捕虜と通訳 (小林 一雄) (39)
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編集者
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巌しい監視下で続けた交流 - 日本軍人の思い出・その3
習慣の違いで困ったことも多かった。大阪捕虜収容所には、数人用の小さな風呂があった。
英米などでは日本式に最初の湯舟の湯を最後までみんなで使う習慣がない。一人一回きり。あがる時その湯を全部流してしまう。この収容所でも、数人が一度に風呂に入ったあと、あがる時に湯を全部流してしまう。順番に彼ら多くの捕虜を入れようにも次の湯を入れるまで時間がかかってしまう。燃料や電力不足の戦時だけに、場を流さないよう再三、注意しても「気持が悪いから」 ときこうとしない。これには困った。ついには日本側の軍人、軍属が立番して守らせた。
食習慣の違いにも困った。物不足の当時でも割りと豊富だったタコやイカ、ゴボウなどの副食物を彼らは絶対に食べようとしなかった。所外に彼らを連れて買い出しに行ったが、食べたいものは少く、好まない食べ物は豊富。日本人でさえ戦時下の食料不足の時代に、彼らの習慣的なわがままには悩まされた。しかし彼らはそれをテクニックで補い、自前の調理力で何とか体を健康に保つことが先決」というのが、どの捕虜にも共通した願いだった。このことをつねに訴え、強調していたことを思うと、この食料品購買欲は理解できた。司厨《しちゅう=炊事場》担当のエドフード・コイル軍曹(EDWARD・COYLE) ら炊事班のメンバーは、こうして買い入れた食料をうまく料理し、栄養と美味のバランスをとりながら〝天下逸品″に仕上げ、供給していたが、その腕前には感心した。よく相伴にあづかったが、畑に捨てられていたあのタマネギがこんなに美味しく仕上がるのかと不思議に思うほどだった。どんなものでもこの調子に作りあげ、捕虜たちのすばらしい活力源になっていた。
また彼らは自給自足への意欲も強く、とくに許可を与えて所外の広い空地で菜園づくりをしていた。峰本さんも「いっしょに耕やし、汗を流したことがあった」 といい、ブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) やジョンソン中尉 (OEL・JOHNSON) らと、晴れた日など、片言の英語を交えながら、彼らも日本語の単語を並べた日英チャンボン語でよく雑談した。「鉄条網の外に出るのがよほど嬉しかったようで、とにかくチャンスをみつけては所外の菜園づくりや買い出しを催促した」そうだ。ひまをみつけては、コンサイスの英和、和英両辞典を片手に彼らといっしょに菜園に寝そべり、話し合ったことが忘れられないという。
こんなこともあった。十八年 (一九四三)十二月二日の昼だった。エドワード・コイル軍曹ら炊事班のメンバーが事務所へやってきて峰本さんの机上に、大皿に盛ったカボチャパイを置き、〝ハッピー・バースデー"と歌を歌い始めた。考えてみると、その日は峰本さんの誕生日。彼らはどこでこの日を調べたのか、峰本さんのために腕にヨリをかけたパイをプレゼントし、祝ったというわけ。「びつくりしたが感激した。捕虜に祝福されたんだから暖かい人間味を感じたネ」-峰本さんは嬉しそうに笑う。
こんな体験もした。ある夏の日の午後。彼らは「ぜひ海水浴に連れていってくれ」と執よう要望してきた。すでに彼らの性格も知り、温和な態度もわかっているので、聞き入れることにし、将校や炊事班ら昼間、キャンプに残っている者十余人を探日(ふけ)の一般市民のいない海岸に連れていった。海水パンツを持っていないので、彼らは普段のパンツ姿、なかには何もつけないで海に入る者、日本側は六尺ふんどしゃ普通の海水ふんどし、なかには普段つけているふんどし姿。暑い日だったので、ひんやりした海水が心地よかった。
彼らは、沖へ沖へと泳走。つねに人数を確認しておかなければならない管理者の立場としての峰本さんをヒヤヒヤさせるほど、勝手に遠くへ泳いで行く。あげくの果てに捕虜の中の数人が「バイ、バイ。このまま姿を消してアメリカへ帰るよ」と叫びながら陸地へ手を振る者も出てきた。
一瞬びっくりしたが、やがて彼らは陸の方へ向きを変えて帰って来はじめた。「絶対に逃げられない。四面を海に囲まれた狭い日本は、海でも陸地でも逃走できないよ」とつねづね言っていたので、安心していたものの、遥か彼方へ向けて泳ぎ始めた時にはギクリとさせられた。
陸にあがってきた彼らは「沖でバイバイと手を振ったとき、ミネモトさんらの顔や、狼狽(ろうばい) した姿はすばらしかった。もっともわれわれは、要望を聞いてくれたミネモトさんらに迷惑をかけることは絶対にしない。ここから逃げられるとも思っていない。安心してください」といって、大笑い。「アメリカ人のユーモアに富んだ明るさはいまも忘れがたい」と峰本さん。私自身もよく覚えているが、彼らは本当に楽しそうだった。「捕虜と水泳し、連れていってよかった」とわれわれみんなで話し合ったものだ。
習慣の違いで困ったことも多かった。大阪捕虜収容所には、数人用の小さな風呂があった。
英米などでは日本式に最初の湯舟の湯を最後までみんなで使う習慣がない。一人一回きり。あがる時その湯を全部流してしまう。この収容所でも、数人が一度に風呂に入ったあと、あがる時に湯を全部流してしまう。順番に彼ら多くの捕虜を入れようにも次の湯を入れるまで時間がかかってしまう。燃料や電力不足の戦時だけに、場を流さないよう再三、注意しても「気持が悪いから」 ときこうとしない。これには困った。ついには日本側の軍人、軍属が立番して守らせた。
食習慣の違いにも困った。物不足の当時でも割りと豊富だったタコやイカ、ゴボウなどの副食物を彼らは絶対に食べようとしなかった。所外に彼らを連れて買い出しに行ったが、食べたいものは少く、好まない食べ物は豊富。日本人でさえ戦時下の食料不足の時代に、彼らの習慣的なわがままには悩まされた。しかし彼らはそれをテクニックで補い、自前の調理力で何とか体を健康に保つことが先決」というのが、どの捕虜にも共通した願いだった。このことをつねに訴え、強調していたことを思うと、この食料品購買欲は理解できた。司厨《しちゅう=炊事場》担当のエドフード・コイル軍曹(EDWARD・COYLE) ら炊事班のメンバーは、こうして買い入れた食料をうまく料理し、栄養と美味のバランスをとりながら〝天下逸品″に仕上げ、供給していたが、その腕前には感心した。よく相伴にあづかったが、畑に捨てられていたあのタマネギがこんなに美味しく仕上がるのかと不思議に思うほどだった。どんなものでもこの調子に作りあげ、捕虜たちのすばらしい活力源になっていた。
また彼らは自給自足への意欲も強く、とくに許可を与えて所外の広い空地で菜園づくりをしていた。峰本さんも「いっしょに耕やし、汗を流したことがあった」 といい、ブロードウォーター中尉 (ROBERT・J・BROADWATER) やジョンソン中尉 (OEL・JOHNSON) らと、晴れた日など、片言の英語を交えながら、彼らも日本語の単語を並べた日英チャンボン語でよく雑談した。「鉄条網の外に出るのがよほど嬉しかったようで、とにかくチャンスをみつけては所外の菜園づくりや買い出しを催促した」そうだ。ひまをみつけては、コンサイスの英和、和英両辞典を片手に彼らといっしょに菜園に寝そべり、話し合ったことが忘れられないという。
こんなこともあった。十八年 (一九四三)十二月二日の昼だった。エドワード・コイル軍曹ら炊事班のメンバーが事務所へやってきて峰本さんの机上に、大皿に盛ったカボチャパイを置き、〝ハッピー・バースデー"と歌を歌い始めた。考えてみると、その日は峰本さんの誕生日。彼らはどこでこの日を調べたのか、峰本さんのために腕にヨリをかけたパイをプレゼントし、祝ったというわけ。「びつくりしたが感激した。捕虜に祝福されたんだから暖かい人間味を感じたネ」-峰本さんは嬉しそうに笑う。
こんな体験もした。ある夏の日の午後。彼らは「ぜひ海水浴に連れていってくれ」と執よう要望してきた。すでに彼らの性格も知り、温和な態度もわかっているので、聞き入れることにし、将校や炊事班ら昼間、キャンプに残っている者十余人を探日(ふけ)の一般市民のいない海岸に連れていった。海水パンツを持っていないので、彼らは普段のパンツ姿、なかには何もつけないで海に入る者、日本側は六尺ふんどしゃ普通の海水ふんどし、なかには普段つけているふんどし姿。暑い日だったので、ひんやりした海水が心地よかった。
彼らは、沖へ沖へと泳走。つねに人数を確認しておかなければならない管理者の立場としての峰本さんをヒヤヒヤさせるほど、勝手に遠くへ泳いで行く。あげくの果てに捕虜の中の数人が「バイ、バイ。このまま姿を消してアメリカへ帰るよ」と叫びながら陸地へ手を振る者も出てきた。
一瞬びっくりしたが、やがて彼らは陸の方へ向きを変えて帰って来はじめた。「絶対に逃げられない。四面を海に囲まれた狭い日本は、海でも陸地でも逃走できないよ」とつねづね言っていたので、安心していたものの、遥か彼方へ向けて泳ぎ始めた時にはギクリとさせられた。
陸にあがってきた彼らは「沖でバイバイと手を振ったとき、ミネモトさんらの顔や、狼狽(ろうばい) した姿はすばらしかった。もっともわれわれは、要望を聞いてくれたミネモトさんらに迷惑をかけることは絶対にしない。ここから逃げられるとも思っていない。安心してください」といって、大笑い。「アメリカ人のユーモアに富んだ明るさはいまも忘れがたい」と峰本さん。私自身もよく覚えているが、彼らは本当に楽しそうだった。「捕虜と水泳し、連れていってよかった」とわれわれみんなで話し合ったものだ。