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チョッパリの邑 (36) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (36) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/12 7:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 いよいよ正式な引揚者として帰還の途に

 三週間を過ごした議政府《ウイジョンプ》も名残惜しいが、心はもう佐世保に飛んでいる。来たときと同じようにトラックに乗せられると再び仁川《インチョン》へ。しかし今度は先着していた他の団体も一緒だから車の数も多い。私達より後に入所した人達を残し、約二〇〇〇人が一斉に仁川に向かった。

 仁川港には南朝鮮の船に混じって、アメリカの国旗をはためかせた軍艦や貨物船のほかに、日の丸を掲げる日本の貨物船が二隻見える。船腹の文字から一隻は「大久丸」、もう一隻は「信洋丸」と読めた。ともに五〇〇〇トンほどのあまり大きくない貨物船だ。
 お昼を過ぎる頃、私達はこの二隻のうちの大久丸に乗船することになり、順番に乗り込んだ。

 船はシングルデッキ・ダブルハッチの中型貨物船で、我々が乗り込んだ時には後部ハッチに今まで見たことがない人達が既に乗船して、もう寛《くつろ》いでいた。近辺の収容所は議政府《ウイジョンプ》の他にも何箇所かあったから、そちらから来て先に乗り込んでいたのであろう。

 佐世保引揚援護局《=国外からの引揚者を助ける役所》の記録によると、大久丸は三四九〇人を乗せて十月十五日に入港しているから、我々の収容所以外の人達が1000人以上乗っていたことになる。
 大久丸は我々を運んだあと、大連、シンガポール、中国・胡芦島などに数回派遣され、各二二〇〇~三七〇〇人を乗せているから、この船のキャパシティー《=受容力》としてはほぼ満船状態の乗員数、そして私達家族はこの三四九〇人の中の五人であったのだ。

 因みにこの年、仁川から佐世保への引き揚げはこの大久丸が初めてで、三日後の十月十八日には仁川で姿を見た信洋丸が二一五七人を乗せて入港、翌十九日に永録丸が一九九二人、高栄丸・三五四〇人、二十二日に熊野丸・三五三五人、二十七日に米山丸・二六六六人、三十一日・Q95・一二〇二人、十一月二日・辰日丸・三九七六人など、仁川-佐世保間の引揚者輸送はこのニケ月間に集中して行われ、合計約二二五〇〇人が運ばれている。

 なお朝鮮関係は釜山《プサン》からも入港しているが、一隻当たりの人数は極めて少なく、大半は関門、博多への入港となっている。また朝鮮東岸からは舞鶴《まいずる》が多かったのではなかろうか。

 「具合の悪い方は救護室を用意してありますから、申し出て下さい」と言われて、数人はそちらへ入ったが、我々は貨物と同じ扱いで前方のハッチに誘導される。
 深い船艙《せんそう》の後部に左舷から右舷《うげん=右側の船べり》にかけて仮設された梯子《はしご》階段を伝って降りると、そこは薄暗くて、まるで大きな洞穴に入ったような気分である。我々の一団はできるだけ纏《まと》まるようにして、私達家族は真中あたりに居場所を確保したが、何せ大勢だから全員が横になるだけのスペースはない。まあ一日だけのことだし、 「明日はいよいよ日本となれば少々窮屈《きゅうくつ》でも我慢しなければ」と座り込んだ。

 多獅島を出たときは脱走者であったが、同じ船旅でも今度は希望が直ぐそこにある正式な帰還者である。窮屈ではあるが、文字通り「大船に乗って」の最後の旅がいま始まろうとしているのだ。みな一様に興奮《こうふん》した面持ちで、今朝からの移動の疲れも忘れて隣近所の人達と話し合い、またジッとしていられないと立ったり座ったりで、騒々《そうぞう》しいこと夥《はなはだ》しい。
 暫くは賑《にぎ》やかであったが、全ての人達が乗船し終える頃には船内も静かになってきた。
 外の様子も良くはわからないが、船員の動きや声からすると出航準備が始まったようである。

 タラップが外され、舫《ほう》が解かれる音が聞こえ、エンジンの響きも少し大きくなってくる。
 「いよいよ明日は『内地』だな」しみじみとした父の言葉には、「辛かったけどようやくここまで辿《たど》り着けた。一時は絶望した幸運を自分達はいま掴《つか》もうとしている」という心からの喜びと、「戦争の真っただ中、外地に連れ出した家族を一人も失くすことなく、何とかこうして連れて帰ることができる」という家長としての安堵感があふれていた。
 「こうして皆が元気で一緒に帰れるとはね。夢見たい」やつれた母の顔にも、穏やかな笑みが浮かんでいる。

 思い起こすと、日本内地を離れたのがちょうど三年前の昭和十八年九月、あの時は関釜《かんぷ》連絡船・興安丸《こうあんまる》の二等船室、太平洋戦争も真っただ中で、不安混じりとはいえ優雅な船旅であった。それに引きかえ、今は貨物船の船底に着の身着のままの薄汚れた姿で膝《ひざ》を抱えて座り込んでいる。大きな違いではあるが、言葉にいい尽くせぬ「外地」での苦難からようやく解放され、明日からは故国・日本での新しい生活が待っている。内地もひどい状態とは聞いていても、この一年の辛酸《しんさん=苦い経験》を考えれば何のこともなかろう。とにもかくにも、「一刻も早く故郷の土を踏みたい、そして明日はその土のある佐世保なのだ」、昂《たか》ぶる気持ちを抑えて噂《しやべ》っているうちに船は汽笛を鳴らして動き始めた。

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編集者 (代理投稿)

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