@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

チョッパリの邑 (38) 椎野 公雄

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 チョッパリの邑 (38) 椎野 公雄

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/14 7:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 佐世保の引揚者収容所と「銀シャリのおにぎり」

 援護局の施設は街中から少し離れた針屋島江上、大村湾を望む二〇万坪の広大な土地に作られ、平屋《ひらや》建ての宿舎が何棟かあったが、こうした大人数を長期に滞在させることは不可能であったから、検疫の結果待ち・身元と帰着先確認・当座の支給品配布が終われば、できるだけ早く退去させられることになる。私達が割り当てられた宿舎に入り、所定の手続きを終え、検疫の結果も問題なしとなったのは翌日の午後であった。

 事前に連絡が入っていたのか、会社からも何人か出迎えの人が来てくれて、帰着先までの汽車の切符の手配など、こまごまと手伝って貰《もら》ったのは、恐らく会社の指示であったとしても大変有難いことであったし嬉《うれ》しかった。しかしこの出迎えの人達が「三井軽金属」の人であったのか、「三井鉱山」の人だったのか、父は知っていたであろうが私にはわからなかったし、今もって不明のままである。というのも三井軽金属(旧・東洋軽金属)の社員は殆《ほとん》どが三井鉱山からの出向者であったが、一部は他社からの派遣もあった筈だし、或いは直接または別のルートで入社した人もいたのかも知れなかったからだ。

 この記録を書き起こすにあたり色々な資料を探したが、何せ六〇年も前のことで、会社の実態については一部公表された実録だけは把握[できても、「引き揚げ」に関するものが何処《どこ》にも正確な記録として残っておらず、父の存命中に何故詳しいことを聞いておかなかったかと、今になって残念に思う。ただ、私達のお世話をしてくれた人は、父との会話などから察すると三井鉱山のかなり親しい人であったと思われ、実家の状況なども詳しく報告を受け、みな無事であることも承知できた。

 そしてこの日の午後遅く、手配して貰《もら》った切符が手に入ったと持ってきていただいた。
 「明日の昼過ぎに佐世保を出る東京行きの急行です」とのこと。
 私達は取りあえず父の故郷・国府津《こうづ》(小田原)に落ち着くことにしていたから、切符も国府津までとなっている。「ではまた明日お見送りに参ります」と帰っていかれ、もう一晩宿舎で過ごすことになった。

 宿舎で出てきた食事は、麦・さつま芋の入った「ご飯」、菜っ葉が浮いた薄い味噌汁、それに漬物、或いはトウモロコシと小麦粉を練り合わせた団子入り「すいとん」等であったが、粗末《そまつ》で量も多くはないが久しぶりに「日本の味」、とにかく汁物をしばらく口にしていなかったので、味噌汁や「すいとん」は、味は薄くても有難い食事であった。
 翌日出発の時間がくると、昨日切符を手配しでいただいた方が「では駅までお見送りさせていただきます」とやってこられた。
 私達は後発の人達に挨拶を済《す》ませ宿舎の外に出ると「これは途中で召し上がって下さい」と白米の大きな「おにぎり」を渡された。特別に私達だけに作ってきたものだという。

 戦争が終わってからこの一年間、食べるものには大変苦労し、特に新義州《シンウィジュ》を出てからは食べない日もあったり、よく餓死《がし》しなかったと思うような状況だったから、この「銀シャリのおにぎり」にお目にかかった時は飛び上がるほどの驚きと喜びであった。
 「よくまあ、こんな――――」、母もこれ以上の言葉が出てこない。
 父も「こんな貴重なものを、本当に有難う」とお礼をいうと、「汽車の中で他の人に見せびらかすのも悪いから、いま半分だけいただこうか」と私達の「すぐにでも食べたい」という気持ちを察して、食べるように促《うなが》してくれる。
 半分に割ると中には梅干が入っていて美味しそう。
 「むしやぶりつく」とはあの時のことを言うのだろう。とにかく大きかったから半分にしても一気にとはいかなかったが、瞬《またた》く間に胃の中に納まった。
 現在まで色々なご馳走にも出会ったが、思い出す限り、あの時の「おにぎり」が生涯最高の「美味しいもの」であったし、決して忘れることができない。いや忘れてはいけないと思うのである。

 こうして昭和二十一年十月十八日、私達は佐世保発の汽車で国府津《こうづ》へ向かった。
 新義州・南楊子を脱出して一ケ月半、終戦からは一年二ケ月、日本を離れた日から通算すると三年と少し、何時かはきっと帰れると希望を繋《つな》ぎながら過ごしてきた長い長い月日であった。もう駄目かと思ったことも何度かあったが、何とか叶《かな》って上陸した希望の地・佐世保。
 そしてこの汽車で陸地伝いに二十数時間いけば最終目的地の国府津に着いて私達の三年に亘《わた》る外地の生活と旅は終わる。
しみじみと感慨《かんがい》に耽《ふけ》っていると、ベルが鳴って汽車は動き始めた。――――

 ここでこの記録を終えようと思っていたが、この汽車の旅が、後々私が社会人としてスタートを切る際と妙な因縁で繋《つな》がっているので、追記しておきたい。
 

--
編集者 (代理投稿)

  条件検索へ