ筈もなく、手間取っている間も高波は間断《かんだん=たえま》なく襲いかかってくる。
「ドスン…パシャ…ギシギシ…カラカラ…」、船はまるで大波に弄《もてあそ》ばされる木の葉のよう。波しぶきと一緒に間歇的《かんけつてき=止んでまたおこる》に聞こえる「カラカラ」が最初は何の音かと不思議であったが、船が宙に浮いた時スクリューが空回りする音であることに気が付いた。
激しくなる波しぶきや船の軋《きし》みとともに、叫びあう船員達の声も次第に悲鳴に近くなって、私も「これはただ事ではない」、「このまま波に飲み込まれて沈没?」と不吉な予感が脳裏をかすめる。心配になって椅子の背もたれをしっかり掴《つか》みながら後ろの小窓から後方を見ると、波に乗り上がった瞬間に父たちの船もこちらを向いて大きく揺れているのがわかる。
しかし三〇トンと三〇〇トンでは揺れ具合もだいぶ違う。こちらが「葉っぱ」なら向こうは「木の枝」、少なくとも「沈没するとしたらこちらが先」と思い始めたら急に怖くなってきた。
しかしこうなってしまった以上今更泣き言をいっても始まらない。船は船長に任せ、天気の回復を天に祈るしかない。ままよと腹を決め、しっかり手摺りを握って上下・前後・左右に揺れ動く船から、少なくとも外に放り出されないような姿勢をとって、執拗《ひつよう》に襲ってくる波と必死で闘うよりなかったのである。
どれくらい波と格闘していたろうか。風が右から左に少し変わって船の浮き沈みの合間、正面に港の灯りが見えるようになると、風もほんの少し弱まって波に翻弄《ほんろう》される度合いもだいぶ小さくなってきた。
「若しかしたら助かるのかも」と、私は初めて正気に返っていた。
外はもう真っ暗。振り向いても後ろにいる筈の父たちの船影は見えない。或いはあのとき錨を下ろし私のタグとは離れてしまったのだろうか。
辺りは暗いが近くに突堤の灯もあるから私たちはどうやら港の入り口付近にいるらしい。
私はようやく平常心を取り戻している船長に「後ろの船はどうした」と手振りで間くと、彼も「安心せよ」、「少し離れたけど大丈夫だ」と笑顔を作りながら片言の日本語混じりで答えてくれ、とにかくホッと胸を撫《な》で下ろす。そして「怖かったろう、でもよく頑張ったな」と肩を叩《たた》いてくれた船長が急に頼もしく、また親しい友人のように思えてきたのも不思議な感覚であった。
船室の時計を見るともう九時を過ぎている。とすると三時間以上は激浪に身を委ね続けていたということだ。
暫くすると先はどの警備艇が近づいてきて、二人の隊員が乗り込んできた。
彼らは何事かを話し込んでいるが、勿論内容は私には解らない。時々私の顔を見てもあまり険《けわ》しい様子を見せないのが救いである。十五分ほどで警備艇は離れていった。
「このまま此処で台風をやり過ごし、夜が明けたら後ろの船に合流する」、腹が減っただろうから、これを食べて休め」と片言の日本語で言い、トウモロコシのパンと生ぬるいお茶を分けてくれた。考えてみると昼飯もろくに食べていなかったから、「コマスミダ」と礼をいって口に放り込んだが、「肋かっか」という気持ちも手伝って、久しぶりに美味い食べ物に出会ったような気持ちであった。
後ろの船にいる家族は心配だったが、この際はジタバタしても始まらない。船長の言葉を信じて船室でごろりと横になると、そのまま眠り込んでしまった。
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編集者 (代理投稿)