捕虜と通訳 (小林 一雄) (31)
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編集者
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捕虜軍団の大移動 -激戦の波に押されて疎開地へ・その2
もっとも私は、三菱鉱業に籍を置く身だったので収容所のすぐ近く、小さな川一つ隔てて建てられた社宅に住んでの勤務となった。新婚早々の妻、尚子のほか、母の幸(父はすでに故人)、嫁に行っている姉の井端田鶴幸とその小さな息子二人(姉の夫は勤務の都合で大阪に残留)という、大世帯で、まるで疎開にやってきたというありさまだった。それでも二軒の社宅を借り、広い間取りの家は、いま思えばかなり恵まれた社宅だった。周囲はうっそうと茂る樹林と田畑、点々と散らばる民家、商店らしいものも相当、離れたところにしかなく多奈川とはうって変って田舎の僻地という環境だった。かなり、のんびりした環境だった。
収容所は、小さな川の向こうに切り開いた場所に周囲を坂塀と鉄条網で囲い、バラック建ての粗末な建て物だった。多奈川と同じように生活棟と医療棟、炊事棟などに分かれ、日本軍用の管理棟もきちんと備わっていた。まわりは樹木に覆われた山、川には一本の小さな橋があるだけ。まったく隔離された場所だった。姫路の師団から衛兵が交代で監視にやってきた。
捕虜たちは、ここから隊列を組んで近くの生野鉱山の坑内採鉱夫として作業に出かける。鉱山に着くと、ヘルメットに電灯をつけショベル片手にカンテラをさげ、リフトに乗って深いタテ坑に下り、そこからさらにヨコにトロッコで進み、発掘作業を始める。 ほとんどの捕虜ははじめて炭鉱夫として働くものばかり。 馴《な》れないい手つきで土を掘り、発破をかけ、進まぬ作業に、坑内の気の荒い日本人の現場監督から怒鳴られ、疲れても定時の休息以外は休めない。捕虜の大半は、収容所に帰って食事とフロを浴びるとぐったり寝るだけ。それを励ます将校たちの表情を見るにつけ、ある種の哀れさを禁じえなかった。多奈川での生活に比べ、はるかに作業はきつかったのだろう。これが〝虜囚″の宿命だったとはいえ、敗色濃い日本軍の実情を垣間、知るにつけ、明日のわが身を考えざるをえなかった。私も作業説明のため、捕虜といっしょに生まれて初めて坑内に入ったが、地下の暗闇《くらやみ》の中の恐しさは二度と味わいたくないという気分だった。
もっとも私は、三菱鉱業に籍を置く身だったので収容所のすぐ近く、小さな川一つ隔てて建てられた社宅に住んでの勤務となった。新婚早々の妻、尚子のほか、母の幸(父はすでに故人)、嫁に行っている姉の井端田鶴幸とその小さな息子二人(姉の夫は勤務の都合で大阪に残留)という、大世帯で、まるで疎開にやってきたというありさまだった。それでも二軒の社宅を借り、広い間取りの家は、いま思えばかなり恵まれた社宅だった。周囲はうっそうと茂る樹林と田畑、点々と散らばる民家、商店らしいものも相当、離れたところにしかなく多奈川とはうって変って田舎の僻地という環境だった。かなり、のんびりした環境だった。
収容所は、小さな川の向こうに切り開いた場所に周囲を坂塀と鉄条網で囲い、バラック建ての粗末な建て物だった。多奈川と同じように生活棟と医療棟、炊事棟などに分かれ、日本軍用の管理棟もきちんと備わっていた。まわりは樹木に覆われた山、川には一本の小さな橋があるだけ。まったく隔離された場所だった。姫路の師団から衛兵が交代で監視にやってきた。
捕虜たちは、ここから隊列を組んで近くの生野鉱山の坑内採鉱夫として作業に出かける。鉱山に着くと、ヘルメットに電灯をつけショベル片手にカンテラをさげ、リフトに乗って深いタテ坑に下り、そこからさらにヨコにトロッコで進み、発掘作業を始める。 ほとんどの捕虜ははじめて炭鉱夫として働くものばかり。 馴《な》れないい手つきで土を掘り、発破をかけ、進まぬ作業に、坑内の気の荒い日本人の現場監督から怒鳴られ、疲れても定時の休息以外は休めない。捕虜の大半は、収容所に帰って食事とフロを浴びるとぐったり寝るだけ。それを励ます将校たちの表情を見るにつけ、ある種の哀れさを禁じえなかった。多奈川での生活に比べ、はるかに作業はきつかったのだろう。これが〝虜囚″の宿命だったとはいえ、敗色濃い日本軍の実情を垣間、知るにつけ、明日のわが身を考えざるをえなかった。私も作業説明のため、捕虜といっしょに生まれて初めて坑内に入ったが、地下の暗闇《くらやみ》の中の恐しさは二度と味わいたくないという気分だった。