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チョッパリの邑 (33) 椎野 公雄

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通常 チョッパリの邑 (33) 椎野 公雄

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/6/9 7:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 悲しい別れと最大の難所・長山串《チャンサン》

 海上はきわめて穏やか、従って船足は遅く、ようやく夜が明けるころ朝鮮半島で最も西に突き出している長山串沖にさしかかろうとしていた。

 この朝、病弱で嵐の頃から状態の思わしくなかった一人の幼児が、「もう少し」の期待も空しく母親の腕の中で息を引き取った。船旅が始まって以来死者は始めてのことである。筵《むしろ》に包まれた遺体は両親の涙とともに静かに洋上に葬られた。異国の地で生をうけ苛酷《かこく》な日々のみを過ごしたのち、母国の緑も空気も食べ物も味わうことなく見知らぬ海にその命が鎮《しず》められる。何とも痛ましい情景で、波間に遠ざかっていく子供を追って艫《へさき》まで走った両親の後姿を見ながら、私達もただ手を合わせるしかなかった。

 そんな悲しい別れがあった数時間後、私達の船はこの辺りで最大の難所と言われる長山串《チャンサン》がすぐ間近というところまでやってきた。この辺りまでくれば三十八度線も近く、警備も厳重になっている筈だし、本来ならば真っ直ぐ白?(ペンニョン)、大青(テチョン)の二つの大きな島の西を南下して一気に三十八度線を越える方が安全ではあるが、かなり大回りになってこの船足ではほぼ一日余分にかかってしまう。船には他にも身体の弱った幼児や老人がいて、もうこれ以上犠牲者を増やすことは許されないから、警備上の危険はあっても岬を回ったら向きを少し東に変えて少しでも近道することを決めて船を進めることになった。

 朝鮮半島も黄海側は干満の差が大きく、特にこの一帯は島が多く海流の変化が激しいので航行する船舶は難渋する場所である。殊に長山串から大東湾にかけては難所中の難所、嫌がる船員を宥《なだ》めすかし、決死の覚悟で危険な航路に入っていく。

それでも危険な長山串は、できるだけ離れて通過する予定であったが、海流のせいか船は吸い寄せられるように岬に近づいていく。岩肌あらわな陸地と船の距離は数百メートルしかなく、間に海水が大きく渦を巻き、岩礁《がんしょう》には小さな難破船と思われる船の残骸《ざんがい》が見える。

 ――――――――と思った瞬間、先ず私達の船が渦《うず》に巻き込まれて左側に一回転する。ヒヤリとしながら渦の真中にいかなければいいがと願っていると、幸いにもグルリと大きく回って外に弾《はじ》かれるように渦から脱出することができた。右後方でこれを見ていた父達の船はすぐさま舵《かじ》を右に切って難を逃れる。船員の操舵《そうだ=かじの操り》も上手かったのだろうが、すんでのところで海の藻屑《もくず》となるところであった。

 何とか難所を乗り切った船は、その後順調に大東湾を南東に進み夕方近くになると甕津半島(オンジンバンド)の南に位置する巡威島をグルリと回って海州港の沖合いに達したらしく、往来の船影も増えてきた。ということは沿岸警備艇に見つかる可能性もないとはいえず緊張が走る。しかし三十八度線は直ぐそこというここまで来て彼らに見つかり「拿捕《だほ》」となれば今までの苦労は水の泡、とにかく夕暮れ時という条件を利して一気に目的地・仁川《インチョン》のある京畿《キョンギ》湾へ突入しなければならない。


 船員、三十八度線越えを拒否

 皆の気持ちも高まる、そんな時又もや問題が発生した。
 四人の朝鮮人船員が「南へ行くと自分達の身が危険だ」、「我々はこの辺で降りる」と言い出したのである。こちらも、そこまでは考えていなかったけれども、言われてみると別に意外なことではない。相談の結果、「何処か陸地に近い島陰に一時停船して彼らを解放しよう」、「あとは我々だけで突っ走るだけだ」となって急遽《きゅうきょ》小船を降ろし彼らを逃がすことになった。

 相応の報酬は渡してあるとはいえ、多獅島を出発以来、嵐の日も含めて六日間よく付き合ってくれたものである。別れるとなると妙に親近感が湧いてきて、「コマスミダ」、「アンニョンカセョ」と声をかけると、彼らも夕闇の中で手を振りながら離れていった。

 さあ、あとは大延平島をすり抜ければ待望の三十八度線越えである。船頭はいなくなったけど、これまで彼らの操船の手伝いをしてきた経験もあり、「何とかなるさ」と男親達が配置について船は順調に動き始める。ただ経験があるといっても、あくまでも素人が動かす船、どちらが南か北かもわからないから不安この上ないが、幸いなことに中秋の月明かりでぼんやりと陸の影は見え、その影を遠く左に見ながら、また月が左から右に動く姿を見て進めば南の方角は凡そ見当はつく。それでも未だ北の領海内、警備艇が迫ってこないとも限らないし、他船と衝突する危険もあって決して油断はできない。とにかく限りなく無謀な船旅ではあるが、待ちに待った希望の地がすぐそことなれば運を天に任せて進むより仕方がなかった。

 その頃、具合の悪かったもう一人の幼児がまた亡くなったことを知る。明日には仁川という時だけに親としては遺体をそのまま南に運びたいが、それとて明日・明後日が確実というわけではなく、南にいったところで荼毘《だび》に付すことも叶わない。となれば今朝と同じように水葬するほか道がない。胸の張り裂ける思いであったろうが仕方なく船上より再び葬られた。


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編集者 (代理投稿)

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