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チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり>

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/7 7:39
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 解放され、再び洋上へ

 暫く、苦しんだ台風の話を皆でしていたが、父は呼ばれて甲板に上がって行った。帰ってくるや、「タグ《曳き船》はここまでで、これからは機帆船《きはんせん=発動機つきの帆船》二隻の単独航行になる」、更に「男性が一隻に、老人・子供を含む家族はもう一隻に分乗することになった」という。

 父の話では「直接話したわけではないから理由はよく解らないが、聞くところ南浦《ナンポ》の官憲が言うには『日本人の南鮮への渡航は公式には許可されない』、しかし『非公式ながら新長州で許可され此処《ここ》に至った経緯を勘案し、家族については改めてこれを許可する』、また『男性については本来許可し難いが、最初から同行していなかったものとしてこれを見逃す』ということになったようだ。ついては別々の行動としてこれを認めるので、速やかに船を乗り換えて出港せよとのことだ」との説明である。

 先ほど、沿岸警備艇・タグの両者で何やら話し合ったあと、二人の隊員が私と一緒にこちらに乗り移り、船員や日本人数名と話をするのも見ていて、何かあるなとは思っていたが、少なくとも「拿捕《だほ=とりおさえられる》」という最悪の事態が避《さ》けられたことは幸いというほかなく、取りあえずはホッとする。
 実際のところ、タグの船員にしてみれば曳航《えいこう》は「コリゴリ」との気持ちもあったろうし、官憲としても「これだけの大人数を抱え込むのも大変。逃がすのならいち早く逃がした方が良い」と判断したのではなかったろうか。

 早速父達は手荷物を持って向こうの船に、また向こうの家族は荷物を纏《まと》めてこちらに乗り移ることになって、慌しく移動が始まった。ただ家族が一つの船にといっても、船員二人を除けば男手は子供の私達だけでは不安があるとして、監督役に五人がこちらに残されたが、父と離れることになった私達としてはこの五家族が羨《うらや》ましかった。
 こうして小一時間で移動も完了し、同じ大きさの船ながら、男船には約六〇人、家族船には一二○人ほどが乗って、鎮南浦《チンナンポ》をあとに再び南に向けての船旅が始まった。

 昼過ぎには外洋に出たものの、彼らが許可した条件に従って、私達の家族船は沿岸部を公然と航行できるが、父達の船は可能な限り隠密裏《おんみつり》の行動を取らねばならない。従って警備艇に見つからない程度の沖合いを進むことになり、その姿は次第に小さくなっていった。

 暫くはお互いに見え隠れする距離で並行して走っていたが、昼を過ぎる頃から又もや低気圧でも接近しているのか天候が悪化、風波も強くなって船の揺れも大きくなると、時として向こうの船影も視界から消えることが多くなり、夕方にはとうとう見失ってしまった。
 未だ昨日の悪夢が冷め切っていない私達には、男親が側にいないということはこの上なく心細く、船内は自然に言葉数も少なくなって重苦しい雰囲気が漂《ただよ》ってくる。
 「お父さん達は何処かへ連れていかれたんじやないだろうね」
 ポツリと呟《つぶや》く母の言葉に、「そうか。そんなこともあり得るのか」と、彼らの条件が不思議だっただけに私にも不安がよぎる。
 「連れていかれる」としても、男手相手に朝鮮人の船員の意思だけではそういう事態もあり得ないし、やはり警備艇に拿捕《だほ》されたのかも、と思ったりする。しかしどうすることもできないので、気がかりながら窮屈《きゅうくつ》な船舶で一夜を過ごすよりなかった。
 
 不安な夜が明けると甲板に出た一人が大声で叫んでいる。
 「もう一隻の船が見えるぞ!」私も大急ぎで甲板に駆け上がり見つけた人の指差す方に目をやると、確かに昨日別れた父達の乗る船が見える。こちらも陸地をかなり離れているから大海原に二隻が偶然に出会った恰好《かっこう》、これはもう奇跡としか言いようがない。未だだいぶ遠いが向こうも気がついたとみえて次第に近づいてくる様子。三〇分もしないうちにお互いの顔が確認できる所まで接近し、その中にニコニコする父の姿もあった。

 しかし出会ったといっても、また前のように乗り換えることもできないから、そのまま並走《へいそう》して南下するしかないが、とにかく別々の船ではあっても、父親が無事に、しかも元気ですぐ側にいてくれることが私には嬉《うれ》しかったし他の家族も恐らく同じ気持ちであったろう。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/8 8:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 食料と水を求めて夜陰密《ひそ》かに上陸

 こんな僥倖《ぎょうこう=思いがけないしあわせ》があった日も、考えてみれば既に多獅島を出て五日日、当初の予定ではそろそろ目的地に着く頃だが、台風のお陰で未だ半分しか来ていない。食料も多少余分に持って来たとはいえ残りも少なくなっていたから、一回の分量は日増しに減って、皆一様に「腹減ったな」、「何かたらふく食べたい」と思うことが多くなっていた。しかし船の中、しかも脱走者としては食料入手の手段がない。その辺にたくさん泳いでいる筈の魚も道具がないので何ともならない。とにかく残っているものを食べつなぐしか方法がないから身体はなるべく動かさないようにして飢えを凌《しの》ぐより仕方がなかった。

 食料以上に深刻な問題は水であった。夫々に水筒や薬缶《やかん》を持ってはいるか殆《ほとん》どは既に空になっている。頼りの船の水もそろそろ底を尽きかけており、喉《のど》を潤《うるおす程度にしてもこれだけの大勢の人間ではあと一日がやっとの状況。雨でも降れば帆で受けて多少でも貯《たくわ》えることはできるが、量は知れている。現に昨夜も少し降ったので帆を広げて雨を受けてはみたものの、パカチ(大きなウリを半分に切りその中身を抜いて皮を乾かした柄杓兼バケツ)三杯程しか溜《た》まらなかった。

 私達のように健康な者は「ひもじい」、「喉が渇《かわ》く」で多少の我慢はできるが病弱な人、幼児には堪《こた》えるようで、目にみえ衰弱していくのが痛々しい。
 この先、最短でも三日はかかるとすれば、「危険を冒してでも何処かで食料と水を補給しなければならない」と衆議二次、幸いに男手も加わった今晩夜陰に紛《まぎ》れて上陸しようということになった。

 夕方から少しずつ陸地に近づき、辺りが暗くなった頃を見計らって小さな漁村と思しきところに着岸、朝鮮人船員四人を先導役に二〇人ほどが上陸する。事前に鼻薬《はなぐすり=少量のわいろ》を効かせ、若干の金銭を持たせてある船員には民家に飛び込んでトウモロコシや黍《きび》などの食料や水を調達させる間、私達は裏手に回って畠の芋や野菜類手当たり次第に掘り起こす。ついでに喉《のど》の渇きを潤《うるお》そうと薄明かりで水場を探すが見つからない。仕方がないので田んぼに溜まった水の上澄みをそっと手で掬《すく》って口に入れる。綺麗《きれい》ではないし多少の臭いはするが、この際はやむを得ない。
 「あまり飲むと下痢するぞ」と言いながら父達も同じように掬《すく》って飲んでいる。

 船員達、表向きの調達班はいいとして、夜盗の私達は長居は無用と収獲物を手に急いで帰船。水などを運び終えた船員も揃《そろ》ったところで慌しく舫《ふね=二艘ならんだふね》を解いて出航したが、特に「泥棒!」と追われなかったのは幸いとしかいいようがなかった。
 戦利品は皆で少しずつ分け合い、母達の手によって料理された食事は、たらふくとはいえなかったが久しぶりに暖かくて美味しい夜食となった。 

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/9 7:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 悲しい別れと最大の難所・長山串《チャンサン》

 海上はきわめて穏やか、従って船足は遅く、ようやく夜が明けるころ朝鮮半島で最も西に突き出している長山串沖にさしかかろうとしていた。

 この朝、病弱で嵐の頃から状態の思わしくなかった一人の幼児が、「もう少し」の期待も空しく母親の腕の中で息を引き取った。船旅が始まって以来死者は始めてのことである。筵《むしろ》に包まれた遺体は両親の涙とともに静かに洋上に葬られた。異国の地で生をうけ苛酷《かこく》な日々のみを過ごしたのち、母国の緑も空気も食べ物も味わうことなく見知らぬ海にその命が鎮《しず》められる。何とも痛ましい情景で、波間に遠ざかっていく子供を追って艫《へさき》まで走った両親の後姿を見ながら、私達もただ手を合わせるしかなかった。

 そんな悲しい別れがあった数時間後、私達の船はこの辺りで最大の難所と言われる長山串《チャンサン》がすぐ間近というところまでやってきた。この辺りまでくれば三十八度線も近く、警備も厳重になっている筈だし、本来ならば真っ直ぐ白?(ペンニョン)、大青(テチョン)の二つの大きな島の西を南下して一気に三十八度線を越える方が安全ではあるが、かなり大回りになってこの船足ではほぼ一日余分にかかってしまう。船には他にも身体の弱った幼児や老人がいて、もうこれ以上犠牲者を増やすことは許されないから、警備上の危険はあっても岬を回ったら向きを少し東に変えて少しでも近道することを決めて船を進めることになった。

 朝鮮半島も黄海側は干満の差が大きく、特にこの一帯は島が多く海流の変化が激しいので航行する船舶は難渋する場所である。殊に長山串から大東湾にかけては難所中の難所、嫌がる船員を宥《なだ》めすかし、決死の覚悟で危険な航路に入っていく。

それでも危険な長山串は、できるだけ離れて通過する予定であったが、海流のせいか船は吸い寄せられるように岬に近づいていく。岩肌あらわな陸地と船の距離は数百メートルしかなく、間に海水が大きく渦を巻き、岩礁《がんしょう》には小さな難破船と思われる船の残骸《ざんがい》が見える。

 ――――――――と思った瞬間、先ず私達の船が渦《うず》に巻き込まれて左側に一回転する。ヒヤリとしながら渦の真中にいかなければいいがと願っていると、幸いにもグルリと大きく回って外に弾《はじ》かれるように渦から脱出することができた。右後方でこれを見ていた父達の船はすぐさま舵《かじ》を右に切って難を逃れる。船員の操舵《そうだ=かじの操り》も上手かったのだろうが、すんでのところで海の藻屑《もくず》となるところであった。

 何とか難所を乗り切った船は、その後順調に大東湾を南東に進み夕方近くになると甕津半島(オンジンバンド)の南に位置する巡威島をグルリと回って海州港の沖合いに達したらしく、往来の船影も増えてきた。ということは沿岸警備艇に見つかる可能性もないとはいえず緊張が走る。しかし三十八度線は直ぐそこというここまで来て彼らに見つかり「拿捕《だほ》」となれば今までの苦労は水の泡、とにかく夕暮れ時という条件を利して一気に目的地・仁川《インチョン》のある京畿《キョンギ》湾へ突入しなければならない。


 船員、三十八度線越えを拒否

 皆の気持ちも高まる、そんな時又もや問題が発生した。
 四人の朝鮮人船員が「南へ行くと自分達の身が危険だ」、「我々はこの辺で降りる」と言い出したのである。こちらも、そこまでは考えていなかったけれども、言われてみると別に意外なことではない。相談の結果、「何処か陸地に近い島陰に一時停船して彼らを解放しよう」、「あとは我々だけで突っ走るだけだ」となって急遽《きゅうきょ》小船を降ろし彼らを逃がすことになった。

 相応の報酬は渡してあるとはいえ、多獅島を出発以来、嵐の日も含めて六日間よく付き合ってくれたものである。別れるとなると妙に親近感が湧いてきて、「コマスミダ」、「アンニョンカセョ」と声をかけると、彼らも夕闇の中で手を振りながら離れていった。

 さあ、あとは大延平島をすり抜ければ待望の三十八度線越えである。船頭はいなくなったけど、これまで彼らの操船の手伝いをしてきた経験もあり、「何とかなるさ」と男親達が配置について船は順調に動き始める。ただ経験があるといっても、あくまでも素人が動かす船、どちらが南か北かもわからないから不安この上ないが、幸いなことに中秋の月明かりでぼんやりと陸の影は見え、その影を遠く左に見ながら、また月が左から右に動く姿を見て進めば南の方角は凡そ見当はつく。それでも未だ北の領海内、警備艇が迫ってこないとも限らないし、他船と衝突する危険もあって決して油断はできない。とにかく限りなく無謀な船旅ではあるが、待ちに待った希望の地がすぐそことなれば運を天に任せて進むより仕方がなかった。

 その頃、具合の悪かったもう一人の幼児がまた亡くなったことを知る。明日には仁川という時だけに親としては遺体をそのまま南に運びたいが、それとて明日・明後日が確実というわけではなく、南にいったところで荼毘《だび》に付すことも叶わない。となれば今朝と同じように水葬するほか道がない。胸の張り裂ける思いであったろうが仕方なく船上より再び葬られた。


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/10 8:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 夢にまでみた安全の地・仁川《インチョン》

 こんな悲しい出来事が続いたあと、船は何とか順調に進んでいるが、とにもかくにも一刻も早く南の領海に入ってくれることを祈るしかない。

 希望と不安でまんじりともしない夜が白々と明け、向こうに幾つかの島影が見える頃、一人が大きな声で叫んだ。
 「警備艇らしい船が近づいてくるぞ!」、
 「気をつけろ!」といいながら何人かが甲板に駆け上がる。
 「また北の警備艇に捕まるのか」と私達も船内で息を潜《ひそ》めていると、間もなく「どうも南の船らしい」との声。私も急いで上に出て様子を窺《うかが》うと、近づいてくる船には見覚えた北の国旗とは別の旗がはためいている。どうやら私達は無事に三十八度線を越え夢にまで見た南に着いたようだ。

 お互いに速度を落とし接舷《せつげん》した南鮮の警備艇から二人の隊員がこちらに乗り移ってきた。
 「日本人か?」 流暢《りゅうちょう》な日本語で尋ねる顔にも穏やかな笑みがある。
 こちらの代表者が我々一団の概要と、ここまできた経緯を説明すると、「解った。大変な苦労をされたと思うが、もう安心して下さい。諸君の身柄は米軍に引き渡すことになるが、詳細は追って通知します」、「病人など緊急に処置が必要な人は申し出て下さい。若干の食料、水など後ほど補給に来ます」と言うと下船し離れていった。

 「やったぞ!」、「我々は漸《ようや》く自由になったんだ」、「バンザイ!バンザーイ!」
 みな今の気持ちをどう表現したら良いのかなど考える余裕もなく、ただただ大声で叫び、手を取り合い肩を抱き合って、無邪気に喜びを分かち合っている。傍らでは呆然《ぼうぜん》と立ちすくみ涙を流している人もいる。私達家族もその輪の中で「良かった、良かったね」と顔を見合わせて喜びを確認し合う。

 両船は島陰に錨《いかり》を降ろし、元の船への乗り換えが始まり、父も久しぶりにこちらへ乗り移ってきた。
 「皆よく頑張ったな」、三日振りに間近で聞く父の声は張りがあって頼もしかった。
昼を過ぎるころ、先はどの警備艇がトウモロコシや黍《きび》パン、水などを積んで持ってきてくれた。考えてみると、この一日半何も食べていない。怖さと、その後の喜びで空腹も忘れていたが、分配された食べ物は瞬《またた》く間に我々の胃の腑《ふ=いぶくろ》に納まった。

 「諸君は明朝仁川《インチョン》への上陸が許可されたので、今晩はここで留まるように」警備艇は、そういい残すとまた港へ引き返していった。

 明日以降のことは、ただ「上陸させる」と言われただけで、どんな処遇を受けるのか、日本への正式帰還はどうなるのか今のところ全くわからない。しかし船の中にはようやく訪れた「安全」を噛みしめながら、今までの苦労が嘘だったかのように静かで平和な時が流れているのは確かであった。

 夕闇が迫る頃、私は外の気配を確かめたくなって一人で甲板に上がった。
 見回すと島陰と水のみで、仁川の港は未だ見えないから、恐らくは京畿《キョンギ》湾に浮かぶ永宗(ヨンジョン)島あたりにいたのではなかろうか。多獅島を出てちょうど一週間、台風さえなければもう少し早く着いたであろう南朝鮮の風景は、穏やかで、空気すら自由に吸える感じがする。船室から聞こえる笑い声を聞きながら、私は遠く苦しかった旅の全てを吐き出す思いで、二回、三回と大きく深呼吸した。


 翌朝は良く晴れて空気も気持ちも清々しい。
 九時頃だったろうか、昨日の警備艇が曳き船を一隻従えてやってきて「これから仁川まで曳航《えいこう》する」という。多獅島を出た時と同じように二隻は繋《つな》がれて静かに動き始める。
小一時間もすると辺りの船数も増えて待望の仁川港が見えてきた。

 港内の所定の場所に着船しようとする時、私は不思議な車が突堤の上を疾走《しっそう》するのを見た。後ろが幌《ほろ》になった小型の四輪自動車で、鍔《つば》がなく上部の前後が尖《とが》ったカーキ色の帽子を被《かぶ》った色白の男が運転している。これが後で知るアメリカ兵の運転するジープなのだが、とにかく早くて軽快、南で見た最初の「驚き第一号」であった。

 着岸するや一斉に上陸。嵐のあと食べ物と水を求めて上陸した以外、ずっと船中の生活を強いられた皆の足は弱って歩くのもたどたどしい。しかし、この地こそ私達が夢にまで見た「安全」の土地・仁川《インチョン》である。多少足はよろけても、もう何の足かせもない。一歩一歩、その安全を確認するかの如く歩を進める。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/11 7:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 京城(ソウル)近郊の収容所生活

 船着場のはずれ、少し広いところに着くと、点呼のあと五台の大型トラックに乗せられた。
 頑丈なアメリカ製のトラックは荷台も高く、弱った身体には登るのも一苦労だ。先ず私が登り、弟を引き上げる。姉、母を下から押し上げた父が最後に登り、他の家族も順次荷台に落ち着くと、トラックは砂煙をあげて一路ソウル近郊の難民収容所へ向かって走りだした。
 暫《しばら》くして大きな川(漢江)を渡ると賑やかな京城《ソウル》の街中に入るが、車は止まる様子もなく更に北へ向かって走る。仁川から一時間以上走ったろうか、学校かと思われるところで降ろされた。「ここが収容所だ」と言われてよく見ると、米軍施設の一部らしく仮設の小屋が何棟かあるほか、屋根だけの大きなテントが10個ほど張られている。収容者は殆どが日本人、数にして二〇〇〇人はいたのではなかろうか。

 南朝鮮では終戦直後からアメリカ軍政庁によって日本人の「引き揚げ」が実行され、この時期には残留禁止令も出てもう殆《ほとん》ど残っていなかったから、いるのは北もしくは満州からの帰還途中の人間だけだったろう。しかも我々のような立場の人間は南の全地域で未だ数万人以上いたと思われ、京城・釜山《プサン》など10数箇所にここと同じような施設が作られていたが、我々の収容所はそのうちの一つ、京城北部の議政府《ウィジョンプ》という町に設《もう》けられたものであった。

 この「議政府」という土地の名前は、十九世紀末、大韓帝国が成立するころ最高行政官庁として大きな権限・機能を持っていた行政府名で、当時この地に置かれたことに由来していたといわれる。収容所自体は少なくとも街中から離れていたので周《まわ》りには何もない静かな場所であるが、二〇〇〇人もの収容者でごった返す所内は、ここまでの旅で疲れ果て、多数の病人までいるにしては賑やかであった。
 車から降ろされた私達は一列に並ばされ、先ずDDT散布の洗礼を受ける。
 米兵が背負った散布機のノズルから勢いよく吹き出される白いDDTの粉は、私達の頭から足先までを真っ白にし、恰《あたか》も油に放り込まれる前の天ぷらの「具」のよう。その恰好がいかにもおかしくてお互いに顔を見合わせて笑ってしまう。
 DDTの洗礼が終わると、各自に毛布と乾パン・缶詰などの食料が入った袋を一つずつ渡された。お腹も空いてるし早く食べたいが、とにかく宿営《軍隊が宿泊するところ》に落ち着くまではお預けである。
 
 先着組は仮設の小屋をあてがわれているが、新入りは取りあえず下にアンペラ(茣蓙)の敷かれたテント小屋に入れられ、船と同じように家族単位で一定のスペースを確保すると、ようやく落ち着くことができた。未だ身体には白い粉が付いているが、頓着《とんちゃく=気にする》している暇はない。早速渡された袋から乾パンを取り出すと一斉に口に放り込む。暫く確なものをロにしていないので美味《おいし》いことこの上ない。瞬《またた》く間に半分を食べてしまった。
 お腹も膨《ふく》れたので、疲れた身体を毛布に包みゴロリと横になると、そのまま眠り込んでしまう。
 どのくらい眠ったろうか。父の声で目を覚ますと夕方近かったから四~五時間は寝たと思われる。下は固いが船の中と違って身体は揺れないし、もう警備艇を心配することもないから本当にグッスリであった。

 夜食はトウモロコシを湯がいたものと、丸麦のお粥《かゆ》。各家庭毎に持参の器を持って受け取りにいく。おかずは先ほど配られた鯨肉《げいにく》の缶詰、粗末ではあるが久しぶりに汁気のある食事にありつけた。

 この収容所に入った頃は、北と違って未だ朝晩が少し冷えるな」という程度で、野宿同然とはいえ寒さも気にならなかったが、何日か経って九月も下旬に入る頃にはさすがに厳しくなってくる。
 身の安全は確保され、不満足とはいえ食事も一日二回は与えられるから、餓死《がし》することはないが「何時までこんな状態が続くんだろう」、「少なくとも仮設の小屋に入れて貰いたいね」といった苦情も出始める。そうこうするうちに先着組が少しずつ釜山《プサン》経由で帰還すると、仮設小屋にも空きが出て私達も漸《ようや》くそのあとに入れるようになった。
 一歩改善された収容所生活ではあるが、食事は毎日同じようなものしか出ず、特に主食のトウモロコシや丸麦は、身体が弱っているのだろうか、食べると消化されず殆どそのまま排泄《はいせつ》される。つまり毎日下痢ということは、食べたものが身に付いていないことの証で、日を追って体力が低下していくのがわかる。これまで脱走者として張り詰めていた気が急に緩《ゆる》んでいるのも事実だし、このままでは病人が急増していくことも懸念《けねん》された。
 事実、収容者の中では一週間に一人は死人も出て、その度に朝鮮式の葬儀が行われ、「泣き女」によって先導される行列が、銅鑼《どら》《かね》とともに近所の埋葬墓地まで続くのが習わしであった。
 「それにしても、私達は何時日本に帰れるんだろうか」
 十月になっても帰還の日程など何の音沙汰もなく、毎日同じような収容所生活が続いてうんざりしていた或る日、「十日過ぎに仁川から日本の引揚船で正式に帰還することになった。行き先は佐世保だそうだ」との報告が入る。とにかく日本であれば何処でもいいから早く帰りたい。
 そしてその日が十月十四日と決まり、待ちに待った出発の朝がやってきた。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/12 7:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 いよいよ正式な引揚者として帰還の途に

 三週間を過ごした議政府《ウイジョンプ》も名残惜しいが、心はもう佐世保に飛んでいる。来たときと同じようにトラックに乗せられると再び仁川《インチョン》へ。しかし今度は先着していた他の団体も一緒だから車の数も多い。私達より後に入所した人達を残し、約二〇〇〇人が一斉に仁川に向かった。

 仁川港には南朝鮮の船に混じって、アメリカの国旗をはためかせた軍艦や貨物船のほかに、日の丸を掲げる日本の貨物船が二隻見える。船腹の文字から一隻は「大久丸」、もう一隻は「信洋丸」と読めた。ともに五〇〇〇トンほどのあまり大きくない貨物船だ。
 お昼を過ぎる頃、私達はこの二隻のうちの大久丸に乗船することになり、順番に乗り込んだ。

 船はシングルデッキ・ダブルハッチの中型貨物船で、我々が乗り込んだ時には後部ハッチに今まで見たことがない人達が既に乗船して、もう寛《くつろ》いでいた。近辺の収容所は議政府《ウイジョンプ》の他にも何箇所かあったから、そちらから来て先に乗り込んでいたのであろう。

 佐世保引揚援護局《=国外からの引揚者を助ける役所》の記録によると、大久丸は三四九〇人を乗せて十月十五日に入港しているから、我々の収容所以外の人達が1000人以上乗っていたことになる。
 大久丸は我々を運んだあと、大連、シンガポール、中国・胡芦島などに数回派遣され、各二二〇〇~三七〇〇人を乗せているから、この船のキャパシティー《=受容力》としてはほぼ満船状態の乗員数、そして私達家族はこの三四九〇人の中の五人であったのだ。

 因みにこの年、仁川から佐世保への引き揚げはこの大久丸が初めてで、三日後の十月十八日には仁川で姿を見た信洋丸が二一五七人を乗せて入港、翌十九日に永録丸が一九九二人、高栄丸・三五四〇人、二十二日に熊野丸・三五三五人、二十七日に米山丸・二六六六人、三十一日・Q95・一二〇二人、十一月二日・辰日丸・三九七六人など、仁川-佐世保間の引揚者輸送はこのニケ月間に集中して行われ、合計約二二五〇〇人が運ばれている。

 なお朝鮮関係は釜山《プサン》からも入港しているが、一隻当たりの人数は極めて少なく、大半は関門、博多への入港となっている。また朝鮮東岸からは舞鶴《まいずる》が多かったのではなかろうか。

 「具合の悪い方は救護室を用意してありますから、申し出て下さい」と言われて、数人はそちらへ入ったが、我々は貨物と同じ扱いで前方のハッチに誘導される。
 深い船艙《せんそう》の後部に左舷から右舷《うげん=右側の船べり》にかけて仮設された梯子《はしご》階段を伝って降りると、そこは薄暗くて、まるで大きな洞穴に入ったような気分である。我々の一団はできるだけ纏《まと》まるようにして、私達家族は真中あたりに居場所を確保したが、何せ大勢だから全員が横になるだけのスペースはない。まあ一日だけのことだし、 「明日はいよいよ日本となれば少々窮屈《きゅうくつ》でも我慢しなければ」と座り込んだ。

 多獅島を出たときは脱走者であったが、同じ船旅でも今度は希望が直ぐそこにある正式な帰還者である。窮屈ではあるが、文字通り「大船に乗って」の最後の旅がいま始まろうとしているのだ。みな一様に興奮《こうふん》した面持ちで、今朝からの移動の疲れも忘れて隣近所の人達と話し合い、またジッとしていられないと立ったり座ったりで、騒々《そうぞう》しいこと夥《はなはだ》しい。
 暫くは賑《にぎ》やかであったが、全ての人達が乗船し終える頃には船内も静かになってきた。
 外の様子も良くはわからないが、船員の動きや声からすると出航準備が始まったようである。

 タラップが外され、舫《ほう》が解かれる音が聞こえ、エンジンの響きも少し大きくなってくる。
 「いよいよ明日は『内地』だな」しみじみとした父の言葉には、「辛かったけどようやくここまで辿《たど》り着けた。一時は絶望した幸運を自分達はいま掴《つか》もうとしている」という心からの喜びと、「戦争の真っただ中、外地に連れ出した家族を一人も失くすことなく、何とかこうして連れて帰ることができる」という家長としての安堵感があふれていた。
 「こうして皆が元気で一緒に帰れるとはね。夢見たい」やつれた母の顔にも、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 思い起こすと、日本内地を離れたのがちょうど三年前の昭和十八年九月、あの時は関釜《かんぷ》連絡船・興安丸《こうあんまる》の二等船室、太平洋戦争も真っただ中で、不安混じりとはいえ優雅な船旅であった。それに引きかえ、今は貨物船の船底に着の身着のままの薄汚れた姿で膝《ひざ》を抱えて座り込んでいる。大きな違いではあるが、言葉にいい尽くせぬ「外地」での苦難からようやく解放され、明日からは故国・日本での新しい生活が待っている。内地もひどい状態とは聞いていても、この一年の辛酸《しんさん=苦い経験》を考えれば何のこともなかろう。とにもかくにも、「一刻も早く故郷の土を踏みたい、そして明日はその土のある佐世保なのだ」、昂《たか》ぶる気持ちを抑えて噂《しやべ》っているうちに船は汽笛を鳴らして動き始めた。

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 懐かしき故郷・日本、そして佐世保
 
 三四九〇人の引揚者を乗せた大久丸は夜を徹して順調に走り、翌早朝には五島列島《=長崎市の北西海上にある列島》にさしかかっていた。
 父に起こされて甲板に上がると、五島の鮮やかな松の緑が朝日に輝いて目に染《し》みるようだ。三年ぶりに見る内地の景色である。
 「公雄、良く見ておけ。『国敗れて山河あり』というけど、やはり日本の景色はいいな」父も如何にも感慨深げである。
 海も蒼《あお》ければ、その向こうに映《は》える緑も濃く、朝鮮で見て来た樹々の色合いとは全く異なる深みがある。船の動きとともに姿を変える穏やかな島の佇《たたず》まいには「戦争」、「敗戦」の面影が全く感じられないのが不思議なくらいだ。その後何十年も方々の緑を見てきたが、あの時の感動は今も忘れることができない。
 静かな海を滑《すべ》るように船は進み、夢にまで見た母国・佐世保港に着岸したのは昼を過ぎた頃であったろうか。日本の領海に入り、五島の緑に感激し、本土・西彼杵《にしそのぎ》の陸地を右に見ながら目的地・佐世保を目指している時は未だ興奮気味であった船内も、「もうじき佐世保入港です」と船内放送かある頃には、みな安心したのか気が抜けたように静まり返っていた。

 しっかりと岸壁に着いた船の上から、改めて港を見渡してみる。九州生まれの私にも佐世保は初めての土地であって勿論見覚えはないが、何だか懐かしいところに帰ってきたような気がする。
 「ここが佐世保か。とうとう帰って来たんだな」
 未だ空襲の痕《あと》も残っているところもあって痛々しいが、「それでもここは、まぎれもなく日本なのだ」と思うと感慨も一入《ひとしお》、身体の中から嬉《うれ》しさが滲《し》み出てくる思いであった。
 暫くすると船内放送でこれからの予定が伝えられる。
 「皆様ようこそお帰りなさいませ。私は当援護局のOOです。皆様には早速土陸していただきたいところですが検疫が必要です。明朝、船上にて実施されますので、恐縮《きょうしゅく》ですが終わるまで船内に留まっていただきます」
 記録によると、この年の五月、満州からの引揚者の中からコレラ患者が発生、蔓延《まんえん=ひろがる》したことがあり、既に十月には収まっていたものの、受け入れ側としては神経質になっていたからやむを得ない状況ではあった。すぐ上陸できると思っていた私達には残念だったが指示に従うよりなかった。

 翌朝、白衣を着た検疫《=伝染病の有無を調べる》官が大勢乗り込んできて検疫が始まった。私達は甲板上に一列に並ばされ、下着を膝下まで下ろしお尻を突き出すとガラスの棒を押し込まれる。あられもない恰好だが、当時はこれが一般的な方法だったようで、当然な措置《そち=処置》と思って検査を受けたのである。
 三~四時間かけて約三五〇〇人全員の検査が終わると、結果は宿舎で待つこととして順次下船が始まった。

 当時は引揚者の帰還が最も多い時期だったから、受け入れも大変だったと思われる。特に十月には八五隻・十二万四八八七人が受け入れられたと記録に残っており、一日に約三隻が入港し平均四〇〇〇人が上陸したことになる。事実十月十五日には我々の大久丸のほか、中国・胡芦島から二隻(合計四四〇〇人)が入港していたから、佐世保は引揚者でごった返していたと言ってもよかった。
 なお戦後の海外日本人引揚者受け入れ及び外国人送還事業は、昭和二十年十月から、この佐世保、舞鶴など日本各地一〇数箇所に開設された引揚援護局によって行われたが、佐世保援護局の記録では二十五年五月に閉局するまでに、引揚者は軍人・六三万三〇〇〇人、一般人・七五万九〇〇〇人、合計一三九万二〇〇〇人(全国六五〇万ともいわれる総数の二〇%強)を受け人れたとされる。方面別では満州が最も多く五一万七〇〇〇人(殆どが一般人)、次いで華北《=中国北部》・四二万九〇〇〇人(ほぼ半数が一般人)、華中・二一万九〇〇〇人(殆どが軍人)、そして朝鮮・一二万一〇〇〇人(うち一般人四万六〇〇〇人)、残り10万人が他地区となっている。また送還者は一九万四〇〇〇人で、うち一一万人が朝鮮人であった。

 とにかく膨大《ぼうだい》な数の引揚者、送還者を扱った佐世保であって、援護局としても大事業だったと思われる。

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/14 7:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 佐世保の引揚者収容所と「銀シャリのおにぎり」

 援護局の施設は街中から少し離れた針屋島江上、大村湾を望む二〇万坪の広大な土地に作られ、平屋《ひらや》建ての宿舎が何棟かあったが、こうした大人数を長期に滞在させることは不可能であったから、検疫の結果待ち・身元と帰着先確認・当座の支給品配布が終われば、できるだけ早く退去させられることになる。私達が割り当てられた宿舎に入り、所定の手続きを終え、検疫の結果も問題なしとなったのは翌日の午後であった。

 事前に連絡が入っていたのか、会社からも何人か出迎えの人が来てくれて、帰着先までの汽車の切符の手配など、こまごまと手伝って貰《もら》ったのは、恐らく会社の指示であったとしても大変有難いことであったし嬉《うれ》しかった。しかしこの出迎えの人達が「三井軽金属」の人であったのか、「三井鉱山」の人だったのか、父は知っていたであろうが私にはわからなかったし、今もって不明のままである。というのも三井軽金属(旧・東洋軽金属)の社員は殆《ほとん》どが三井鉱山からの出向者であったが、一部は他社からの派遣もあった筈だし、或いは直接または別のルートで入社した人もいたのかも知れなかったからだ。

 この記録を書き起こすにあたり色々な資料を探したが、何せ六〇年も前のことで、会社の実態については一部公表された実録だけは把握[できても、「引き揚げ」に関するものが何処《どこ》にも正確な記録として残っておらず、父の存命中に何故詳しいことを聞いておかなかったかと、今になって残念に思う。ただ、私達のお世話をしてくれた人は、父との会話などから察すると三井鉱山のかなり親しい人であったと思われ、実家の状況なども詳しく報告を受け、みな無事であることも承知できた。

 そしてこの日の午後遅く、手配して貰《もら》った切符が手に入ったと持ってきていただいた。
 「明日の昼過ぎに佐世保を出る東京行きの急行です」とのこと。
 私達は取りあえず父の故郷・国府津《こうづ》(小田原)に落ち着くことにしていたから、切符も国府津までとなっている。「ではまた明日お見送りに参ります」と帰っていかれ、もう一晩宿舎で過ごすことになった。

 宿舎で出てきた食事は、麦・さつま芋の入った「ご飯」、菜っ葉が浮いた薄い味噌汁、それに漬物、或いはトウモロコシと小麦粉を練り合わせた団子入り「すいとん」等であったが、粗末《そまつ》で量も多くはないが久しぶりに「日本の味」、とにかく汁物をしばらく口にしていなかったので、味噌汁や「すいとん」は、味は薄くても有難い食事であった。
 翌日出発の時間がくると、昨日切符を手配しでいただいた方が「では駅までお見送りさせていただきます」とやってこられた。
 私達は後発の人達に挨拶を済《す》ませ宿舎の外に出ると「これは途中で召し上がって下さい」と白米の大きな「おにぎり」を渡された。特別に私達だけに作ってきたものだという。

 戦争が終わってからこの一年間、食べるものには大変苦労し、特に新義州《シンウィジュ》を出てからは食べない日もあったり、よく餓死《がし》しなかったと思うような状況だったから、この「銀シャリのおにぎり」にお目にかかった時は飛び上がるほどの驚きと喜びであった。
 「よくまあ、こんな――――」、母もこれ以上の言葉が出てこない。
 父も「こんな貴重なものを、本当に有難う」とお礼をいうと、「汽車の中で他の人に見せびらかすのも悪いから、いま半分だけいただこうか」と私達の「すぐにでも食べたい」という気持ちを察して、食べるように促《うなが》してくれる。
 半分に割ると中には梅干が入っていて美味しそう。
 「むしやぶりつく」とはあの時のことを言うのだろう。とにかく大きかったから半分にしても一気にとはいかなかったが、瞬《またた》く間に胃の中に納まった。
 現在まで色々なご馳走にも出会ったが、思い出す限り、あの時の「おにぎり」が生涯最高の「美味しいもの」であったし、決して忘れることができない。いや忘れてはいけないと思うのである。

 こうして昭和二十一年十月十八日、私達は佐世保発の汽車で国府津《こうづ》へ向かった。
 新義州・南楊子を脱出して一ケ月半、終戦からは一年二ケ月、日本を離れた日から通算すると三年と少し、何時かはきっと帰れると希望を繋《つな》ぎながら過ごしてきた長い長い月日であった。もう駄目かと思ったことも何度かあったが、何とか叶《かな》って上陸した希望の地・佐世保。
 そしてこの汽車で陸地伝いに二十数時間いけば最終目的地の国府津に着いて私達の三年に亘《わた》る外地の生活と旅は終わる。
しみじみと感慨《かんがい》に耽《ふけ》っていると、ベルが鳴って汽車は動き始めた。――――

 ここでこの記録を終えようと思っていたが、この汽車の旅が、後々私が社会人としてスタートを切る際と妙な因縁で繋《つな》がっているので、追記しておきたい。
 

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/6/15 7:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 佐世保から国府津への汽車の旅

 出発した時は立っている人が何人かはいた程度の車内も、博多、門司と進むにつれで満員すし詰めの状態になってきた。男性は殆《ほとん》どといっていいほど、よれよれの国防服《こくぼうふく=    》、女性はみなモンペ姿で、他人さまのことをとやかくいう身分ではないが、お世辞にも綺麗《きれい》な恰好《かっこう》とはいい難い。

 私達家族五人は佐世保で衣服や食料の配給を受けて少しだけ増えた手荷物を網棚と座席の下に押し込み、向かい合わせの席に座ってはいたものの、通路はもとより足元の空いたスペースにもこのような恰好をした他の乗客が入り込んで足も伸ばせぬばかりか、通路に立っている人達が上からも覆い披《かぶ》さってくる。広島を過ぎ、神戸、大阪となると混雑は更にひどくなって、乗り降りはデッキのほか中央部は窓からとなってきた。
 死線を幾度となく乗り越えて来た我々には、多少の混雑など知れていると高をくくっていたが、この状態にはとにかく驚いた。押し合いへし合い、ごった返す車内はみな気が立ってあちこちで喧嘩《けんかも始まる。こちらとすれば、上から乗りかかられる状態であっても座っているだけ楽ではあるが、ただトイレの時は一仕事、人を乗り越え乗り越えしていかなければならなかった。

 大垣から名古屋に入る頃だったろうか。夜中を過ぎて外は真っ暗、人いきれの中でうとうとしていると、父が急に「降りよう」といい出した。未だこれからの道のりは長いし不思議に思ったが、父の語気は荒く「次は名古屋」のアナウンスを聞きながらあたふたと荷物を引っ張り出し、名古屋駅到着と同時に家族五人は窓からホームに転がり落ちるように降り立ったのである。
 突然の出来事でみな呆然として立ちすくみながら汽車を見送ると、「お父さん、一体どうしたんですか?」と母がやはり不審に思ったのか父に尋ねる。
 「隣に立っていた男が俺の顔に布切れを近づけてきたと思ったら、急に気持ちが悪くなって意識が遠のいていくようだった。暫くは我慢していたけど、これは麻酔薬だと気が付いたんだよ」との父の説明である。
 少し大げさにも思われるが、父は大真面目である。「苦難を乗り越えようやく此処まできて命は落としたくない、死なないまでも家族に危害が及んでは困る」そう思ったのだろう。

 戦後色々な事件や事故はあったが、終戦間もない時期に麻酔薬を使う事件など考えられないし、生来豪胆《ごうたん=きもがすわっている》な父がそんなことで臆病になるとも思えなかったから、本当に不思議なことと思えたのである。しかし、そういう事態も懸念しなければならない程の車内環境だったことだけは確かであった。

 十月も半ばを過ぎた夜中、というより明け方に近かった人気のないプラットホームは肌寒い。仕方がないので階段を下りてコンコースにいくと、旅行者とは思えぬ人達があちこちに古びた外套《がいとう》や布切れを纏《まと》って蹲《うずくま》っている。恐らくは戦災で家や家族を失った人々であったろうが、その後も暫くは方々で見かけた光景がまさにそこにはあった。

 親類縁者もなく、住んだこともない名古屋だから、誰かを頼って一宿一飯を願う当てもない。薄気味悪いが、そんな人達の中に混じって夜の明けるのを待つよりほかはなかった。過酷《かこく》な朝鮮より条件が良い筈の日本内地も、未だ安穏《あんおん=安心》とできる状況にはほど遠いことを改めて思い知らされた時であった。
 駅員に事情を話して乗車変更の許可を貰い、次の列車に何とか乗り込んだのは、明け方七時頃であったろうか。しかも今度はシートに座るどころではなく、デッキの片隅に場所を確保するのが精一杯、我慢・我慢で小田原を過ぎ、くたくたになって国府津駅に辿《たど》り着いたのはもう夕方になっていた。 
 これが内地に帰り着いて初めての汽車旅行であったが、この時の、怖い、寒い名古屋駅での出来事はずっと後まで私の脳裏から離れなかった。

 十五年の月日が経ち、私は三井倉庫に入社した。そして「君は名古屋支店に配属」といい渡された時、あの名古屋駅のことが急に思い出され、正直いって一瞬「あまり行きたくないな」と思ったのも事実である。三月三十一日の夜行列車に乗り、名古屋駅に降り立ったのが翌朝六時、まさにあの怖い、寒い時を過ごしながら次の列車を待っていた時刻である。
 戦後の混乱期は既に脱して日本の経済復興も著しく、何処へ行っても戦争の爪あとは見られなくなっていた時期である。その後、汽車で通過することはあっても一度も訪れるチャンスがなかった名古屋も、「あの時」とは様相も一変し、駅舎は綺麗になって十五年前の面影は全くなかった。
 それにしても「因縁《いんねん》とはこういうことをいうんだな」、と一人で感慨に耽《ふけ》っていると、寮の主人が出迎えてくれた。 
 「椎野さん、かな? 私は早稲田といいます。ようおいでやしたなも」、「寮は近くだで、ついてきてちょう」というと、西口の未だ少しばかり雑然とした街並みが残る方へ、人ごみを掻《か》き分けながら、すたすたと歩き始めたのである。私は彼を見失わないように小走りで後を追った。
 こうして私の、不思議な縁のある名古屋での生活が始まった。
 最初はうまく馴染《なじ》めるかと不安のあった名古屋であるが、以来十三年半、仕事に精を出し、結婚して子供も生まれ、独特の文化や食物にも出会い、多くの知己《ちき=親友》を得、語り尽くせぬほどの充実した月日を過ごすことができたのは、縁とはいえ本当に幸せなことであった。

 その後十四年ぶりに支店長として再び舞い戻った時の二年半を加えると、結局十六年の長きに亘《わた》る名古屋生活となったが、これこそ「縁」だけでは説明できない、何か宿命的なものすら感じるのである。

 蛇足《だそく》ながら名古屋で生まれた長男など、私以上に名古屋好きになったようで、今は自ら求めて住み着いている。

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/16 8:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 引き揚げ直後の日本、そしてその後のこと

 序《ついで》ながら、その後のことにも少し触《ふ》れておきたい。
 国府津に落ち着いたあと、父の三井鉱山復職と任地が決まるまで一年近くをこの地で過ごすことになったが、終戦直後から一年以上学校に行っていなかったので、本来は六年になるところ国府津小学校五年生として転入した。実際、割り算も忘れていたから仕方がなかった。
 敗戦から一年、未だ混乱の中にあった日本でも食糧不足はひどく、母や叔母達と山北や御殿場の農家へ買出しによく行かされたし、学校へはこうして手に入れたサツマイモをハンカチに包んで毎日持っていった。しかし何であっても「食べ物」があることだけでも幸せといわねばならなかった。
 とにかく家財道具一切を失った私達。身体一つで父の実家に転がり込んだわけだから身軽といえば身軽だが、身体の弱っていた祖父の面倒を見てくれていた叔母一家には、着るものから食べるものまで大変な迷惑をかけたにも拘《かか》わらず、極めて暖かく迎えて貰ったことは本当に有難かったし、他の親戚《しんせき》や知人からの物心両面の支援には感謝の言葉もない。

 翌二十二年九月、父の任地が九州・福岡の山野鉱業所と決まって、私達も転校することになった。学校は鴨生小学校、二~三学期を終えるとすぐ稲築東中学へ入学した。
 一年遅れたお陰で勉強の方も何とか追いついたし、炭鉱町の生活にもすぐ慣れて楽しい日々を過ごしていたと思ったら、三年の夏、父が今度は東京転勤だという。昭和二十五年、三井鉱山が石炭部門と金属部門がわかれ(金・石分離)、三井金属鉱業(株)が設立されるに従い、そちらへ行くことになったとのことである。  
 そして慌《あわただ》しく東京へ移動することになり、私は世田谷区立駒留中学へ転入した。

 東京の生活は初めてで戸惑うことばかり。世の中もようやく落ち着いてきたとはいえ、上野駅にはこの頃になっても靴磨きの戦災孤児《=戦争で両親を失なった子ども》が店開きしている姿が見られたし、白衣を着た傷痍軍人《しょういぐんじん=戦争で怪我をされた兵隊さん》がアコーディオンを奏《かな》でていたり、定職を持たない浮浪者がいたりして、未だまだ戦争の傷跡がかなり残っていた。ただ銀座などの表通りには米兵の姿が目立ったものの整然としてさすがは東京だと思えたし、四丁目交差点で交通整理をする彼らMP《=アメリカ陸軍の憲兵》の流れるような動作には感心して見とれたものである。
 しかし食糧事情は決して豊かとはいえず「外食券食堂」に並んで入ったことも思い出す。

 前述のように佐世保引揚援護局はこの年・昭和二十五年に閉局となり、舞鶴だけが海外邦人《=外国にいる日本人》引揚基地として残されて、主にシベリア拘留者などの引揚業務を行っていた。私達は何とか無事に帰国できて、不自由とはいえ本国での安定した生活が送れるようになっていたが、未だ音信不通の人たちも多く、ラジオの「尋《たず》ね人」放送も相変わらず続けられていた。
 なお引揚者援護の実務は厚生省・引揚援護庁によって、海外在留者《=外国に一時留まっている》の実態把握、引揚者の受け入れ、身寄りのない人達への物的・資金援助など、その後も暫《しばら》くは続けられたと思われるが、その内容と打ち切り時期などは把握していない。しかし二十五年当時までは私達家族にも極めで小額ながら援助金が出ており、「少ないけど有難いね」といいながら母が郵便局へ受け取りに行ったことなどが思い出される。

 明けて昭和二十六年に私は都立戸山高校に入学した。その年、父は大阪へ転勤、更に九州・大牟田《おおむた》と移動を重ねていたが、母と弟だけが同行し、私と既に女子大の学生であった姉は東京に残ることに。しかも私は父の会社の寮や親戚の家を転々と、姉は学生寮にと、離散家族そのもの生活が暫く続いた。今であれば父親が単身赴任するのだろうが、形を変えたサラリーマン家族の別居生活を既にこのころ味わっていたのである。

 私としては、その後の名古屋に繋《つな》がり、爾来《じらい=それより後》、会社という組織に身をおく以上は社命による転勤や長期出張は当たり前のこと、その上で与えられた職務に精励すること、と信じて半世紀近くを過ごさせて貰ったが、小さい頃から父を通して見てきたサラリーマンの「悲喜こもごも」は、終戦を挟んだ戦時体験を極限として私の骨の髄《ずい》まで染み込んだといっても過言ではない。辛い、苦しいことも数多く経験したが、そんな時はいつも父の「俺達はあのとき命を貰ったんだ」という言葉で乗り越えることもできた。

 戦後も六〇年、我々はいま「所得や地域格差があるのは不公平」、「年金が減った」、「医療費負担増は困る」等はまだしも、「狂牛痛のお陰で安い牛肉が食べられない」などと不満をいいながらも豊富な物資に囲まれ、平和な毎日を送っている。「戦争を知らない」人達には、中には幼児期ひもじい思いをした記憶をかすかに持っていても、「物の無い極端な窮乏《きゅうぼう=著しく不足》生活」、「空襲で逃げ惑《まど》う恐怖の日々」など絵空事《えそらごと=架空の作り事》としか思えないだろう。世界の何処かで起こっている戦争は、直接関わりのある人を除いてきっと他人事に違いない。戦争という厳しく悲惨な現実の中に放り込まれ、二度とあのような経験はしたくないと切実に思う私ですら、半世紀を過ぎると遠い昔の出来事になってしまい勝ちだから、他人をとやかくいうことはできないが、とにかく平和な時代になったものである。

 しかし敢《あ》えていうが、人間は元来忘れっぽい動物だし、嫌なことは敢えて忘れようとするから同じ過ちを犯してしまうけれども、戦争だけは二度と起こって欲しくない。
 父がいうように私は「命を貰《もら》った」が、同じような境遇で大切な命を奪われた人達、広島・長崎のように瞬時に命をなくした人達、或いは未だに後遺症に悩んでいる人達、沖縄も何処もみな然りで、巻き込まれる者にとっては、これほど痛ましく惨なことはない。
 人間はもっと利口になって、過去の消しがたい悲惨な歴史から学び得た教訓を、次の世代に正しく伝えていかなければならないと、切に思うのである

 いずれにしても朝鮮での生活は私の脳裏《のうり》に焼きついて離れない。
 戦争さえなければ、単に少年時代の外地における生活の記録となったのかも知れないが、戦争があったからこそ海外の工場勤務となった父に連れられて、外地・北朝鮮を経験することができたともいえる。苦楽両極端とはいえ、未だ子供であっても少しずつ世の中のことがわかり始める時期に実に貴重な経験をさせられたことは、大変ではあったけれども、私のその後の人生に、或いは考え方に大きな影響を与えているのは事実である。
 「生きる」ということが、どんなに難しく、大切で、幸せなことか。しかし反面、「人間が如何にしぶとく逆境に強いか」も知った。身にかかる危険をどう回避するかについても、事前の予知と現実に起きた時の対応を如何にすべきか、用心深くなりすぎた感は拭えないが身をもって覚えこまされたし、集団の規律や思いやりの大切さも身にしみてわかった。しかし最も大きかったのは、如何なる時でも「諦《あきら》めない」ということ、そして「忍耐」の大事さではなかったろうか。

 人間一生のうちで苦労は少ないに越したことはない。しかし「苦労する」によって思慮深くもなり、他人を気遣う心も養われ、人間の幅が一回りも二回りも大きくなっていくのではなかろうか。自分かそうなったと決して自慢しているわけでもなく、皆さんに納得して貰える事実だと思っている。
 また国外の経験、といっても朝鮮の人達との接触しかなかった私であるが、その後海外事業に携《たず》わる経験が多くなったとき大いに役立つことになった。韓国・中国・東南アジアの人達は比較的身近だったが、イスラム文化圏《けん》の中近東やアフリカにおいても、「相手の気持ちになる」、「理解する」という姿勢がありさえすれば、時には摩擦があっても最後は上手く事を運ぶことができたし、フランクな欧米の人達とも気楽に臆《おく》することなく付き合わせて貰った。勿論食事など何処にいっても問題は全くなかった。それもこれも「日本を離れる」ことにアレルギーを持たなくて済んだということだったのかも知れない。
 そんな意味では大変に良い経験をさせて貰《もら》ったと思っている。

 昨年、父の十三回忌と母の七回忌をすませたが、如何なる環境にあっても動じなかった父、「俺は全財産を失い、その後の貯えとて充分ではないけど学費だけは出してやるから、しっかり勉強しろよ」、「人様に後ろ指を指されることだけはするなよ」、「会社に入ったら自分だけで仕事ができたと思うなよ」が父の口癖《くちぐせ》だったし、管理職になった時は「何か一つでいいから記録に残ることをやり遂《と》げろ」ともいわれたものである。私としてはその言葉通りにできたかといわれれば忸怩《じくじ=はじいる》たるものがあるが、とにかく有難い先輩サラリーマンであった。

 またこの父の傍らにあってやさしく家族を護り続け、勇気付けてくれた母。
 ともに、社会人として、人間として、どう生きるかを教えてくれた両親に、そしてこれまで色々なところでお教えいただき、支えていただいた全ての人に改めて感謝し、私の戦争体験記を終えたい。

(完)

平成十八年十二月

( 椎 野 公 雄 )


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