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捕虜と通訳 (小林 一雄) (36)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄) (36)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/1/9 9:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 アメリカの銃後は豊かだった~捕虜への便りで明らかに・その3

 しかし、アメリカ本土でそんなに、豪華に(私には当時そう思えた)、余裕のある暮らしをしていた彼らが、いまこの収容所に送られてきて、監視の中で労働を強いられ、生活を送っている。考えてみれば哀れな姿だ。いまの苦しい生活に甘んじながら、手紙に支えられて明日をみつめ、希望の火を灯しているのだろう。と思うと、彼らに哀れみを感じると同時に、アメリカ人の本国での生活をうらやましく感じたものだ。(こんな国を相手に戦っているんだなあ。日本の未来は?)ふとこんな考えが心をよぎったことを、いま思い出さずにはおれない。

 アメリカの平和で、豊かな銃後。日本の統制経済下の苦しく、爆撃にさらされた灰色ともいえる銃後。 真相はハッキリわからないながらも、この収容所で行き交う〝文通〃の中身は、彼我の国力の差が、あまりにも明瞭《めいりょう》に私の目に映り、何かを暗示するようだ。
 「パパが亡くなりました。あなたのことをもっとも気づかいながら他界しました。でも死の間際に、亡くなったことはいまいわないように、と気づかっていました。やさしかったパパのおかげで私も平和な暮らしができました。でもこれから、そのままいけるかどうか。頼るのはあなただけです。心の支えです。帰国したら技術者となって安定した生活をし、美しくやさしい妻とともにのどかな生活をしてくれるのが楽しみです。一目も早く帰ってきて下さい。神に祈る気持で、あなたの健康を願っています。あなたのママより」こんな手紙もあったことを思いだす。どこの国でも、戦場に送り出した母と息子。その感情は洋の東西をとわず、昔も今もいっしょだろう。捕虜たちよ〝元気で暮らせよ!!親子のためにも頑張って〝‥そんな気持で彼らに応援したくなった。しかし日本は必ず勝つ。この希望も日ごとに強まったのは、いま思えば不思議なくらいだ。

 捕虜たちの手紙(手記)。彼らに送られてくる故郷の便り。そこに表現された文字は、私に、戦争とは何か、故郷とは何か、肉身とは何か、愛情とは何か、平和とは何か…さまざまな思いを抱かせ、捕虜たちを見る目に新しい何かを植えつけてくれたように思う。
 それにしても日本国内のあの当時の新聞、ラジオ報道でかきたてる、鬼畜米英、一億玉砕精神のPR。それによって闘魂を燃やされる国民の一人として、私がこんな風に捕虜と暮らしている現実。私はあのころ、矛盾と疑問によく自問自答しながら、戦争の行くえを凝視していたように思う。

 そして、彼ら捕虜の本心は何だったのか?と考えたものだ。「執行日のわからぬ死刑囚」と捕虜たちが公言していた最大の恐怖は〝日本の敗戦″だった(?)。日本が敗戦になると軍当局が彼らを皆殺しにすると信じていたフシがある。島国の日本では脱走すれば自殺行為につながると考えていた彼らにとっては、日本が勝っても負けても生きられないと考えていたのかも知れない。

 反面、自国の敗北をもちろん願う者はいない。結局、講和によってこれ以上、戦わずに、円満に捕虜交換の行える条件が生まれることを切望していたことは、当時、一部の捕虜がよく雑談まじりにいっていたことだ。「講和によって、安全に生還できること」―これが彼らの本心だったに違いない。「昨日の敵は今日の友」として別れた終戦の日、かって戦時の捕虜時代に痛感していたこうした思いを、彼らはどうふり返ったのだろうか。彼らの肉身から送られてきた手紙を思い出すにつけ、こんな回顧が脳裏をかすめて、今では懐かしい思い出だ。

 通信の裏話として”秘密″があったことを終戦後、ある雑誌で読んだことがある。有名な「東京ローズ」の米軍向け謀略放送のことだったが…。私は当時、単に職務として捕虜の通信文をすべて読み翻訳して軍側へ返していた。それが軍当局で如何に処理されていたか、全く知り得なかったが、戦後に読んだ記事によると、これら各収容所の捕虜から家族への手紙、家族から捕虜への手紙のすべてが検問された。その中から適当に抜粋し、陸軍情報部で「東京ローズ」の名のもとに、戦線の米軍将兵向けのラジオ放送するために使われていたようだ。米兵の戦意低下を狙《ねら》った放送だったが、逆に彼らには楽しさを味わい、帰りを待ちわびながら勇気を起こさせた放送だったとは、戦後、歴戦の進駐米軍兵士から聞いた記憶がある。

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