チョッパリの邑 (40) 椎野 公雄
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チョッパリの邑 (1) 椎野 公雄 <一部英訳あり> (編集者, 2007/4/28 7:38)
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チョッパリの邑 (39) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/15 7:52)
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- チョッパリの邑 (41・最終回) 椎野 公雄 (編集者, 2007/6/17 7:27)
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引き揚げ直後の日本、そしてその後のこと
序《ついで》ながら、その後のことにも少し触《ふ》れておきたい。
国府津に落ち着いたあと、父の三井鉱山復職と任地が決まるまで一年近くをこの地で過ごすことになったが、終戦直後から一年以上学校に行っていなかったので、本来は六年になるところ国府津小学校五年生として転入した。実際、割り算も忘れていたから仕方がなかった。
敗戦から一年、未だ混乱の中にあった日本でも食糧不足はひどく、母や叔母達と山北や御殿場の農家へ買出しによく行かされたし、学校へはこうして手に入れたサツマイモをハンカチに包んで毎日持っていった。しかし何であっても「食べ物」があることだけでも幸せといわねばならなかった。
とにかく家財道具一切を失った私達。身体一つで父の実家に転がり込んだわけだから身軽といえば身軽だが、身体の弱っていた祖父の面倒を見てくれていた叔母一家には、着るものから食べるものまで大変な迷惑をかけたにも拘《かか》わらず、極めて暖かく迎えて貰ったことは本当に有難かったし、他の親戚《しんせき》や知人からの物心両面の支援には感謝の言葉もない。
翌二十二年九月、父の任地が九州・福岡の山野鉱業所と決まって、私達も転校することになった。学校は鴨生小学校、二~三学期を終えるとすぐ稲築東中学へ入学した。
一年遅れたお陰で勉強の方も何とか追いついたし、炭鉱町の生活にもすぐ慣れて楽しい日々を過ごしていたと思ったら、三年の夏、父が今度は東京転勤だという。昭和二十五年、三井鉱山が石炭部門と金属部門がわかれ(金・石分離)、三井金属鉱業(株)が設立されるに従い、そちらへ行くことになったとのことである。
そして慌《あわただ》しく東京へ移動することになり、私は世田谷区立駒留中学へ転入した。
東京の生活は初めてで戸惑うことばかり。世の中もようやく落ち着いてきたとはいえ、上野駅にはこの頃になっても靴磨きの戦災孤児《=戦争で両親を失なった子ども》が店開きしている姿が見られたし、白衣を着た傷痍軍人《しょういぐんじん=戦争で怪我をされた兵隊さん》がアコーディオンを奏《かな》でていたり、定職を持たない浮浪者がいたりして、未だまだ戦争の傷跡がかなり残っていた。ただ銀座などの表通りには米兵の姿が目立ったものの整然としてさすがは東京だと思えたし、四丁目交差点で交通整理をする彼らMP《=アメリカ陸軍の憲兵》の流れるような動作には感心して見とれたものである。
しかし食糧事情は決して豊かとはいえず「外食券食堂」に並んで入ったことも思い出す。
前述のように佐世保引揚援護局はこの年・昭和二十五年に閉局となり、舞鶴だけが海外邦人《=外国にいる日本人》引揚基地として残されて、主にシベリア拘留者などの引揚業務を行っていた。私達は何とか無事に帰国できて、不自由とはいえ本国での安定した生活が送れるようになっていたが、未だ音信不通の人たちも多く、ラジオの「尋《たず》ね人」放送も相変わらず続けられていた。
なお引揚者援護の実務は厚生省・引揚援護庁によって、海外在留者《=外国に一時留まっている》の実態把握、引揚者の受け入れ、身寄りのない人達への物的・資金援助など、その後も暫《しばら》くは続けられたと思われるが、その内容と打ち切り時期などは把握していない。しかし二十五年当時までは私達家族にも極めで小額ながら援助金が出ており、「少ないけど有難いね」といいながら母が郵便局へ受け取りに行ったことなどが思い出される。
明けて昭和二十六年に私は都立戸山高校に入学した。その年、父は大阪へ転勤、更に九州・大牟田《おおむた》と移動を重ねていたが、母と弟だけが同行し、私と既に女子大の学生であった姉は東京に残ることに。しかも私は父の会社の寮や親戚の家を転々と、姉は学生寮にと、離散家族そのもの生活が暫く続いた。今であれば父親が単身赴任するのだろうが、形を変えたサラリーマン家族の別居生活を既にこのころ味わっていたのである。
私としては、その後の名古屋に繋《つな》がり、爾来《じらい=それより後》、会社という組織に身をおく以上は社命による転勤や長期出張は当たり前のこと、その上で与えられた職務に精励すること、と信じて半世紀近くを過ごさせて貰ったが、小さい頃から父を通して見てきたサラリーマンの「悲喜こもごも」は、終戦を挟んだ戦時体験を極限として私の骨の髄《ずい》まで染み込んだといっても過言ではない。辛い、苦しいことも数多く経験したが、そんな時はいつも父の「俺達はあのとき命を貰ったんだ」という言葉で乗り越えることもできた。
戦後も六〇年、我々はいま「所得や地域格差があるのは不公平」、「年金が減った」、「医療費負担増は困る」等はまだしも、「狂牛痛のお陰で安い牛肉が食べられない」などと不満をいいながらも豊富な物資に囲まれ、平和な毎日を送っている。「戦争を知らない」人達には、中には幼児期ひもじい思いをした記憶をかすかに持っていても、「物の無い極端な窮乏《きゅうぼう=著しく不足》生活」、「空襲で逃げ惑《まど》う恐怖の日々」など絵空事《えそらごと=架空の作り事》としか思えないだろう。世界の何処かで起こっている戦争は、直接関わりのある人を除いてきっと他人事に違いない。戦争という厳しく悲惨な現実の中に放り込まれ、二度とあのような経験はしたくないと切実に思う私ですら、半世紀を過ぎると遠い昔の出来事になってしまい勝ちだから、他人をとやかくいうことはできないが、とにかく平和な時代になったものである。
しかし敢《あ》えていうが、人間は元来忘れっぽい動物だし、嫌なことは敢えて忘れようとするから同じ過ちを犯してしまうけれども、戦争だけは二度と起こって欲しくない。
父がいうように私は「命を貰《もら》った」が、同じような境遇で大切な命を奪われた人達、広島・長崎のように瞬時に命をなくした人達、或いは未だに後遺症に悩んでいる人達、沖縄も何処もみな然りで、巻き込まれる者にとっては、これほど痛ましく惨なことはない。
人間はもっと利口になって、過去の消しがたい悲惨な歴史から学び得た教訓を、次の世代に正しく伝えていかなければならないと、切に思うのである
いずれにしても朝鮮での生活は私の脳裏《のうり》に焼きついて離れない。
戦争さえなければ、単に少年時代の外地における生活の記録となったのかも知れないが、戦争があったからこそ海外の工場勤務となった父に連れられて、外地・北朝鮮を経験することができたともいえる。苦楽両極端とはいえ、未だ子供であっても少しずつ世の中のことがわかり始める時期に実に貴重な経験をさせられたことは、大変ではあったけれども、私のその後の人生に、或いは考え方に大きな影響を与えているのは事実である。
「生きる」ということが、どんなに難しく、大切で、幸せなことか。しかし反面、「人間が如何にしぶとく逆境に強いか」も知った。身にかかる危険をどう回避するかについても、事前の予知と現実に起きた時の対応を如何にすべきか、用心深くなりすぎた感は拭えないが身をもって覚えこまされたし、集団の規律や思いやりの大切さも身にしみてわかった。しかし最も大きかったのは、如何なる時でも「諦《あきら》めない」ということ、そして「忍耐」の大事さではなかったろうか。
人間一生のうちで苦労は少ないに越したことはない。しかし「苦労する」によって思慮深くもなり、他人を気遣う心も養われ、人間の幅が一回りも二回りも大きくなっていくのではなかろうか。自分かそうなったと決して自慢しているわけでもなく、皆さんに納得して貰える事実だと思っている。
また国外の経験、といっても朝鮮の人達との接触しかなかった私であるが、その後海外事業に携《たず》わる経験が多くなったとき大いに役立つことになった。韓国・中国・東南アジアの人達は比較的身近だったが、イスラム文化圏《けん》の中近東やアフリカにおいても、「相手の気持ちになる」、「理解する」という姿勢がありさえすれば、時には摩擦があっても最後は上手く事を運ぶことができたし、フランクな欧米の人達とも気楽に臆《おく》することなく付き合わせて貰った。勿論食事など何処にいっても問題は全くなかった。それもこれも「日本を離れる」ことにアレルギーを持たなくて済んだということだったのかも知れない。
そんな意味では大変に良い経験をさせて貰《もら》ったと思っている。
昨年、父の十三回忌と母の七回忌をすませたが、如何なる環境にあっても動じなかった父、「俺は全財産を失い、その後の貯えとて充分ではないけど学費だけは出してやるから、しっかり勉強しろよ」、「人様に後ろ指を指されることだけはするなよ」、「会社に入ったら自分だけで仕事ができたと思うなよ」が父の口癖《くちぐせ》だったし、管理職になった時は「何か一つでいいから記録に残ることをやり遂《と》げろ」ともいわれたものである。私としてはその言葉通りにできたかといわれれば忸怩《じくじ=はじいる》たるものがあるが、とにかく有難い先輩サラリーマンであった。
またこの父の傍らにあってやさしく家族を護り続け、勇気付けてくれた母。
ともに、社会人として、人間として、どう生きるかを教えてくれた両親に、そしてこれまで色々なところでお教えいただき、支えていただいた全ての人に改めて感謝し、私の戦争体験記を終えたい。
(完)
平成十八年十二月
( 椎 野 公 雄 )
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編集者 (代理投稿)