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捕虜と通訳 (小林 一雄) (40)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄) (40)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/1/25 8:05
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 巌しい監視下で続けた交流 - 日本軍人の思い出・その4

 立場上、苦しいこともあった。十八年八月のある晩、捕虜のアメリカ兵が一人脱走する事件が起きた。捕虜全貞の夜の点呼で発見、すぐ日本軍の全員が手わけして捜索を開始した。しばらくして警察署から 「捕虜らしい人間が農家にいる」と通報があり、彼のいる多奈川のずっと奥地の農家へ引き取りに行った。「食物が欲しい」と姿をみせたという。連れもどして規則通り営倉《えいそう=兵営内で犯罪者を留置する場所》に入れた。後日、「逃げた理由を知るため」に衛兵らが彼を殴りつける事件が起き、峰本さんが止めさせたが、これが終戦後、峰本さんの身の上に大きな不幸となって降りかかってくるとは、誰《だれ》も予測できなかった。
 捕虜の一人が病死したことがあった。大八車《=荷物運搬用の大型二輪車》に遺体を納めた棺を乗せ、私も同行し、深日(ふけ)まで他の捕虜にひかせて行き、火葬にした。見送る捕虜たちの悲しげな顔つきはいまも忘れないという。「異郷の地で捕われの身となって命を落とした二十歳過ぎの若い兵士とそれを見送る上官、同僚…あの時には日本軍人として事務的にやったが、彼らの心情は理解できた」峰本さんは、敵味方に分かれていても同じ軍人としての思いが脳裏をよぎったのだろう。
 菜園づくりのことを思い出した。肥料の糞尿《ふんにょう》を農家から分けてもらい、捕虜にかつがせてまいた。最初は習慣の違いからか、アンモニア臭のきつい、汚い糞尿を捕虜もいやがったが、いまのように化学肥料もなく日本の畑づくりには当たり前の風習。それでも仕方なく彼らもなっとくしたが、こうした習慣の差を捕虜に教えることもひと苦労だった。これもまた戦後、峰本さんに不幸な運命の原因の一つになるとは、知る由もなかったが。
 峰本さんはいま当時をふり返っていう。「いまだからなつかしく思い出される。だが当時の私の立場では、すべて日本軍人として事務的に規則通りにやらざるをえない。心情としては人間として、とくに捕虜という弱い立場にある彼らに、苦しい環境の中で元気に生きてくれと叫びたかった。一人ひとりの捕虜は人なつっこく、とくに将校は尊敬に価いする人が多かった。いまでも思い出すのは、戦争が終わったらこんな家に住めと、設計図までつくってくれた技術将校、彼らにくる本国からの手紙にキスマークをつけ早く帰って…と訴える妻子らのこと。身につまされた。

 それでも終戦の日、生野分所でいっさいの軍用書類を焼き捨て、軍人はいっせいに身をかくした。峰本さんもその一人だったが、彼らとのこうしたつき合いで得た捕虜観についてこう結んでいる。日本の軍人とまるっきり違うということ。もっとも彼らも喜んで捕虜になろうとした者はいないはずだが、たとえ捕らわれてもけっして死なないこと。生きて帰り、再び奉仕するという心で一致していた。それに日本の軍人は捕われるよりも死を選ぶよう教えられたが、彼らは逆に死よりも捕らわれて元気に帰還することが先決という考え。それにしても日本軍も多くの捕虜を各戦線で出し、戦後、生きて帰還した。本音と建て前のどちらに比重を置いて叫ぶかの違いがあったのでは…戦争ということをつくづく考えさせられる。
 開放的で、ある場合には爆発的に明るく、楽天的にみえるアメリカの捕虜たち。イギリスやオーストラリアの将兵もアメリカ兵ほどではないにしてもそれに近いものをもっている。「生きて帰遷しなければ…」という執着心が余計に彼らをそうさせたのかも知れない。

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