捕虜と通訳 (小林 一雄)
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- 捕虜と通訳 (小林 一雄) (31) (編集者, 2007/12/19 7:41)
- 捕虜と通訳 (小林 一雄) (32) (編集者, 2007/12/20 8:02)
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- 捕虜と通訳 (小林 一雄) (40) (編集者, 2008/1/25 8:05)
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捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その2
もっとも私は、三菱鉱業に籍を置く身だったので収容所のすぐ近く、小さな川一つ隔てて建てられた社宅に住んでの勤務となった。新婚早々の妻、尚子のほか、母の幸(父はすでに故人)、嫁に行っている姉の井端田鶴幸とその小さな息子二人(姉の夫は勤務の都合で大阪に残留)という、大世帯で、まるで疎開にやってきたというありさまだった。それでも二軒の社宅を借り、広い間取りの家は、いま思えばかなり恵まれた社宅だった。周囲はうっそうと茂る樹林と田畑、点々と散らばる民家、商店らしいものも相当、離れたところにしかなく多奈川とはうって変って田舎の僻地という環境だった。かなり、のんびりした環境だった。
収容所は、小さな川の向こうに切り開いた場所に周囲を坂塀と鉄条網で囲い、バラック建ての粗末な建て物だった。多奈川と同じように生活棟と医療棟、炊事棟などに分かれ、日本軍用の管理棟もきちんと備わっていた。まわりは樹木に覆われた山、川には一本の小さな橋があるだけ。まったく隔離された場所だった。姫路の師団から衛兵が交代で監視にやってきた。
捕虜たちは、ここから隊列を組んで近くの生野鉱山の坑内採鉱夫として作業に出かける。鉱山に着くと、ヘルメットに電灯をつけショベル片手にカンテラをさげ、リフトに乗って深いタテ坑に下り、そこからさらにヨコにトロッコで進み、発掘作業を始める。 ほとんどの捕虜ははじめて炭鉱夫として働くものばかり。 馴《な》れないい手つきで土を掘り、発破をかけ、進まぬ作業に、坑内の気の荒い日本人の現場監督から怒鳴られ、疲れても定時の休息以外は休めない。捕虜の大半は、収容所に帰って食事とフロを浴びるとぐったり寝るだけ。それを励ます将校たちの表情を見るにつけ、ある種の哀れさを禁じえなかった。多奈川での生活に比べ、はるかに作業はきつかったのだろう。これが〝虜囚″の宿命だったとはいえ、敗色濃い日本軍の実情を垣間、知るにつけ、明日のわが身を考えざるをえなかった。私も作業説明のため、捕虜といっしょに生まれて初めて坑内に入ったが、地下の暗闇《くらやみ》の中の恐しさは二度と味わいたくないという気分だった。
もっとも私は、三菱鉱業に籍を置く身だったので収容所のすぐ近く、小さな川一つ隔てて建てられた社宅に住んでの勤務となった。新婚早々の妻、尚子のほか、母の幸(父はすでに故人)、嫁に行っている姉の井端田鶴幸とその小さな息子二人(姉の夫は勤務の都合で大阪に残留)という、大世帯で、まるで疎開にやってきたというありさまだった。それでも二軒の社宅を借り、広い間取りの家は、いま思えばかなり恵まれた社宅だった。周囲はうっそうと茂る樹林と田畑、点々と散らばる民家、商店らしいものも相当、離れたところにしかなく多奈川とはうって変って田舎の僻地という環境だった。かなり、のんびりした環境だった。
収容所は、小さな川の向こうに切り開いた場所に周囲を坂塀と鉄条網で囲い、バラック建ての粗末な建て物だった。多奈川と同じように生活棟と医療棟、炊事棟などに分かれ、日本軍用の管理棟もきちんと備わっていた。まわりは樹木に覆われた山、川には一本の小さな橋があるだけ。まったく隔離された場所だった。姫路の師団から衛兵が交代で監視にやってきた。
捕虜たちは、ここから隊列を組んで近くの生野鉱山の坑内採鉱夫として作業に出かける。鉱山に着くと、ヘルメットに電灯をつけショベル片手にカンテラをさげ、リフトに乗って深いタテ坑に下り、そこからさらにヨコにトロッコで進み、発掘作業を始める。 ほとんどの捕虜ははじめて炭鉱夫として働くものばかり。 馴《な》れないい手つきで土を掘り、発破をかけ、進まぬ作業に、坑内の気の荒い日本人の現場監督から怒鳴られ、疲れても定時の休息以外は休めない。捕虜の大半は、収容所に帰って食事とフロを浴びるとぐったり寝るだけ。それを励ます将校たちの表情を見るにつけ、ある種の哀れさを禁じえなかった。多奈川での生活に比べ、はるかに作業はきつかったのだろう。これが〝虜囚″の宿命だったとはいえ、敗色濃い日本軍の実情を垣間、知るにつけ、明日のわが身を考えざるをえなかった。私も作業説明のため、捕虜といっしょに生まれて初めて坑内に入ったが、地下の暗闇《くらやみ》の中の恐しさは二度と味わいたくないという気分だった。
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捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その3
とはいっても、多奈川からいっしょにやってきたアメリカ兵捕虜たちは、少くとも私と話すときには、そんな悲壮感がなかったように思う。
それが私の心をホッとさせてくれた。だから彼らとともに語り、いっしょにいると、一種の安堵(あんど)の心が湧《わ》いた。いま思えば、多奈川以来、彼らとはそれだけ深くかかわってきた。
それだけ無意識のうちに絆(きづな)が強まっていたのだろうか。敵の捕虜と、日本軍の通訳という単なる職務上の感覚以上の何かが、彼我の間に生まれていたのだと思えてならない。
ここでも捕虜の買い出しが行われ、よく町から離れた田舎へ遠出したものだ。といっても随分遠い隣りの町まで大八車《だいはちぐるま=荷物運搬用の大きな二輪車》を引いての、まるで遠征である。山道や田んぼの畔道くらいの小さな道を六、七人のアメリカ軍将校や炊事班のメンバーといっしょに行くのである。春先から初夏へかけては気候もよく、木々の緑や咲き匂《にお》う草花が美しく、おまけにノンビリとした田舎。
彼らも故郷の民謡や幼い夢をかきたてる童謡を口ずさみながらの行進である。牧歌的な雰囲気の中に、戦時中の息づまるような緊迫感もなく、敵の捕虜と歩いているといった感じも忘れさせてくれるようだった。笑い声さえ聞こえてくる。外国人とではなく、まるで日本人の買い出しと同じような気分だった。
町のほぼ真ん中にある雑貨屋に着くと、最初はびっくりした店の人たちも、事情を知って思わずニッコリ。
「ママさん、石鹸《せっけん》、上等なのをください」
「マッチの火のつきやすいの、ほしいですね」
「野菜は何、ありますか」ダイコンはたくさんありますよ」
「ダイコン、炊いてもすぐとける。おいしくない。ニンジン、タマネギ、それに果物ありますか?」
ざっとこんなぐあい。余程、複雑なことでないと私の出る幕もほとんどいらないくらい、彼らは日本語を片言ながら話せるようになっていた。もっとも多奈川の店では、店の人びとも片言の英語を覚えていたが、ここでは、店の人びとは、ほとんど英語がしゃべれない。捕虜たちの片言の日本語がそれを補っていた。それに珍しさもあったのか、ここの田舎の人びとは、大阪・多奈…地区でよく見られたような敵意を捕虜に示すようなこともなかった。
とはいっても、多奈川からいっしょにやってきたアメリカ兵捕虜たちは、少くとも私と話すときには、そんな悲壮感がなかったように思う。
それが私の心をホッとさせてくれた。だから彼らとともに語り、いっしょにいると、一種の安堵(あんど)の心が湧《わ》いた。いま思えば、多奈川以来、彼らとはそれだけ深くかかわってきた。
それだけ無意識のうちに絆(きづな)が強まっていたのだろうか。敵の捕虜と、日本軍の通訳という単なる職務上の感覚以上の何かが、彼我の間に生まれていたのだと思えてならない。
ここでも捕虜の買い出しが行われ、よく町から離れた田舎へ遠出したものだ。といっても随分遠い隣りの町まで大八車《だいはちぐるま=荷物運搬用の大きな二輪車》を引いての、まるで遠征である。山道や田んぼの畔道くらいの小さな道を六、七人のアメリカ軍将校や炊事班のメンバーといっしょに行くのである。春先から初夏へかけては気候もよく、木々の緑や咲き匂《にお》う草花が美しく、おまけにノンビリとした田舎。
彼らも故郷の民謡や幼い夢をかきたてる童謡を口ずさみながらの行進である。牧歌的な雰囲気の中に、戦時中の息づまるような緊迫感もなく、敵の捕虜と歩いているといった感じも忘れさせてくれるようだった。笑い声さえ聞こえてくる。外国人とではなく、まるで日本人の買い出しと同じような気分だった。
町のほぼ真ん中にある雑貨屋に着くと、最初はびっくりした店の人たちも、事情を知って思わずニッコリ。
「ママさん、石鹸《せっけん》、上等なのをください」
「マッチの火のつきやすいの、ほしいですね」
「野菜は何、ありますか」ダイコンはたくさんありますよ」
「ダイコン、炊いてもすぐとける。おいしくない。ニンジン、タマネギ、それに果物ありますか?」
ざっとこんなぐあい。余程、複雑なことでないと私の出る幕もほとんどいらないくらい、彼らは日本語を片言ながら話せるようになっていた。もっとも多奈川の店では、店の人びとも片言の英語を覚えていたが、ここでは、店の人びとは、ほとんど英語がしゃべれない。捕虜たちの片言の日本語がそれを補っていた。それに珍しさもあったのか、ここの田舎の人びとは、大阪・多奈…地区でよく見られたような敵意を捕虜に示すようなこともなかった。
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捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その4
夏ごろには顔なじみになって、写真をお互いに見せ合ったり、配給の統制品、とくに砂糖なども余分に店側がプレゼントする姿もみられた。私の家族も彼らといっしょに妻や母、姉らがいっしょに買い出しに行ったこともしばしば。大八車に荷物を載せて、いっしょに歌を歌いながら帰ったものだ。
明延町のある店に、たまたまアメリカ帰りの日本人がいた。この店も捕虜たちがよく利用したところで、その店員とはことば通じるので、世間話からアメリカ事情、日本国内の一般の事情まで、ざっくばらんに話し合っていた。しかし、その店員も捕虜の将校も、お互いの立場を知っているので、国防に関することとか、軍事にかかわることはいっさい話題にしていなかった。だからこそ、いつも気がねなく、自由に話し、笑い、親しくなれたのだと思う。いつも話題にするのは食べ物の違い、住居の遠い、こどものしっけの仕方の違い、なかには恋人とのつき合い方の違いなどだった。そうした中にも、彼らなりにその当時の日本の事情を知る何かを求めていたのかも知れないが、非常に陽気に接するので、そんな疑念なんか、みじんも感じないほどだった。
いま思うと、多奈川から生野の山奥への突然の移動は、私鉄と国鉄を乗り継いで行ったことは前述の通りだが、捕虜たちには行く先、目的地はいっさい公表せずに出発した。だから、彼らは「本当に別の収容所へ移動なんだろうか?」「殺されるんではないか?」と戦々恐々だったかもしれない。ここの捕虜代表、フランクリン・M・フリニオ中佐(FLANKLIN・M・FLINIAU、マッカーサー司令官のフィリピン軍団参謀) はじめ、彼らの中の親しい将校らから聞いたことばだったが、いわば、ミステリー・ツアー、目的地のわからない不安と、どんなところへ行くのかというなかば冒険的な楽しみをふくむ移動の旅だったのだから、むりからぬことだ。
彼らの立場からすれば、虜囚の身で、生殺与奪の権をいっさい日本軍に取りあげられているのだから、日常の行動からずれた特別なスケジュールを突然、降って湧いたように命令されると、まず、"わが身の命"に関連して判断し、疑問を抱くのは当然だ。通訳としての私は単にことばの仲介者でなく、いまでは彼らのこの心理を多少なりとも理解して、日本軍の行動に反しない範囲ながら、彼らの心の不安解消と、不自由な中で少しでも〝自由な空気"を吸わせる"ことばと心理の理解者″になるべきだ、とつくづく思ったものだ。軍服を着た人の中には、軍服の威厳と軍規上から、心ではそう考えていても、なかなか行動に出しにくい。民間籍の私は、こうした人たちよりも自由に意思表示ができる立場にあり、規制をうけた軍服組のできない部分の代役としての行動は許されるだろうと勝手に解釈するようになった。捕虜連中もそれを知って私には余計に親しみを感じ、接してくれたのかも知れない。
とにかく、ここ生野の暮らしは、収容所勤務に慣れたせいもあってか、田舎という環境がそうさせたのか、実にのんびりした心で、和やかな捕虜との交流ができた。
姉の小さな二人の息子たちも日が経つにつれ、時々、収容所にやってきて、捕虜の肩ぐるまにのっけてもらい、無邪気に遊ぶ姿がみられるようになった。それほどここでの彼らと私との交流はかなり大っぴらにでき、親友づきあいの仲になっていた。生野へ移動してよかったとつくづく考える〝佳き日々″だった。
この生野鉱業所のほかに、山一つ隔てた明延鉱業所にも捕虜収容所ができて生野分所の管轄に置かれていた。私はそこの通訳も兼務したがさほど出かけたことはなかった。ただよく晴れた日など、たまに鉱物搬送用のトロッコに一人で乗り山越えして明延へ出かけたが、その往復はただ一人。静かな山野を眺め、空を仰ぎ、思いに耽《ふけ》り、口笛を鳴らし、ハナ歌を歌って、楽しい一人旅をエンジョイした気分だったことを若者時代の一貫として鮮明に覚えている。まるで戦後を明るくしたあの青春映画「青い山脈」を思い出すようなひと駒《こま》だった、といましみじみとふり返る思いだ。
そんな明延への行き帰りの記憶はあっても、明延の捕虜との思い出はほとんどない。深いつき合いがなかったからだ。ただ、明延といえば、終戦直後に捕虜が解放された当時、同収容所に勤務していた一部の軍属や明延の炭鉱に働いていた現場監督の日本人の一部が、一部の捕虜たちによって血みどろに叩きのめされていた悲惨な姿だけが妙に記憶に残っている。余程、過酷な労役、かんばしくない捕虜管理が行われたのだろうか。それとも解放の喜びが、収容所生活の憂さを吹っ飛ばして捕虜を過激な行動に走らせた結果なのか。原因の真偽は、いまとなっては私自身、まったくわからない。
夏ごろには顔なじみになって、写真をお互いに見せ合ったり、配給の統制品、とくに砂糖なども余分に店側がプレゼントする姿もみられた。私の家族も彼らといっしょに妻や母、姉らがいっしょに買い出しに行ったこともしばしば。大八車に荷物を載せて、いっしょに歌を歌いながら帰ったものだ。
明延町のある店に、たまたまアメリカ帰りの日本人がいた。この店も捕虜たちがよく利用したところで、その店員とはことば通じるので、世間話からアメリカ事情、日本国内の一般の事情まで、ざっくばらんに話し合っていた。しかし、その店員も捕虜の将校も、お互いの立場を知っているので、国防に関することとか、軍事にかかわることはいっさい話題にしていなかった。だからこそ、いつも気がねなく、自由に話し、笑い、親しくなれたのだと思う。いつも話題にするのは食べ物の違い、住居の遠い、こどものしっけの仕方の違い、なかには恋人とのつき合い方の違いなどだった。そうした中にも、彼らなりにその当時の日本の事情を知る何かを求めていたのかも知れないが、非常に陽気に接するので、そんな疑念なんか、みじんも感じないほどだった。
いま思うと、多奈川から生野の山奥への突然の移動は、私鉄と国鉄を乗り継いで行ったことは前述の通りだが、捕虜たちには行く先、目的地はいっさい公表せずに出発した。だから、彼らは「本当に別の収容所へ移動なんだろうか?」「殺されるんではないか?」と戦々恐々だったかもしれない。ここの捕虜代表、フランクリン・M・フリニオ中佐(FLANKLIN・M・FLINIAU、マッカーサー司令官のフィリピン軍団参謀) はじめ、彼らの中の親しい将校らから聞いたことばだったが、いわば、ミステリー・ツアー、目的地のわからない不安と、どんなところへ行くのかというなかば冒険的な楽しみをふくむ移動の旅だったのだから、むりからぬことだ。
彼らの立場からすれば、虜囚の身で、生殺与奪の権をいっさい日本軍に取りあげられているのだから、日常の行動からずれた特別なスケジュールを突然、降って湧いたように命令されると、まず、"わが身の命"に関連して判断し、疑問を抱くのは当然だ。通訳としての私は単にことばの仲介者でなく、いまでは彼らのこの心理を多少なりとも理解して、日本軍の行動に反しない範囲ながら、彼らの心の不安解消と、不自由な中で少しでも〝自由な空気"を吸わせる"ことばと心理の理解者″になるべきだ、とつくづく思ったものだ。軍服を着た人の中には、軍服の威厳と軍規上から、心ではそう考えていても、なかなか行動に出しにくい。民間籍の私は、こうした人たちよりも自由に意思表示ができる立場にあり、規制をうけた軍服組のできない部分の代役としての行動は許されるだろうと勝手に解釈するようになった。捕虜連中もそれを知って私には余計に親しみを感じ、接してくれたのかも知れない。
とにかく、ここ生野の暮らしは、収容所勤務に慣れたせいもあってか、田舎という環境がそうさせたのか、実にのんびりした心で、和やかな捕虜との交流ができた。
姉の小さな二人の息子たちも日が経つにつれ、時々、収容所にやってきて、捕虜の肩ぐるまにのっけてもらい、無邪気に遊ぶ姿がみられるようになった。それほどここでの彼らと私との交流はかなり大っぴらにでき、親友づきあいの仲になっていた。生野へ移動してよかったとつくづく考える〝佳き日々″だった。
この生野鉱業所のほかに、山一つ隔てた明延鉱業所にも捕虜収容所ができて生野分所の管轄に置かれていた。私はそこの通訳も兼務したがさほど出かけたことはなかった。ただよく晴れた日など、たまに鉱物搬送用のトロッコに一人で乗り山越えして明延へ出かけたが、その往復はただ一人。静かな山野を眺め、空を仰ぎ、思いに耽《ふけ》り、口笛を鳴らし、ハナ歌を歌って、楽しい一人旅をエンジョイした気分だったことを若者時代の一貫として鮮明に覚えている。まるで戦後を明るくしたあの青春映画「青い山脈」を思い出すようなひと駒《こま》だった、といましみじみとふり返る思いだ。
そんな明延への行き帰りの記憶はあっても、明延の捕虜との思い出はほとんどない。深いつき合いがなかったからだ。ただ、明延といえば、終戦直後に捕虜が解放された当時、同収容所に勤務していた一部の軍属や明延の炭鉱に働いていた現場監督の日本人の一部が、一部の捕虜たちによって血みどろに叩きのめされていた悲惨な姿だけが妙に記憶に残っている。余程、過酷な労役、かんばしくない捕虜管理が行われたのだろうか。それとも解放の喜びが、収容所生活の憂さを吹っ飛ばして捕虜を過激な行動に走らせた結果なのか。原因の真偽は、いまとなっては私自身、まったくわからない。
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第九章
アメリカの銃後は豊かだった~捕虜への便りで明らかに・その1
捕虜には定期的に故郷から手紙が送られてくる。捕虜も定期的に手紙を送ることが許されている。彼らにとって〝文通〟こそ唯一最大の慰めであり、明日に生命を見出す力となったことは否めない。
しかし、戦時下、敵と味方である。郵送物の検閲は当然、行われる。通訳としての職務上、その検閲にはいつも立ち会わされた。その翻訳も自分で行い、軍部へ送った。手紙の内容はもちろん・私信であり公表はされなかったが、いま思い出すと、お互いの文通の一文字、一文字に、当時のそれぞれの生きざま、苦しみ、喜びが躍っていた。
「元気ですか。こどもも一日ごとに大きくなったことでしょうね。貴女も私の不在中、いろいろな家事、育児で大変でしょうが、やがて会える日がきっとくることを念じています。当方はいたって元気です。毎日、定まったスケジュールで行動しているので体調がよいのでしょう。
このレターを書きながら貴女の顔、子供の顔が目の前に浮かんできます。ああ、早く祖国へ帰りたい。もう少し辛棒すればその日がきっとくることを神に祈ります。それまで待っていて下さい。美しい妻と可愛い息子へ」思い出すままに捕虜の一人が書いた手紙をしたためてみた。
「パパ、ママ、どうしていますか。わが家で暮らした日々がなつかしく思い出され、望郷の念にかられる毎日です。といっても当方はどうにか楽しく、元気にやっています。隣りのボス犬はまだ健在ですか。彼と遊び、運動させたことが急に思い出され、ホッとすることがあります。パパやママの夢も見ることがあります。それもこれも遠くに離れているからでしょうね。
しかし、必ず帰ります。元気で待っていて下さい」若い兵士が両親に宛《あ》てた手紙はざっとこんな内容だったと思う。
「いま異郷の地にいて祖国のありがたさをつくづく感じます。誰《だれ》も同じでしょう。多くの兵士の命をあづかる医者の立場から、つねに神経を使う毎日ですが、これが小生の本職であり、天分だと信じています。暇な時には医学書をひもとき、技術は落ちないか、医学知識は間違っていないか、反省と鍛練を行っています。人間、自分を見つめて真面目に努力すれば必ず、一般が認め、それが自己の安らぎにつながるものと信じています。医師としての道を歩み始めて終始、この信条は忘れないつもりです。貴女も医師として国内で頑張っていると思うと勇気が出ます。やがて帰国できる日がきっときます。その時には約束通り、手をとりあってすばらしい夫婦医師として社会に奉仕しましょう。一日も早くその日が来ることを祈りつつ。さよなら」
アメリカの銃後は豊かだった~捕虜への便りで明らかに・その1
捕虜には定期的に故郷から手紙が送られてくる。捕虜も定期的に手紙を送ることが許されている。彼らにとって〝文通〟こそ唯一最大の慰めであり、明日に生命を見出す力となったことは否めない。
しかし、戦時下、敵と味方である。郵送物の検閲は当然、行われる。通訳としての職務上、その検閲にはいつも立ち会わされた。その翻訳も自分で行い、軍部へ送った。手紙の内容はもちろん・私信であり公表はされなかったが、いま思い出すと、お互いの文通の一文字、一文字に、当時のそれぞれの生きざま、苦しみ、喜びが躍っていた。
「元気ですか。こどもも一日ごとに大きくなったことでしょうね。貴女も私の不在中、いろいろな家事、育児で大変でしょうが、やがて会える日がきっとくることを念じています。当方はいたって元気です。毎日、定まったスケジュールで行動しているので体調がよいのでしょう。
このレターを書きながら貴女の顔、子供の顔が目の前に浮かんできます。ああ、早く祖国へ帰りたい。もう少し辛棒すればその日がきっとくることを神に祈ります。それまで待っていて下さい。美しい妻と可愛い息子へ」思い出すままに捕虜の一人が書いた手紙をしたためてみた。
「パパ、ママ、どうしていますか。わが家で暮らした日々がなつかしく思い出され、望郷の念にかられる毎日です。といっても当方はどうにか楽しく、元気にやっています。隣りのボス犬はまだ健在ですか。彼と遊び、運動させたことが急に思い出され、ホッとすることがあります。パパやママの夢も見ることがあります。それもこれも遠くに離れているからでしょうね。
しかし、必ず帰ります。元気で待っていて下さい」若い兵士が両親に宛《あ》てた手紙はざっとこんな内容だったと思う。
「いま異郷の地にいて祖国のありがたさをつくづく感じます。誰《だれ》も同じでしょう。多くの兵士の命をあづかる医者の立場から、つねに神経を使う毎日ですが、これが小生の本職であり、天分だと信じています。暇な時には医学書をひもとき、技術は落ちないか、医学知識は間違っていないか、反省と鍛練を行っています。人間、自分を見つめて真面目に努力すれば必ず、一般が認め、それが自己の安らぎにつながるものと信じています。医師としての道を歩み始めて終始、この信条は忘れないつもりです。貴女も医師として国内で頑張っていると思うと勇気が出ます。やがて帰国できる日がきっときます。その時には約束通り、手をとりあってすばらしい夫婦医師として社会に奉仕しましょう。一日も早くその日が来ることを祈りつつ。さよなら」
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居住地: メロウ倶楽部
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アメリカの銃後は豊かだった~捕虜への便りで明らかに・その2
ある軍医はこんな手紙だったと思う。医の道に命を捧げる若い彼の姿がいまも脳裏に去来する。真面目で、それでいて明るく、誰《だれ》からも好かれ、やさしい医者だった。
一方、アメリカ本土から彼ら捕虜に送られてくる手紙や写真を見て驚かされたものだ。なつかしいあなた。お元気ですか。私の主婦ぶりも板についてきました。近くに住むおじいちゃん、おばあちゃんがいつも心配して、いろいろなものを持ってきてくれます。休日には家族みんなが庭の芝生でチェヤーに腰をおろし、団らんのひとときを過ごします。その時には必ずあなたのことをまづ話題にします。あなたの豪快な笑い声が広い庭にひびいてくるようです。先日は乗用車を一台買いました。あなたが帰国したら、あなたの車として使えるように準備しています。楽しみに帰国の日を、みんなとともに待っています。きょうもお元気で頑張って下さい。健康にはくれぐれも留意して。私のために元気でいて下さい。心をこめてキッスを同封します」
若い妻がある将校の夫に宛《あ》てた手紙のあらましだったと思うが、添付されていた写真を見て驚いた。広い庭に家族が思い思いにチェヤーに座って団らん中の写真。とてつもなく明るい表情。テーブル上の豊かな食べ物、横に大きなマイカーがでんとストップしているではないか。
いま日本では国民みんなが粗衣粗食に耐え、焼野原となった大都市ではあんな広い庭つきのハウスなど、どこをみても見当たらない…これは国力の差なんだろうか?ふとこんな思いにかられたものだ。それにしてもこれがアメリカの一般家庭の風景だとしたら、ハッキリ日本は差をつけられている。いままで洋画でしか見たことのない風景を一家庭の状況として見せつけられショックだった。日本よしっかりしろ。われわれ一人一人が最大の努力をしなければ…ますます私の祖国を思う情に火がついた。当時、こんな考えが出るのは当然だったハズだ。
ある捕虜が、送られてきた手紙を私に見せながらいったことを思い出す。「アメリカ本土では、みんな余裕のある暮らしをしていることを知って安心した。帰国しても苦しまないで、戦場に出る前の祖国にいた時と同じようなよい環境で暮らせると思うと嬉《うれ》しい。一日も早く帰国したい。帰国してもコバヤシさんとはいつまでも仲よく友人としてつき合いましょう」余猶のあるアメリカの銃後を彼らは手紙や写真で確認し、あらためて帰国できる日のきっとくることを待ちつづけていたに違いない。文字どおり〝嬉しい便り″〝勇気のわく手紙″だったのだろう。
ある軍医はこんな手紙だったと思う。医の道に命を捧げる若い彼の姿がいまも脳裏に去来する。真面目で、それでいて明るく、誰《だれ》からも好かれ、やさしい医者だった。
一方、アメリカ本土から彼ら捕虜に送られてくる手紙や写真を見て驚かされたものだ。なつかしいあなた。お元気ですか。私の主婦ぶりも板についてきました。近くに住むおじいちゃん、おばあちゃんがいつも心配して、いろいろなものを持ってきてくれます。休日には家族みんなが庭の芝生でチェヤーに腰をおろし、団らんのひとときを過ごします。その時には必ずあなたのことをまづ話題にします。あなたの豪快な笑い声が広い庭にひびいてくるようです。先日は乗用車を一台買いました。あなたが帰国したら、あなたの車として使えるように準備しています。楽しみに帰国の日を、みんなとともに待っています。きょうもお元気で頑張って下さい。健康にはくれぐれも留意して。私のために元気でいて下さい。心をこめてキッスを同封します」
若い妻がある将校の夫に宛《あ》てた手紙のあらましだったと思うが、添付されていた写真を見て驚いた。広い庭に家族が思い思いにチェヤーに座って団らん中の写真。とてつもなく明るい表情。テーブル上の豊かな食べ物、横に大きなマイカーがでんとストップしているではないか。
いま日本では国民みんなが粗衣粗食に耐え、焼野原となった大都市ではあんな広い庭つきのハウスなど、どこをみても見当たらない…これは国力の差なんだろうか?ふとこんな思いにかられたものだ。それにしてもこれがアメリカの一般家庭の風景だとしたら、ハッキリ日本は差をつけられている。いままで洋画でしか見たことのない風景を一家庭の状況として見せつけられショックだった。日本よしっかりしろ。われわれ一人一人が最大の努力をしなければ…ますます私の祖国を思う情に火がついた。当時、こんな考えが出るのは当然だったハズだ。
ある捕虜が、送られてきた手紙を私に見せながらいったことを思い出す。「アメリカ本土では、みんな余裕のある暮らしをしていることを知って安心した。帰国しても苦しまないで、戦場に出る前の祖国にいた時と同じようなよい環境で暮らせると思うと嬉《うれ》しい。一日も早く帰国したい。帰国してもコバヤシさんとはいつまでも仲よく友人としてつき合いましょう」余猶のあるアメリカの銃後を彼らは手紙や写真で確認し、あらためて帰国できる日のきっとくることを待ちつづけていたに違いない。文字どおり〝嬉しい便り″〝勇気のわく手紙″だったのだろう。
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アメリカの銃後は豊かだった~捕虜への便りで明らかに・その3
しかし、アメリカ本土でそんなに、豪華に(私には当時そう思えた)、余裕のある暮らしをしていた彼らが、いまこの収容所に送られてきて、監視の中で労働を強いられ、生活を送っている。考えてみれば哀れな姿だ。いまの苦しい生活に甘んじながら、手紙に支えられて明日をみつめ、希望の火を灯しているのだろう。と思うと、彼らに哀れみを感じると同時に、アメリカ人の本国での生活をうらやましく感じたものだ。(こんな国を相手に戦っているんだなあ。日本の未来は?)ふとこんな考えが心をよぎったことを、いま思い出さずにはおれない。
アメリカの平和で、豊かな銃後。日本の統制経済下の苦しく、爆撃にさらされた灰色ともいえる銃後。 真相はハッキリわからないながらも、この収容所で行き交う〝文通〃の中身は、彼我の国力の差が、あまりにも明瞭《めいりょう》に私の目に映り、何かを暗示するようだ。
「パパが亡くなりました。あなたのことをもっとも気づかいながら他界しました。でも死の間際に、亡くなったことはいまいわないように、と気づかっていました。やさしかったパパのおかげで私も平和な暮らしができました。でもこれから、そのままいけるかどうか。頼るのはあなただけです。心の支えです。帰国したら技術者となって安定した生活をし、美しくやさしい妻とともにのどかな生活をしてくれるのが楽しみです。一目も早く帰ってきて下さい。神に祈る気持で、あなたの健康を願っています。あなたのママより」こんな手紙もあったことを思いだす。どこの国でも、戦場に送り出した母と息子。その感情は洋の東西をとわず、昔も今もいっしょだろう。捕虜たちよ〝元気で暮らせよ!!親子のためにも頑張って〝‥そんな気持で彼らに応援したくなった。しかし日本は必ず勝つ。この希望も日ごとに強まったのは、いま思えば不思議なくらいだ。
捕虜たちの手紙(手記)。彼らに送られてくる故郷の便り。そこに表現された文字は、私に、戦争とは何か、故郷とは何か、肉身とは何か、愛情とは何か、平和とは何か…さまざまな思いを抱かせ、捕虜たちを見る目に新しい何かを植えつけてくれたように思う。
それにしても日本国内のあの当時の新聞、ラジオ報道でかきたてる、鬼畜米英、一億玉砕精神のPR。それによって闘魂を燃やされる国民の一人として、私がこんな風に捕虜と暮らしている現実。私はあのころ、矛盾と疑問によく自問自答しながら、戦争の行くえを凝視していたように思う。
そして、彼ら捕虜の本心は何だったのか?と考えたものだ。「執行日のわからぬ死刑囚」と捕虜たちが公言していた最大の恐怖は〝日本の敗戦″だった(?)。日本が敗戦になると軍当局が彼らを皆殺しにすると信じていたフシがある。島国の日本では脱走すれば自殺行為につながると考えていた彼らにとっては、日本が勝っても負けても生きられないと考えていたのかも知れない。
反面、自国の敗北をもちろん願う者はいない。結局、講和によってこれ以上、戦わずに、円満に捕虜交換の行える条件が生まれることを切望していたことは、当時、一部の捕虜がよく雑談まじりにいっていたことだ。「講和によって、安全に生還できること」―これが彼らの本心だったに違いない。「昨日の敵は今日の友」として別れた終戦の日、かって戦時の捕虜時代に痛感していたこうした思いを、彼らはどうふり返ったのだろうか。彼らの肉身から送られてきた手紙を思い出すにつけ、こんな回顧が脳裏をかすめて、今では懐かしい思い出だ。
通信の裏話として”秘密″があったことを終戦後、ある雑誌で読んだことがある。有名な「東京ローズ」の米軍向け謀略放送のことだったが…。私は当時、単に職務として捕虜の通信文をすべて読み翻訳して軍側へ返していた。それが軍当局で如何に処理されていたか、全く知り得なかったが、戦後に読んだ記事によると、これら各収容所の捕虜から家族への手紙、家族から捕虜への手紙のすべてが検問された。その中から適当に抜粋し、陸軍情報部で「東京ローズ」の名のもとに、戦線の米軍将兵向けのラジオ放送するために使われていたようだ。米兵の戦意低下を狙《ねら》った放送だったが、逆に彼らには楽しさを味わい、帰りを待ちわびながら勇気を起こさせた放送だったとは、戦後、歴戦の進駐米軍兵士から聞いた記憶がある。
しかし、アメリカ本土でそんなに、豪華に(私には当時そう思えた)、余裕のある暮らしをしていた彼らが、いまこの収容所に送られてきて、監視の中で労働を強いられ、生活を送っている。考えてみれば哀れな姿だ。いまの苦しい生活に甘んじながら、手紙に支えられて明日をみつめ、希望の火を灯しているのだろう。と思うと、彼らに哀れみを感じると同時に、アメリカ人の本国での生活をうらやましく感じたものだ。(こんな国を相手に戦っているんだなあ。日本の未来は?)ふとこんな考えが心をよぎったことを、いま思い出さずにはおれない。
アメリカの平和で、豊かな銃後。日本の統制経済下の苦しく、爆撃にさらされた灰色ともいえる銃後。 真相はハッキリわからないながらも、この収容所で行き交う〝文通〃の中身は、彼我の国力の差が、あまりにも明瞭《めいりょう》に私の目に映り、何かを暗示するようだ。
「パパが亡くなりました。あなたのことをもっとも気づかいながら他界しました。でも死の間際に、亡くなったことはいまいわないように、と気づかっていました。やさしかったパパのおかげで私も平和な暮らしができました。でもこれから、そのままいけるかどうか。頼るのはあなただけです。心の支えです。帰国したら技術者となって安定した生活をし、美しくやさしい妻とともにのどかな生活をしてくれるのが楽しみです。一目も早く帰ってきて下さい。神に祈る気持で、あなたの健康を願っています。あなたのママより」こんな手紙もあったことを思いだす。どこの国でも、戦場に送り出した母と息子。その感情は洋の東西をとわず、昔も今もいっしょだろう。捕虜たちよ〝元気で暮らせよ!!親子のためにも頑張って〝‥そんな気持で彼らに応援したくなった。しかし日本は必ず勝つ。この希望も日ごとに強まったのは、いま思えば不思議なくらいだ。
捕虜たちの手紙(手記)。彼らに送られてくる故郷の便り。そこに表現された文字は、私に、戦争とは何か、故郷とは何か、肉身とは何か、愛情とは何か、平和とは何か…さまざまな思いを抱かせ、捕虜たちを見る目に新しい何かを植えつけてくれたように思う。
それにしても日本国内のあの当時の新聞、ラジオ報道でかきたてる、鬼畜米英、一億玉砕精神のPR。それによって闘魂を燃やされる国民の一人として、私がこんな風に捕虜と暮らしている現実。私はあのころ、矛盾と疑問によく自問自答しながら、戦争の行くえを凝視していたように思う。
そして、彼ら捕虜の本心は何だったのか?と考えたものだ。「執行日のわからぬ死刑囚」と捕虜たちが公言していた最大の恐怖は〝日本の敗戦″だった(?)。日本が敗戦になると軍当局が彼らを皆殺しにすると信じていたフシがある。島国の日本では脱走すれば自殺行為につながると考えていた彼らにとっては、日本が勝っても負けても生きられないと考えていたのかも知れない。
反面、自国の敗北をもちろん願う者はいない。結局、講和によってこれ以上、戦わずに、円満に捕虜交換の行える条件が生まれることを切望していたことは、当時、一部の捕虜がよく雑談まじりにいっていたことだ。「講和によって、安全に生還できること」―これが彼らの本心だったに違いない。「昨日の敵は今日の友」として別れた終戦の日、かって戦時の捕虜時代に痛感していたこうした思いを、彼らはどうふり返ったのだろうか。彼らの肉身から送られてきた手紙を思い出すにつけ、こんな回顧が脳裏をかすめて、今では懐かしい思い出だ。
通信の裏話として”秘密″があったことを終戦後、ある雑誌で読んだことがある。有名な「東京ローズ」の米軍向け謀略放送のことだったが…。私は当時、単に職務として捕虜の通信文をすべて読み翻訳して軍側へ返していた。それが軍当局で如何に処理されていたか、全く知り得なかったが、戦後に読んだ記事によると、これら各収容所の捕虜から家族への手紙、家族から捕虜への手紙のすべてが検問された。その中から適当に抜粋し、陸軍情報部で「東京ローズ」の名のもとに、戦線の米軍将兵向けのラジオ放送するために使われていたようだ。米兵の戦意低下を狙《ねら》った放送だったが、逆に彼らには楽しさを味わい、帰りを待ちわびながら勇気を起こさせた放送だったとは、戦後、歴戦の進駐米軍兵士から聞いた記憶がある。
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第十章
巌しい監視下でつづけた交流 - 日本軍人の思い出・その1
私は、民間籍の通訳として大阪・多奈川、兵庫・生野の二つの捕虜収容所で、アメリカ兵を中心にした捕虜とつき合い、見守ってきた。
だが、当時、これらの収容所で軍人として勤務した人の眼には捕虜たちはどう映ったのだろうか。両収容所で管理・運営を担当していた軍曹・峰本善成さん(72)=奈良市東大路町=の話からクローズアップしてみよう。
峰本さんは、太平洋戦争の始った昭和十六年(一九四一)、召集兵として奈良の歩兵連隊に入隊した。二十五歳だった。翌十七年(一九四二)夏には大阪・築港の住友倉庫跡にあった大阪捕虜収容所に勤務。伍長《ごちょう》に昇任しイギリス将兵三百人の捕虜の管理に当たった。十八年春、同多奈川分所に転属、軍曹に昇進して管理・運営を担当 アメリカ、オランダ兵捕虜三百六十人の管理に当たったが、翌十九年(一九四四)初め、和歌山の捕虜収容所に転属、二十年(一九四五)春には兵庫・生野の捕虜収容分所勤務となって多奈川などから移送された捕虜を管理。
ここで二十年(一九四五) 八月十五日の終戦を迎えた。いわば、軍隊籍がそのまま捕虜とのつき合いに終始した歳月だった。
「いま考えると、おかしな軍隊生活でした。敵の捕虜を相手に年がら年中、暮らすという、考えてもみなかった毎日だったんですから。だが、いろいろな体験をし、いまではなつかしいことの多かった当時です一とシンミリした表情で話す。
その峰本さんがもっとも印象に残る捕虜とのつき合いのあったのが多奈川分所。もちろん私より先にこの収容所に勤務し、私と親しかった捕虜の面々とのつき合いも長かった。役目柄、毎朝夕、きまった時間に、さだめられた場所で彼らの人員点呼の報告をチェック。部下の所内巡視報告を丹念に調べて異常の有無に眼を光らせた。一週間交代で和歌山の連隊から派遣される衛兵の点検と報告聴取。捕虜の健康状態から食事の内容、捕虜の連絡将校からの不平や不満の声の調査、対応…とにかく所長に代って所内のあらゆる管理面を一手に引き受けてきた。
一日に一回は一人で所内をブラリと巡視、病棟や将校キャンプで雑談しながら、それとなく彼らの動向を監視した。通訳でもない峰本さん、当初は英語がしゃべれず、相手のことばも理解できず、苦労したが、捕虜自身も努力して日本語の理解につとめ、日英語チャンボンでどうにか意思疎通ができた。
巌しい監視下でつづけた交流 - 日本軍人の思い出・その1
私は、民間籍の通訳として大阪・多奈川、兵庫・生野の二つの捕虜収容所で、アメリカ兵を中心にした捕虜とつき合い、見守ってきた。
だが、当時、これらの収容所で軍人として勤務した人の眼には捕虜たちはどう映ったのだろうか。両収容所で管理・運営を担当していた軍曹・峰本善成さん(72)=奈良市東大路町=の話からクローズアップしてみよう。
峰本さんは、太平洋戦争の始った昭和十六年(一九四一)、召集兵として奈良の歩兵連隊に入隊した。二十五歳だった。翌十七年(一九四二)夏には大阪・築港の住友倉庫跡にあった大阪捕虜収容所に勤務。伍長《ごちょう》に昇任しイギリス将兵三百人の捕虜の管理に当たった。十八年春、同多奈川分所に転属、軍曹に昇進して管理・運営を担当 アメリカ、オランダ兵捕虜三百六十人の管理に当たったが、翌十九年(一九四四)初め、和歌山の捕虜収容所に転属、二十年(一九四五)春には兵庫・生野の捕虜収容分所勤務となって多奈川などから移送された捕虜を管理。
ここで二十年(一九四五) 八月十五日の終戦を迎えた。いわば、軍隊籍がそのまま捕虜とのつき合いに終始した歳月だった。
「いま考えると、おかしな軍隊生活でした。敵の捕虜を相手に年がら年中、暮らすという、考えてもみなかった毎日だったんですから。だが、いろいろな体験をし、いまではなつかしいことの多かった当時です一とシンミリした表情で話す。
その峰本さんがもっとも印象に残る捕虜とのつき合いのあったのが多奈川分所。もちろん私より先にこの収容所に勤務し、私と親しかった捕虜の面々とのつき合いも長かった。役目柄、毎朝夕、きまった時間に、さだめられた場所で彼らの人員点呼の報告をチェック。部下の所内巡視報告を丹念に調べて異常の有無に眼を光らせた。一週間交代で和歌山の連隊から派遣される衛兵の点検と報告聴取。捕虜の健康状態から食事の内容、捕虜の連絡将校からの不平や不満の声の調査、対応…とにかく所長に代って所内のあらゆる管理面を一手に引き受けてきた。
一日に一回は一人で所内をブラリと巡視、病棟や将校キャンプで雑談しながら、それとなく彼らの動向を監視した。通訳でもない峰本さん、当初は英語がしゃべれず、相手のことばも理解できず、苦労したが、捕虜自身も努力して日本語の理解につとめ、日英語チャンボンでどうにか意思疎通ができた。
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巌しい監視下で続けた交流 - 日本軍人の思い出・その2
点呼の時など、彼らは日本の軍隊式に日本語で「総員△△人、事故△人、異常なし」と上手に発音して報告したのには驚かされた。彼らなりに日本語の習得に努力していることに感心したそうだ。私(小林)があとから勤務し「ずっと以前からこの調子だよ」と峰本さんから知らされ、この目で現実に日本語を使った点呼風景を見た時、本当に感心した。「通訳もいりませんね」と冗談をいいあったものだ。捕虜のある将校は「所内で平穏に暮らすためには日本語を話し、理解することが先決で、いつもすぐ通訳を呼ぶわけにいかず、日本の軍人や軍属から教えてもらいながら、みんなが努力している」と強調していた。〝郷に入らば…"の暮らしへの対応ぶりが印象に残っているという。
「彼らの日本語勉強熱はすごかった」というように、所内巡視中でも呼びとめて筆記用具を出し、よく質問した。私に対してもそうだったが、峰本さんが驚いたのは「日本語には同じ発音で意味が違う語がある。その違いを教えてくれ」と「橋と端」「父と乳」などの違いを質問してきたこと。すぐ返答できず、辞書で調べ「ブリッジ(BRIDGE)、チョップスティックス(CHOPS↑ICKS)、エッジ(EDGE)」「ファーザー(FATHER)、ミルク(MILK)」などと教えたという。彼らもその英語発音を正しく直してくれて、お互いにこうした片言のことばに、手まね、表情をプラスして理解し合ってきた。
愉快だったのは、彼らが口ぐせのように、「ビヨウキ(病気)」ということだった。しかも彼らのいう〝病気″は、体調の悪いことも指すが、服などが破れたり、物が壊れた時、下手なことでも〝ビョウキ″ということ。「上着が病気・‥」慣れるまで急にこういわれて大笑いしない日本人はいないだろうが、彼らは真剣だった。逆に、よいことは何でも「ジョウトウ(上等)」といっていた。「あなたの奥さん、上等でしょう」 (美しいという意味) 「あなたの英語文字上等。発音、病気」何ともユーモラスな表現に、彼らとの親しみは深まっていったという。
点呼の時など、彼らは日本の軍隊式に日本語で「総員△△人、事故△人、異常なし」と上手に発音して報告したのには驚かされた。彼らなりに日本語の習得に努力していることに感心したそうだ。私(小林)があとから勤務し「ずっと以前からこの調子だよ」と峰本さんから知らされ、この目で現実に日本語を使った点呼風景を見た時、本当に感心した。「通訳もいりませんね」と冗談をいいあったものだ。捕虜のある将校は「所内で平穏に暮らすためには日本語を話し、理解することが先決で、いつもすぐ通訳を呼ぶわけにいかず、日本の軍人や軍属から教えてもらいながら、みんなが努力している」と強調していた。〝郷に入らば…"の暮らしへの対応ぶりが印象に残っているという。
「彼らの日本語勉強熱はすごかった」というように、所内巡視中でも呼びとめて筆記用具を出し、よく質問した。私に対してもそうだったが、峰本さんが驚いたのは「日本語には同じ発音で意味が違う語がある。その違いを教えてくれ」と「橋と端」「父と乳」などの違いを質問してきたこと。すぐ返答できず、辞書で調べ「ブリッジ(BRIDGE)、チョップスティックス(CHOPS↑ICKS)、エッジ(EDGE)」「ファーザー(FATHER)、ミルク(MILK)」などと教えたという。彼らもその英語発音を正しく直してくれて、お互いにこうした片言のことばに、手まね、表情をプラスして理解し合ってきた。
愉快だったのは、彼らが口ぐせのように、「ビヨウキ(病気)」ということだった。しかも彼らのいう〝病気″は、体調の悪いことも指すが、服などが破れたり、物が壊れた時、下手なことでも〝ビョウキ″ということ。「上着が病気・‥」慣れるまで急にこういわれて大笑いしない日本人はいないだろうが、彼らは真剣だった。逆に、よいことは何でも「ジョウトウ(上等)」といっていた。「あなたの奥さん、上等でしょう」 (美しいという意味) 「あなたの英語文字上等。発音、病気」何ともユーモラスな表現に、彼らとの親しみは深まっていったという。
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巌しい監視下で続けた交流 - 日本軍人の思い出・その3
習慣の違いで困ったことも多かった。大阪捕虜収容所には、数人用の小さな風呂があった。
英米などでは日本式に最初の湯舟の湯を最後までみんなで使う習慣がない。一人一回きり。あがる時その湯を全部流してしまう。この収容所でも、数人が一度に風呂に入ったあと、あがる時に湯を全部流してしまう。順番に彼ら多くの捕虜を入れようにも次の湯を入れるまで時間がかかってしまう。燃料や電力不足の戦時だけに、場を流さないよう再三、注意しても「気持が悪いから」 ときこうとしない。これには困った。ついには日本側の軍人、軍属が立番して守らせた。
食習慣の違いにも困った。物不足の当時でも割りと豊富だったタコやイカ、ゴボウなどの副食物を彼らは絶対に食べようとしなかった。所外に彼らを連れて買い出しに行ったが、食べたいものは少く、好まない食べ物は豊富。日本人でさえ戦時下の食料不足の時代に、彼らの習慣的なわがままには悩まされた。しかし彼らはそれをテクニックで補い、自前の調理力で何とか体を健康に保つことが先決」というのが、どの捕虜にも共通した願いだった。このことをつねに訴え、強調していたことを思うと、この食料品購買欲は理解できた。司厨《しちゅう=炊事場》担当のエドフード・コイル軍曹(EDWARD・COYLE) ら炊事班のメンバーは、こうして買い入れた食料をうまく料理し、栄養と美味のバランスをとりながら〝天下逸品″に仕上げ、供給していたが、その腕前には感心した。よく相伴にあづかったが、畑に捨てられていたあのタマネギがこんなに美味しく仕上がるのかと不思議に思うほどだった。どんなものでもこの調子に作りあげ、捕虜たちのすばらしい活力源になっていた。
また彼らは自給自足への意欲も強く、とくに許可を与えて所外の広い空地で菜園づくりをしていた。峰本さんも「いっしょに耕やし、汗を流したことがあった」 といい、ブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) やジョンソン中尉 (OEL・JOHNSON) らと、晴れた日など、片言の英語を交えながら、彼らも日本語の単語を並べた日英チャンボン語でよく雑談した。「鉄条網の外に出るのがよほど嬉しかったようで、とにかくチャンスをみつけては所外の菜園づくりや買い出しを催促した」そうだ。ひまをみつけては、コンサイスの英和、和英両辞典を片手に彼らといっしょに菜園に寝そべり、話し合ったことが忘れられないという。
こんなこともあった。十八年 (一九四三)十二月二日の昼だった。エドワード・コイル軍曹ら炊事班のメンバーが事務所へやってきて峰本さんの机上に、大皿に盛ったカボチャパイを置き、〝ハッピー・バースデー"と歌を歌い始めた。考えてみると、その日は峰本さんの誕生日。彼らはどこでこの日を調べたのか、峰本さんのために腕にヨリをかけたパイをプレゼントし、祝ったというわけ。「びつくりしたが感激した。捕虜に祝福されたんだから暖かい人間味を感じたネ」-峰本さんは嬉しそうに笑う。
こんな体験もした。ある夏の日の午後。彼らは「ぜひ海水浴に連れていってくれ」と執よう要望してきた。すでに彼らの性格も知り、温和な態度もわかっているので、聞き入れることにし、将校や炊事班ら昼間、キャンプに残っている者十余人を探日(ふけ)の一般市民のいない海岸に連れていった。海水パンツを持っていないので、彼らは普段のパンツ姿、なかには何もつけないで海に入る者、日本側は六尺ふんどしゃ普通の海水ふんどし、なかには普段つけているふんどし姿。暑い日だったので、ひんやりした海水が心地よかった。
彼らは、沖へ沖へと泳走。つねに人数を確認しておかなければならない管理者の立場としての峰本さんをヒヤヒヤさせるほど、勝手に遠くへ泳いで行く。あげくの果てに捕虜の中の数人が「バイ、バイ。このまま姿を消してアメリカへ帰るよ」と叫びながら陸地へ手を振る者も出てきた。
一瞬びっくりしたが、やがて彼らは陸の方へ向きを変えて帰って来はじめた。「絶対に逃げられない。四面を海に囲まれた狭い日本は、海でも陸地でも逃走できないよ」とつねづね言っていたので、安心していたものの、遥か彼方へ向けて泳ぎ始めた時にはギクリとさせられた。
陸にあがってきた彼らは「沖でバイバイと手を振ったとき、ミネモトさんらの顔や、狼狽(ろうばい) した姿はすばらしかった。もっともわれわれは、要望を聞いてくれたミネモトさんらに迷惑をかけることは絶対にしない。ここから逃げられるとも思っていない。安心してください」といって、大笑い。「アメリカ人のユーモアに富んだ明るさはいまも忘れがたい」と峰本さん。私自身もよく覚えているが、彼らは本当に楽しそうだった。「捕虜と水泳し、連れていってよかった」とわれわれみんなで話し合ったものだ。
習慣の違いで困ったことも多かった。大阪捕虜収容所には、数人用の小さな風呂があった。
英米などでは日本式に最初の湯舟の湯を最後までみんなで使う習慣がない。一人一回きり。あがる時その湯を全部流してしまう。この収容所でも、数人が一度に風呂に入ったあと、あがる時に湯を全部流してしまう。順番に彼ら多くの捕虜を入れようにも次の湯を入れるまで時間がかかってしまう。燃料や電力不足の戦時だけに、場を流さないよう再三、注意しても「気持が悪いから」 ときこうとしない。これには困った。ついには日本側の軍人、軍属が立番して守らせた。
食習慣の違いにも困った。物不足の当時でも割りと豊富だったタコやイカ、ゴボウなどの副食物を彼らは絶対に食べようとしなかった。所外に彼らを連れて買い出しに行ったが、食べたいものは少く、好まない食べ物は豊富。日本人でさえ戦時下の食料不足の時代に、彼らの習慣的なわがままには悩まされた。しかし彼らはそれをテクニックで補い、自前の調理力で何とか体を健康に保つことが先決」というのが、どの捕虜にも共通した願いだった。このことをつねに訴え、強調していたことを思うと、この食料品購買欲は理解できた。司厨《しちゅう=炊事場》担当のエドフード・コイル軍曹(EDWARD・COYLE) ら炊事班のメンバーは、こうして買い入れた食料をうまく料理し、栄養と美味のバランスをとりながら〝天下逸品″に仕上げ、供給していたが、その腕前には感心した。よく相伴にあづかったが、畑に捨てられていたあのタマネギがこんなに美味しく仕上がるのかと不思議に思うほどだった。どんなものでもこの調子に作りあげ、捕虜たちのすばらしい活力源になっていた。
また彼らは自給自足への意欲も強く、とくに許可を与えて所外の広い空地で菜園づくりをしていた。峰本さんも「いっしょに耕やし、汗を流したことがあった」 といい、ブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) やジョンソン中尉 (OEL・JOHNSON) らと、晴れた日など、片言の英語を交えながら、彼らも日本語の単語を並べた日英チャンボン語でよく雑談した。「鉄条網の外に出るのがよほど嬉しかったようで、とにかくチャンスをみつけては所外の菜園づくりや買い出しを催促した」そうだ。ひまをみつけては、コンサイスの英和、和英両辞典を片手に彼らといっしょに菜園に寝そべり、話し合ったことが忘れられないという。
こんなこともあった。十八年 (一九四三)十二月二日の昼だった。エドワード・コイル軍曹ら炊事班のメンバーが事務所へやってきて峰本さんの机上に、大皿に盛ったカボチャパイを置き、〝ハッピー・バースデー"と歌を歌い始めた。考えてみると、その日は峰本さんの誕生日。彼らはどこでこの日を調べたのか、峰本さんのために腕にヨリをかけたパイをプレゼントし、祝ったというわけ。「びつくりしたが感激した。捕虜に祝福されたんだから暖かい人間味を感じたネ」-峰本さんは嬉しそうに笑う。
こんな体験もした。ある夏の日の午後。彼らは「ぜひ海水浴に連れていってくれ」と執よう要望してきた。すでに彼らの性格も知り、温和な態度もわかっているので、聞き入れることにし、将校や炊事班ら昼間、キャンプに残っている者十余人を探日(ふけ)の一般市民のいない海岸に連れていった。海水パンツを持っていないので、彼らは普段のパンツ姿、なかには何もつけないで海に入る者、日本側は六尺ふんどしゃ普通の海水ふんどし、なかには普段つけているふんどし姿。暑い日だったので、ひんやりした海水が心地よかった。
彼らは、沖へ沖へと泳走。つねに人数を確認しておかなければならない管理者の立場としての峰本さんをヒヤヒヤさせるほど、勝手に遠くへ泳いで行く。あげくの果てに捕虜の中の数人が「バイ、バイ。このまま姿を消してアメリカへ帰るよ」と叫びながら陸地へ手を振る者も出てきた。
一瞬びっくりしたが、やがて彼らは陸の方へ向きを変えて帰って来はじめた。「絶対に逃げられない。四面を海に囲まれた狭い日本は、海でも陸地でも逃走できないよ」とつねづね言っていたので、安心していたものの、遥か彼方へ向けて泳ぎ始めた時にはギクリとさせられた。
陸にあがってきた彼らは「沖でバイバイと手を振ったとき、ミネモトさんらの顔や、狼狽(ろうばい) した姿はすばらしかった。もっともわれわれは、要望を聞いてくれたミネモトさんらに迷惑をかけることは絶対にしない。ここから逃げられるとも思っていない。安心してください」といって、大笑い。「アメリカ人のユーモアに富んだ明るさはいまも忘れがたい」と峰本さん。私自身もよく覚えているが、彼らは本当に楽しそうだった。「捕虜と水泳し、連れていってよかった」とわれわれみんなで話し合ったものだ。
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巌しい監視下で続けた交流 - 日本軍人の思い出・その4
立場上、苦しいこともあった。十八年八月のある晩、捕虜のアメリカ兵が一人脱走する事件が起きた。捕虜全貞の夜の点呼で発見、すぐ日本軍の全員が手わけして捜索を開始した。しばらくして警察署から 「捕虜らしい人間が農家にいる」と通報があり、彼のいる多奈川のずっと奥地の農家へ引き取りに行った。「食物が欲しい」と姿をみせたという。連れもどして規則通り営倉《えいそう=兵営内で犯罪者を留置する場所》に入れた。後日、「逃げた理由を知るため」に衛兵らが彼を殴りつける事件が起き、峰本さんが止めさせたが、これが終戦後、峰本さんの身の上に大きな不幸となって降りかかってくるとは、誰《だれ》も予測できなかった。
捕虜の一人が病死したことがあった。大八車《=荷物運搬用の大型二輪車》に遺体を納めた棺を乗せ、私も同行し、深日(ふけ)まで他の捕虜にひかせて行き、火葬にした。見送る捕虜たちの悲しげな顔つきはいまも忘れないという。「異郷の地で捕われの身となって命を落とした二十歳過ぎの若い兵士とそれを見送る上官、同僚…あの時には日本軍人として事務的にやったが、彼らの心情は理解できた」峰本さんは、敵味方に分かれていても同じ軍人としての思いが脳裏をよぎったのだろう。
菜園づくりのことを思い出した。肥料の糞尿《ふんにょう》を農家から分けてもらい、捕虜にかつがせてまいた。最初は習慣の違いからか、アンモニア臭のきつい、汚い糞尿を捕虜もいやがったが、いまのように化学肥料もなく日本の畑づくりには当たり前の風習。それでも仕方なく彼らもなっとくしたが、こうした習慣の差を捕虜に教えることもひと苦労だった。これもまた戦後、峰本さんに不幸な運命の原因の一つになるとは、知る由もなかったが。
峰本さんはいま当時をふり返っていう。「いまだからなつかしく思い出される。だが当時の私の立場では、すべて日本軍人として事務的に規則通りにやらざるをえない。心情としては人間として、とくに捕虜という弱い立場にある彼らに、苦しい環境の中で元気に生きてくれと叫びたかった。一人ひとりの捕虜は人なつっこく、とくに将校は尊敬に価いする人が多かった。いまでも思い出すのは、戦争が終わったらこんな家に住めと、設計図までつくってくれた技術将校、彼らにくる本国からの手紙にキスマークをつけ早く帰って…と訴える妻子らのこと。身につまされた。
それでも終戦の日、生野分所でいっさいの軍用書類を焼き捨て、軍人はいっせいに身をかくした。峰本さんもその一人だったが、彼らとのこうしたつき合いで得た捕虜観についてこう結んでいる。日本の軍人とまるっきり違うということ。もっとも彼らも喜んで捕虜になろうとした者はいないはずだが、たとえ捕らわれてもけっして死なないこと。生きて帰り、再び奉仕するという心で一致していた。それに日本の軍人は捕われるよりも死を選ぶよう教えられたが、彼らは逆に死よりも捕らわれて元気に帰還することが先決という考え。それにしても日本軍も多くの捕虜を各戦線で出し、戦後、生きて帰還した。本音と建て前のどちらに比重を置いて叫ぶかの違いがあったのでは…戦争ということをつくづく考えさせられる。
開放的で、ある場合には爆発的に明るく、楽天的にみえるアメリカの捕虜たち。イギリスやオーストラリアの将兵もアメリカ兵ほどではないにしてもそれに近いものをもっている。「生きて帰遷しなければ…」という執着心が余計に彼らをそうさせたのかも知れない。
立場上、苦しいこともあった。十八年八月のある晩、捕虜のアメリカ兵が一人脱走する事件が起きた。捕虜全貞の夜の点呼で発見、すぐ日本軍の全員が手わけして捜索を開始した。しばらくして警察署から 「捕虜らしい人間が農家にいる」と通報があり、彼のいる多奈川のずっと奥地の農家へ引き取りに行った。「食物が欲しい」と姿をみせたという。連れもどして規則通り営倉《えいそう=兵営内で犯罪者を留置する場所》に入れた。後日、「逃げた理由を知るため」に衛兵らが彼を殴りつける事件が起き、峰本さんが止めさせたが、これが終戦後、峰本さんの身の上に大きな不幸となって降りかかってくるとは、誰《だれ》も予測できなかった。
捕虜の一人が病死したことがあった。大八車《=荷物運搬用の大型二輪車》に遺体を納めた棺を乗せ、私も同行し、深日(ふけ)まで他の捕虜にひかせて行き、火葬にした。見送る捕虜たちの悲しげな顔つきはいまも忘れないという。「異郷の地で捕われの身となって命を落とした二十歳過ぎの若い兵士とそれを見送る上官、同僚…あの時には日本軍人として事務的にやったが、彼らの心情は理解できた」峰本さんは、敵味方に分かれていても同じ軍人としての思いが脳裏をよぎったのだろう。
菜園づくりのことを思い出した。肥料の糞尿《ふんにょう》を農家から分けてもらい、捕虜にかつがせてまいた。最初は習慣の違いからか、アンモニア臭のきつい、汚い糞尿を捕虜もいやがったが、いまのように化学肥料もなく日本の畑づくりには当たり前の風習。それでも仕方なく彼らもなっとくしたが、こうした習慣の差を捕虜に教えることもひと苦労だった。これもまた戦後、峰本さんに不幸な運命の原因の一つになるとは、知る由もなかったが。
峰本さんはいま当時をふり返っていう。「いまだからなつかしく思い出される。だが当時の私の立場では、すべて日本軍人として事務的に規則通りにやらざるをえない。心情としては人間として、とくに捕虜という弱い立場にある彼らに、苦しい環境の中で元気に生きてくれと叫びたかった。一人ひとりの捕虜は人なつっこく、とくに将校は尊敬に価いする人が多かった。いまでも思い出すのは、戦争が終わったらこんな家に住めと、設計図までつくってくれた技術将校、彼らにくる本国からの手紙にキスマークをつけ早く帰って…と訴える妻子らのこと。身につまされた。
それでも終戦の日、生野分所でいっさいの軍用書類を焼き捨て、軍人はいっせいに身をかくした。峰本さんもその一人だったが、彼らとのこうしたつき合いで得た捕虜観についてこう結んでいる。日本の軍人とまるっきり違うということ。もっとも彼らも喜んで捕虜になろうとした者はいないはずだが、たとえ捕らわれてもけっして死なないこと。生きて帰り、再び奉仕するという心で一致していた。それに日本の軍人は捕われるよりも死を選ぶよう教えられたが、彼らは逆に死よりも捕らわれて元気に帰還することが先決という考え。それにしても日本軍も多くの捕虜を各戦線で出し、戦後、生きて帰還した。本音と建て前のどちらに比重を置いて叫ぶかの違いがあったのでは…戦争ということをつくづく考えさせられる。
開放的で、ある場合には爆発的に明るく、楽天的にみえるアメリカの捕虜たち。イギリスやオーストラリアの将兵もアメリカ兵ほどではないにしてもそれに近いものをもっている。「生きて帰遷しなければ…」という執着心が余計に彼らをそうさせたのかも知れない。