捕虜と通訳 (小林 一雄) (33)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その4
夏ごろには顔なじみになって、写真をお互いに見せ合ったり、配給の統制品、とくに砂糖なども余分に店側がプレゼントする姿もみられた。私の家族も彼らといっしょに妻や母、姉らがいっしょに買い出しに行ったこともしばしば。大八車に荷物を載せて、いっしょに歌を歌いながら帰ったものだ。
明延町のある店に、たまたまアメリカ帰りの日本人がいた。この店も捕虜たちがよく利用したところで、その店員とはことば通じるので、世間話からアメリカ事情、日本国内の一般の事情まで、ざっくばらんに話し合っていた。しかし、その店員も捕虜の将校も、お互いの立場を知っているので、国防に関することとか、軍事にかかわることはいっさい話題にしていなかった。だからこそ、いつも気がねなく、自由に話し、笑い、親しくなれたのだと思う。いつも話題にするのは食べ物の違い、住居の遠い、こどものしっけの仕方の違い、なかには恋人とのつき合い方の違いなどだった。そうした中にも、彼らなりにその当時の日本の事情を知る何かを求めていたのかも知れないが、非常に陽気に接するので、そんな疑念なんか、みじんも感じないほどだった。
いま思うと、多奈川から生野の山奥への突然の移動は、私鉄と国鉄を乗り継いで行ったことは前述の通りだが、捕虜たちには行く先、目的地はいっさい公表せずに出発した。だから、彼らは「本当に別の収容所へ移動なんだろうか?」「殺されるんではないか?」と戦々恐々だったかもしれない。ここの捕虜代表、フランクリン・M・フリニオ中佐(FLANKLIN・M・FLINIAU、マッカーサー司令官のフィリピン軍団参謀) はじめ、彼らの中の親しい将校らから聞いたことばだったが、いわば、ミステリー・ツアー、目的地のわからない不安と、どんなところへ行くのかというなかば冒険的な楽しみをふくむ移動の旅だったのだから、むりからぬことだ。
彼らの立場からすれば、虜囚の身で、生殺与奪の権をいっさい日本軍に取りあげられているのだから、日常の行動からずれた特別なスケジュールを突然、降って湧いたように命令されると、まず、"わが身の命"に関連して判断し、疑問を抱くのは当然だ。通訳としての私は単にことばの仲介者でなく、いまでは彼らのこの心理を多少なりとも理解して、日本軍の行動に反しない範囲ながら、彼らの心の不安解消と、不自由な中で少しでも〝自由な空気"を吸わせる"ことばと心理の理解者″になるべきだ、とつくづく思ったものだ。軍服を着た人の中には、軍服の威厳と軍規上から、心ではそう考えていても、なかなか行動に出しにくい。民間籍の私は、こうした人たちよりも自由に意思表示ができる立場にあり、規制をうけた軍服組のできない部分の代役としての行動は許されるだろうと勝手に解釈するようになった。捕虜連中もそれを知って私には余計に親しみを感じ、接してくれたのかも知れない。
とにかく、ここ生野の暮らしは、収容所勤務に慣れたせいもあってか、田舎という環境がそうさせたのか、実にのんびりした心で、和やかな捕虜との交流ができた。
姉の小さな二人の息子たちも日が経つにつれ、時々、収容所にやってきて、捕虜の肩ぐるまにのっけてもらい、無邪気に遊ぶ姿がみられるようになった。それほどここでの彼らと私との交流はかなり大っぴらにでき、親友づきあいの仲になっていた。生野へ移動してよかったとつくづく考える〝佳き日々″だった。
この生野鉱業所のほかに、山一つ隔てた明延鉱業所にも捕虜収容所ができて生野分所の管轄に置かれていた。私はそこの通訳も兼務したがさほど出かけたことはなかった。ただよく晴れた日など、たまに鉱物搬送用のトロッコに一人で乗り山越えして明延へ出かけたが、その往復はただ一人。静かな山野を眺め、空を仰ぎ、思いに耽《ふけ》り、口笛を鳴らし、ハナ歌を歌って、楽しい一人旅をエンジョイした気分だったことを若者時代の一貫として鮮明に覚えている。まるで戦後を明るくしたあの青春映画「青い山脈」を思い出すようなひと駒《こま》だった、といましみじみとふり返る思いだ。
そんな明延への行き帰りの記憶はあっても、明延の捕虜との思い出はほとんどない。深いつき合いがなかったからだ。ただ、明延といえば、終戦直後に捕虜が解放された当時、同収容所に勤務していた一部の軍属や明延の炭鉱に働いていた現場監督の日本人の一部が、一部の捕虜たちによって血みどろに叩きのめされていた悲惨な姿だけが妙に記憶に残っている。余程、過酷な労役、かんばしくない捕虜管理が行われたのだろうか。それとも解放の喜びが、収容所生活の憂さを吹っ飛ばして捕虜を過激な行動に走らせた結果なのか。原因の真偽は、いまとなっては私自身、まったくわからない。
夏ごろには顔なじみになって、写真をお互いに見せ合ったり、配給の統制品、とくに砂糖なども余分に店側がプレゼントする姿もみられた。私の家族も彼らといっしょに妻や母、姉らがいっしょに買い出しに行ったこともしばしば。大八車に荷物を載せて、いっしょに歌を歌いながら帰ったものだ。
明延町のある店に、たまたまアメリカ帰りの日本人がいた。この店も捕虜たちがよく利用したところで、その店員とはことば通じるので、世間話からアメリカ事情、日本国内の一般の事情まで、ざっくばらんに話し合っていた。しかし、その店員も捕虜の将校も、お互いの立場を知っているので、国防に関することとか、軍事にかかわることはいっさい話題にしていなかった。だからこそ、いつも気がねなく、自由に話し、笑い、親しくなれたのだと思う。いつも話題にするのは食べ物の違い、住居の遠い、こどものしっけの仕方の違い、なかには恋人とのつき合い方の違いなどだった。そうした中にも、彼らなりにその当時の日本の事情を知る何かを求めていたのかも知れないが、非常に陽気に接するので、そんな疑念なんか、みじんも感じないほどだった。
いま思うと、多奈川から生野の山奥への突然の移動は、私鉄と国鉄を乗り継いで行ったことは前述の通りだが、捕虜たちには行く先、目的地はいっさい公表せずに出発した。だから、彼らは「本当に別の収容所へ移動なんだろうか?」「殺されるんではないか?」と戦々恐々だったかもしれない。ここの捕虜代表、フランクリン・M・フリニオ中佐(FLANKLIN・M・FLINIAU、マッカーサー司令官のフィリピン軍団参謀) はじめ、彼らの中の親しい将校らから聞いたことばだったが、いわば、ミステリー・ツアー、目的地のわからない不安と、どんなところへ行くのかというなかば冒険的な楽しみをふくむ移動の旅だったのだから、むりからぬことだ。
彼らの立場からすれば、虜囚の身で、生殺与奪の権をいっさい日本軍に取りあげられているのだから、日常の行動からずれた特別なスケジュールを突然、降って湧いたように命令されると、まず、"わが身の命"に関連して判断し、疑問を抱くのは当然だ。通訳としての私は単にことばの仲介者でなく、いまでは彼らのこの心理を多少なりとも理解して、日本軍の行動に反しない範囲ながら、彼らの心の不安解消と、不自由な中で少しでも〝自由な空気"を吸わせる"ことばと心理の理解者″になるべきだ、とつくづく思ったものだ。軍服を着た人の中には、軍服の威厳と軍規上から、心ではそう考えていても、なかなか行動に出しにくい。民間籍の私は、こうした人たちよりも自由に意思表示ができる立場にあり、規制をうけた軍服組のできない部分の代役としての行動は許されるだろうと勝手に解釈するようになった。捕虜連中もそれを知って私には余計に親しみを感じ、接してくれたのかも知れない。
とにかく、ここ生野の暮らしは、収容所勤務に慣れたせいもあってか、田舎という環境がそうさせたのか、実にのんびりした心で、和やかな捕虜との交流ができた。
姉の小さな二人の息子たちも日が経つにつれ、時々、収容所にやってきて、捕虜の肩ぐるまにのっけてもらい、無邪気に遊ぶ姿がみられるようになった。それほどここでの彼らと私との交流はかなり大っぴらにでき、親友づきあいの仲になっていた。生野へ移動してよかったとつくづく考える〝佳き日々″だった。
この生野鉱業所のほかに、山一つ隔てた明延鉱業所にも捕虜収容所ができて生野分所の管轄に置かれていた。私はそこの通訳も兼務したがさほど出かけたことはなかった。ただよく晴れた日など、たまに鉱物搬送用のトロッコに一人で乗り山越えして明延へ出かけたが、その往復はただ一人。静かな山野を眺め、空を仰ぎ、思いに耽《ふけ》り、口笛を鳴らし、ハナ歌を歌って、楽しい一人旅をエンジョイした気分だったことを若者時代の一貫として鮮明に覚えている。まるで戦後を明るくしたあの青春映画「青い山脈」を思い出すようなひと駒《こま》だった、といましみじみとふり返る思いだ。
そんな明延への行き帰りの記憶はあっても、明延の捕虜との思い出はほとんどない。深いつき合いがなかったからだ。ただ、明延といえば、終戦直後に捕虜が解放された当時、同収容所に勤務していた一部の軍属や明延の炭鉱に働いていた現場監督の日本人の一部が、一部の捕虜たちによって血みどろに叩きのめされていた悲惨な姿だけが妙に記憶に残っている。余程、過酷な労役、かんばしくない捕虜管理が行われたのだろうか。それとも解放の喜びが、収容所生活の憂さを吹っ飛ばして捕虜を過激な行動に走らせた結果なのか。原因の真偽は、いまとなっては私自身、まったくわからない。