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捕虜と通訳 (小林 一雄) (37)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄) (37)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/1/10 8:10
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第十章

 巌しい監視下でつづけた交流 - 日本軍人の思い出・その1

 私は、民間籍の通訳として大阪・多奈川、兵庫・生野の二つの捕虜収容所で、アメリカ兵を中心にした捕虜とつき合い、見守ってきた。
 だが、当時、これらの収容所で軍人として勤務した人の眼には捕虜たちはどう映ったのだろうか。両収容所で管理・運営を担当していた軍曹・峰本善成さん(72)=奈良市東大路町=の話からクローズアップしてみよう。
 峰本さんは、太平洋戦争の始った昭和十六年(一九四一)、召集兵として奈良の歩兵連隊に入隊した。二十五歳だった。翌十七年(一九四二)夏には大阪・築港の住友倉庫跡にあった大阪捕虜収容所に勤務。伍長《ごちょう》に昇任しイギリス将兵三百人の捕虜の管理に当たった。十八年春、同多奈川分所に転属、軍曹に昇進して管理・運営を担当 アメリカ、オランダ兵捕虜三百六十人の管理に当たったが、翌十九年(一九四四)初め、和歌山の捕虜収容所に転属、二十年(一九四五)春には兵庫・生野の捕虜収容分所勤務となって多奈川などから移送された捕虜を管理。
 ここで二十年(一九四五) 八月十五日の終戦を迎えた。いわば、軍隊籍がそのまま捕虜とのつき合いに終始した歳月だった。
 「いま考えると、おかしな軍隊生活でした。敵の捕虜を相手に年がら年中、暮らすという、考えてもみなかった毎日だったんですから。だが、いろいろな体験をし、いまではなつかしいことの多かった当時です一とシンミリした表情で話す。
 その峰本さんがもっとも印象に残る捕虜とのつき合いのあったのが多奈川分所。もちろん私より先にこの収容所に勤務し、私と親しかった捕虜の面々とのつき合いも長かった。役目柄、毎朝夕、きまった時間に、さだめられた場所で彼らの人員点呼の報告をチェック。部下の所内巡視報告を丹念に調べて異常の有無に眼を光らせた。一週間交代で和歌山の連隊から派遣される衛兵の点検と報告聴取。捕虜の健康状態から食事の内容、捕虜の連絡将校からの不平や不満の声の調査、対応…とにかく所長に代って所内のあらゆる管理面を一手に引き受けてきた。
 一日に一回は一人で所内をブラリと巡視、病棟や将校キャンプで雑談しながら、それとなく彼らの動向を監視した。通訳でもない峰本さん、当初は英語がしゃべれず、相手のことばも理解できず、苦労したが、捕虜自身も努力して日本語の理解につとめ、日英語チャンボンでどうにか意思疎通ができた。

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