@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

チョッパリの邑 (39) 椎野 公雄

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 チョッパリの邑 (39) 椎野 公雄

msg#
depth:
0
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/6/15 7:52
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 佐世保から国府津への汽車の旅

 出発した時は立っている人が何人かはいた程度の車内も、博多、門司と進むにつれで満員すし詰めの状態になってきた。男性は殆《ほとん》どといっていいほど、よれよれの国防服《こくぼうふく=    》、女性はみなモンペ姿で、他人さまのことをとやかくいう身分ではないが、お世辞にも綺麗《きれい》な恰好《かっこう》とはいい難い。

 私達家族五人は佐世保で衣服や食料の配給を受けて少しだけ増えた手荷物を網棚と座席の下に押し込み、向かい合わせの席に座ってはいたものの、通路はもとより足元の空いたスペースにもこのような恰好をした他の乗客が入り込んで足も伸ばせぬばかりか、通路に立っている人達が上からも覆い披《かぶ》さってくる。広島を過ぎ、神戸、大阪となると混雑は更にひどくなって、乗り降りはデッキのほか中央部は窓からとなってきた。
 死線を幾度となく乗り越えて来た我々には、多少の混雑など知れていると高をくくっていたが、この状態にはとにかく驚いた。押し合いへし合い、ごった返す車内はみな気が立ってあちこちで喧嘩《けんかも始まる。こちらとすれば、上から乗りかかられる状態であっても座っているだけ楽ではあるが、ただトイレの時は一仕事、人を乗り越え乗り越えしていかなければならなかった。

 大垣から名古屋に入る頃だったろうか。夜中を過ぎて外は真っ暗、人いきれの中でうとうとしていると、父が急に「降りよう」といい出した。未だこれからの道のりは長いし不思議に思ったが、父の語気は荒く「次は名古屋」のアナウンスを聞きながらあたふたと荷物を引っ張り出し、名古屋駅到着と同時に家族五人は窓からホームに転がり落ちるように降り立ったのである。
 突然の出来事でみな呆然として立ちすくみながら汽車を見送ると、「お父さん、一体どうしたんですか?」と母がやはり不審に思ったのか父に尋ねる。
 「隣に立っていた男が俺の顔に布切れを近づけてきたと思ったら、急に気持ちが悪くなって意識が遠のいていくようだった。暫くは我慢していたけど、これは麻酔薬だと気が付いたんだよ」との父の説明である。
 少し大げさにも思われるが、父は大真面目である。「苦難を乗り越えようやく此処まできて命は落としたくない、死なないまでも家族に危害が及んでは困る」そう思ったのだろう。

 戦後色々な事件や事故はあったが、終戦間もない時期に麻酔薬を使う事件など考えられないし、生来豪胆《ごうたん=きもがすわっている》な父がそんなことで臆病になるとも思えなかったから、本当に不思議なことと思えたのである。しかし、そういう事態も懸念しなければならない程の車内環境だったことだけは確かであった。

 十月も半ばを過ぎた夜中、というより明け方に近かった人気のないプラットホームは肌寒い。仕方がないので階段を下りてコンコースにいくと、旅行者とは思えぬ人達があちこちに古びた外套《がいとう》や布切れを纏《まと》って蹲《うずくま》っている。恐らくは戦災で家や家族を失った人々であったろうが、その後も暫くは方々で見かけた光景がまさにそこにはあった。

 親類縁者もなく、住んだこともない名古屋だから、誰かを頼って一宿一飯を願う当てもない。薄気味悪いが、そんな人達の中に混じって夜の明けるのを待つよりほかはなかった。過酷《かこく》な朝鮮より条件が良い筈の日本内地も、未だ安穏《あんおん=安心》とできる状況にはほど遠いことを改めて思い知らされた時であった。
 駅員に事情を話して乗車変更の許可を貰い、次の列車に何とか乗り込んだのは、明け方七時頃であったろうか。しかも今度はシートに座るどころではなく、デッキの片隅に場所を確保するのが精一杯、我慢・我慢で小田原を過ぎ、くたくたになって国府津駅に辿《たど》り着いたのはもう夕方になっていた。 
 これが内地に帰り着いて初めての汽車旅行であったが、この時の、怖い、寒い名古屋駅での出来事はずっと後まで私の脳裏から離れなかった。

 十五年の月日が経ち、私は三井倉庫に入社した。そして「君は名古屋支店に配属」といい渡された時、あの名古屋駅のことが急に思い出され、正直いって一瞬「あまり行きたくないな」と思ったのも事実である。三月三十一日の夜行列車に乗り、名古屋駅に降り立ったのが翌朝六時、まさにあの怖い、寒い時を過ごしながら次の列車を待っていた時刻である。
 戦後の混乱期は既に脱して日本の経済復興も著しく、何処へ行っても戦争の爪あとは見られなくなっていた時期である。その後、汽車で通過することはあっても一度も訪れるチャンスがなかった名古屋も、「あの時」とは様相も一変し、駅舎は綺麗になって十五年前の面影は全くなかった。
 それにしても「因縁《いんねん》とはこういうことをいうんだな」、と一人で感慨に耽《ふけ》っていると、寮の主人が出迎えてくれた。 
 「椎野さん、かな? 私は早稲田といいます。ようおいでやしたなも」、「寮は近くだで、ついてきてちょう」というと、西口の未だ少しばかり雑然とした街並みが残る方へ、人ごみを掻《か》き分けながら、すたすたと歩き始めたのである。私は彼を見失わないように小走りで後を追った。
 こうして私の、不思議な縁のある名古屋での生活が始まった。
 最初はうまく馴染《なじ》めるかと不安のあった名古屋であるが、以来十三年半、仕事に精を出し、結婚して子供も生まれ、独特の文化や食物にも出会い、多くの知己《ちき=親友》を得、語り尽くせぬほどの充実した月日を過ごすことができたのは、縁とはいえ本当に幸せなことであった。

 その後十四年ぶりに支店長として再び舞い戻った時の二年半を加えると、結局十六年の長きに亘《わた》る名古屋生活となったが、これこそ「縁」だけでは説明できない、何か宿命的なものすら感じるのである。

 蛇足《だそく》ながら名古屋で生まれた長男など、私以上に名古屋好きになったようで、今は自ら求めて住み着いている。

--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ