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続 表参道が燃えた日 (抜粋)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/13 9:09
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 故郷の空が燃えている
 千野 孝(ちの たかし)その1







 この目のことは生涯忘れられない。
 「お父さん、伏せてっ…」
 一番上の姉、Kの悲痛な叫びが走った。それは昭和二十年五月二十五日の夜、世田谷大蔵にある陸軍病院でのことだった。防空壕に向かう途中で、動けなくなった夫、Nに寄り添い、上から覆うように庇っていた。爆音が行過ぎるたびに、生きる心地もなかったという。だがそのショックもあってか、翌々の二十七日、Nは静かに息を引き取ってしまったのである。内地での戦病死であった。慶応を出て、保険会社に勤めていたとき、応召して大陸に赴き、病に倒れてこの年の二月帰国したばかりであった。享年三十七歳の生涯だった。

 Nと姉Kが空襲に曝されていた、丁度同じ頃だった。私は世田谷桜新町で留守番を預っていたが、けたたましく鳴り響くサイレンで、とっさに庭に飛び出していた。数機のB29が、こちらに向かって来るではないか。
 「Kちゃーん、防空壕へすぐ入ってー。T子、Sちゃーん」
 庭は道路より少し高いところにあり、生垣に近く自家製の防空壕が造られている。一畳程度の狭壕だが、手伝いにきていた姉、Kの義妹K子が四歳のSちゃんを、私が五歳のT子を抱きかかえるようにして飛び込んだ。焼夷弾なら何とか防げるのではないか。私は蓋を開けて首を出し、東の空を眺める。時間は掛からなかった。麦畑の彼方、街の桜並木と空の接する彼方から、焼夷弾を落としながら、轟音と共にあっという間に、近づいてきたのだ。慌てて首を引っ込め、壕に潜り込む。耳だけが緊張している。轟音が行過ぎたと思った瞬間、
 「ドスンー…」
 なにやら鈍い音がした。あとは不気味な静かさの中で、微かな息遣いがするだけである。私はを少し押上げ、周囲を見渡す。暗闇の中、何事もなさそうだと確かめ、みなには「暫くそのままにしているように」と言って外に出た。門を出て小路に下り、鈍い音のした方に目を追っていく。するとどうだろう。五、六メートル先の麦畑がなんとはなしにバラけており、何やら突きささっているではないか。近づいて見ると、銀色っぽいかなり大きな金属体の胴体で、一部どす黒く焦げているものがある。隣の小父さんも出て来て、
 「あっ、これは殻だ。焼夷弾を包んでいる外枠だよ」と言う。幸運にもそれ以外は見当たらないのだった。麹町、牛込、赤坂、渋谷と、山の手を械毯爆撃してきた最後の印しだったのかも知れない。それにしても危ういところだった。直線距離にして僅か十メートル以内、この大きな焼夷弾の殻が直撃すれば、防空壕はひとたまりもなかったろう。

 「ありや何だ」
 大きな声がした。小父さんの指差す方を眺めると、東の空が赤っぽくピンク色に輝いているではないか。それも一様ではない。不規則に漣を打っているようだ。まさにB29がやって来た桜並木の彼方、渋谷方面だ。見れば見るほど、炎のように見える。私の胸は高鳴った。四年前まで住んでいた青山…故郷の光景が、脳裏を駆け巡った。穏原小学校や幼友達はどうしているだろう。
我が家は火の見櫓の傍にあったが、前のNさんはどうされたろう…。

 だがそのときは知る術もなかった。この目の絨毯爆撃で山の手は殆どが焼かれ、燃え盛る炎の中で二万人を超える死傷者が出たと、後に聞いた。家の消火に努めて逃げ遅れた方、代々木練兵場や神宮外苑、青山墓地など、避難場所への方向や道筋で命運の分かれた方、まさに阿鼻叫喚の世界であったと…。

 そのときは、あの燃えるような、炎のような故郷の空を、ただただ凝視めているだけだった。
 この日の空襲直後に、戦病死してしまったNの葬式は、戦時下のこともあり、病院に親戚数人が集まりささやかに行なわれた。姉Kは喪主として手が離せないので、学童疎開先の長男Jを迎えには私が行った。そして葬式をすませるや、長野県飯田郊外のお寺まで慌しく送り届けたのである。戦時中とはいえ、余りにも非情な成り行きであった。それなのにである。追い討ちをかけるように悪夢が突然襲ってきたのだ。
 病院から桜新町に戻った数日後のある日、姉Kの甲高い呼び声に全神経が反応した。奥の家に移っていた私は、咄嘆に駆けつけた。
 「孝、お医者さん呼んで、急いで」
 「えっ」
 「Sちゃんが、Sちゃんが」
 私はペダルの回転に全力を傾けていた。桜並木の原先生の扉を叩き、鞄を持って一緒に戻る。
 Sは虚ろな目を天井に向けていた。先生は聴診器をあて、喉や目を見やり注射を打つ。腕を握り脈拍を見たり、慌しい所作を繰り返す。
 「Sちゃん、しっかりして」
 張り裂けるような姉Kの声。引きつけていたようなSちゃんの動きが止まった。先生の顔が微かに横に動いた。
 「Sちゃん、Sちゃん」
 Sを包み込むように自分の顔を寄せ、姉の背は、声を殺すように波打っていた。私はかける言葉を失っていた。自家中毒による急逝であった。

 Nが戦病死して嘉月も経たない六月十三日、五歳に満たないSは、まるで父に連れて行かれるように、天に召されてしまったのである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/14 6:43
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 故郷の空が燃えている
 千野 孝(ちの たかし)その2

 戦争未亡人となった姉Kは、子育てに精出す一方、糧を得るため、買出しにも行かねばならない。戦後の混乱から、やがて三越で働く幸運に遇う。Nの学友のお蔭である。だが母としてだけでなく、父の役も果たさねばならぬことに変わりはなかった。肩の荷は重く、精一杯の日々が続いていた。

 そんなある日のことである。老父母と三人暮らしだった私は、何かお惣菜を買って帰ろうと銀座三越に寄ってみた。地下の食料品売場に入り、遠くから姉の応対振りを眺める。出来るだけ客の居ないときを狙って近づき、声を掛ける。
 「あら、孝さん、みんな元気…」
 「父さんも母さんも元気だよ。今日は何がいいかな」
 「そうね、お母さんたちにはこれがいんじゃない」
 「うん、それにしよう」
 姉Kは美味そうなお惣菜を、手際よく竹の皮に盛り付けながら、目方を量り、包み紙にくるんでいく。私ががま口から小銭を出している間に、
 「この間、Yさんが来たわよ、あの子も可哀想ね」
 「うん、三共で頑張っているんだよ。…ありがとう、じゃ、またね」
 勤務中の私事は許されない。最低限の会話だけでその場を離れたが、その余韻は渋谷に向かう地下鉄の中まで続いていた。姉は父母のことをいつも気にしてくれている。だが、「あの子も可哀想ね…」とは。私の級友、Yにも、姉のような母のような気持ちで接しているのだ。その思い遣りが身に絡み、胸の中には暖かいものが流れ、熱いものがこみあげていた。

 Y家とは、二十年以上も近所付き合いしていた仲だ。表参道に震災後建てられた同潤会アパートがある。それに並ぶ伊藤病院の角を東北に入ると、青山師範学校の裏と平行して原宿二丁目の街が展開する。三河屋、日野屋を通り過ぎ、火の見櫓の前がMさん、その右隣がNさん、その前に我が伏屋があった。そこから数軒手前の乾物屋の路地を入った突き当たりにY家はある。長姉同士が同級、一番下の姉同士も同級で、家族ぐるみ知りあっている仲だ。故郷では近所付き合いは勿論、家族ぐるみで付き合う家庭も多い。

 あの五月二十五日、Y家は直撃でか、逃げ道でか、家族をすべて失う悲運に遭遇した。三共に勤めていた級友だけが、当直だったのかどうか、一人残り、孤独の悲哀に暮れていたのだった。みながまだ戦争を引き摺っていた。

 この時代、私は理科故に徴兵猶予、学徒動員となり、農村や海軍火薬廠で汗を流していた。一番下の姉は挺身隊で海軍省へ、過労と栄養失調で結核に罹り、戦後病没してしまった。
 農村といい工場といい、国民はみな、銃後を支える兵士でもあった。
 都会でも病院すらも、銃後の山野はみな、非情な戦場そのものであった。

 (世田谷区桜新町、元渋谷区原宿二丁目)


前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/15 7:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 渋谷区穏田二丁目
    上通二丁目
  青葉町・金王町












 穏田川(おんでんがわ)に入って
 柴田(しばた) キヨ

 空襲の夜、ほんとうに死ぬ思いをしました。よくこの年まで生きてこられたと思います。今年八十七歳になりました。ほんとうは思い出したくないのです。

 三月十日の空襲でも焼けました。両国の国技館のそばで、その時私は裸足で逃げました。兄が迎えに来てくれて、溢谷の穏田の見たち家族が住んでいた家に移りました。穏田川の八千代橋に近い、穏田神社のすぐ近くです。私の実家でもあったわけですが、そこで、兄たちと私の両親、私とがいっしょに住みました。

 五月二十三日はすぐ前まで焼けて家は残りました。二十五日の夜警戒警報が鳴って、兄は器用な人ですから、庭先に穴を掘ってハタハタと布団を畳んで、ポイポイと穴に入れて上に蓋をしてかぶせたのです。燃えるといやだから布団だけでも助けたいと思ったのでしょう。結局全部焼けてしまいましたけれども。

 老人、子どもたちを先に避難させ、動けるものだけ残りました。焼夷弾が落ち、燃えている家に少しは水をかけました。周りに水がある限りは水をかけたりしましたが、何の役にも立たないのです。いよいよ仕様がないから明治神宮へ逃げようと思ったのですが、もうそれどころではありませんでした。それで川に飛び込みました、私は泳げないのですが。兄とその娘二人と私の四人でした。

 水はあまりありませんでした。川の中に川べりの火がヒユーと吸い込んでくるのです。強い風で畳やトタンが渦になって飛び回っていました。火の粉が落ちてくるので、自分が燃えないようにするために必死で、周りの人を見るような余裕はありませんでした。あの時のことはいくらお話してもとてもわかってはいただけないと思います。

 どのくらいの時間が経ったのか、水が増えてきました。火が少し治まってきて兄が上がろうというので、縄梯子のようなものを探して這い上がりました。あの頃は栄養失調で痩せていて四十キロもなかったから身軽でした (今は七十何キロですけれども)。

 焼跡に行ってみました。家も何もかも燃えてしまいましたが、水道はありました。井戸水が出ましたので、兄がドラム缶を探してきて、廃材を積んで木っ端を探してきて燃やし、焼跡でお風呂に入りました。川に浸かってドロドロでしたから。でもしばらくは体の具合がおかしかったですね。

 あの時、怖いとか思わなかったです。私だけでなく、みんながそうですから仕様がない、戦争に勝つためと思っていましたから。今考えるとほんとに馬鹿馬鹿しくなりますよ、何であんな思いをしたのかと。

 原宿で焼け出されて青山の御所近くに移りました。従兄の家がその近くにあってやはり焼けたのですが、そばのお友達の家が青山通りの南側で、一角だけ焼け残ったのです。そこへお出でよと言われ、私と両親とがお世話になることになり、一つの家に知らない者同士三所帯が暮らしました。

 私は御所の脇を通って信濃町の駅まで歩いて電車に乗り、葛飾の工場まで通いました。当時二十二歳でしたので、どこかで働いていないと女子挺身隊として動員され軍需工場などで働かされたのです。たまたま私の親戚が葛飾で軍需工場の部品の下請けをしていましたので、そこへ行くことにしたのです。焼ける前も後も通いました。空襲で線路をやられると電車が動かないので、二駅ぐらい歩いて夜中に家に帰ったことがあります。青山には戦後、立川にお嫁にくるまでいました。

 立川は今の昭和飛行機の所で中島飛行機が部品を作っていましたのでパラパラと爆弾が落ちたことがあるようですが、この辺は燃えてはいません。三年ほど前、小学校五年か六年生の教科書に戦争体験の話が出ていたことがありまして、その時呼ばれて話をしたことがあります。子どもたちが真剣に聞いてくれました。空襲体験をした人たちがどんどんさよならをしてしまうので、私も事実を話しておいた方がいいかなと思っています。何かの形で残しておいて欲しい。今の若い人たちは戦争をゲーム感覚で憧れみたいに思っている人がいる。体験していないのだからわからないけれど、戦争は悲惨なことを知ってほしいと思います。

 私はいま、膝が痛くて歩くのが困難ですが、口は達者なので、息子の店の電話番をし、新聞三紙をすみずみまで読み、そして三十年間、市の視覚障害者のために朗読をしています。元気なうちは皆さんのお役に立てればと思っています。

 (渋谷区穏田二丁目)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 母の手紙
 稲葉 正輝(いなば まさてる)その1




 

 一昨年、両親の遺品を整理していた所、当時タイ国の日本文化会館で現地の青少年教育に従事していた父へ、母が昭和二十年七月二十五日付けで、現地へ急に赴く方に託した八枚の便箋を見つけました。

 文通もままならぬ時局、親戚の近況を欄外も惜しむようにびっしり綴った手紙です。その中から、特に五月二十五日の東京大空襲で、我が家が燃え落ちるさまを記した部分を中心に抜粋し、掲載させて頂く事にしました。この手紙は四人の子供達たちを連れて、鎌倉から会津へ疎開した先で、青山の屋敷の管理を託していたS氏からの報告を聞き書いたものです。

 私は昭和十五年生まれで青山の家の事はあまり記憶にないため、戦前を知っている長女や従姉妹の協力を得て解説文を書き、人名は頭文字とさせていただきました。












 五月二十五日~二十六日の空襲での焼死体が並べられた。

○青山車庫は明治40年開設、5万平米、昭和43年廃止。
  現在は国連大学、こどもの城になっている。
○電気局病院は後、都立青山病院になったが平成20年3月閉鎖


 青山七丁目には徳川時代から大名屋敷があり、曽祖父は幕末に広大な土地の大部分を北海道開発試験農場に寄贈しました。

 明治の廃藩置県により、老中だった曽祖父稲葉正邦は、神道への道に進んだので、屋敷の庭先
に三島神社の御分霊社や御神木の大銀杏もありました。

 後に屋敷の一部は市電青山車庫として使われたようです。屋敷内にあった池は、車庫奥の池となり、近所の男の子たちの絶好の遊び場として「イナバの池」と呼ばれ親しまれたとのことです。

 時代は移り、戦前の父は英国に学び建築学を修め、屋敷は自ら設計した英国風の建物に建て替えられました。敷地内には外人用マンションやアフガニスタン公使館などの貸家もあったそうです。

 手紙の中で、母はすべての家寶を失い、お詫びの申し上げようもないと書いておりますが、さいわい北鎌倉に疎開した長持三棹は無事で、一部は戦火をまぬがれました。母は遠く離れた外地にいる夫に、あれもこれも話したいと、言葉を選ぶ余裕もなく、気のせく思いでこの手紙を書いたと思います。多少の読みづらさの中に、敗戦を間近にした必死の母の姿を感じます。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/17 8:14
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 母の手紙
 稲葉 正輝(いなば まさてる)その2

 (以下四ページ目から掲載 [ ] 内は筆者の注)

 『私共は実に運の良い時に、東京をつっきり、つつがなくこちらへ参りましたが、其の後たった三日ちがいにて、五月二十五日の東京大空襲の事、ご報告申し上げねばなりません。

 お留守中に遂に戦災により守りぬく事もかなわず、青山のすべても一瞬にして灰と化し、感慨無量でございます。一年も前からこの時ありとは覚悟の上にてお立ちになったものの、いざとなると、私も一年もの余裕があったにもかかわらず、種々の手落ちの点もあり、何とも申しわけないと存じます。お家の品々、北鎌倉へ、運んだものはほんのわずかで、自分たちの必要品にて手一ばいで、お父母上様方の思い出の品はほとんど失ってしまいまして、おわびの申し上げ様もございません。お留守中の出来事故、昔からのお家寶を失ひ、お家を失ひました私の責任は、只々残る子寶のみを一生懸命立派に育てて申しわけに致し度いと、新たに勇気にもえて居ります。

 先日やっと後始末をつけてS氏[留守宅を託された執事]が会津に参り当時の様子をくわしく聞きましたが、本当に想像以上であった様子に驚きました。青山は集中弾を受け、森の大木は一時にクリスマスツリーのろうそくの様に燃え、先づ三島様[三島神社の御分霊社]のわら屋根からもえはじめシャクナゲのある芝生のあたり一面火の海となった由、大広間[離れの建物]には、一発の命中弾はなく、お母上様のお家のお湯殿に一発、これは留守番に入ってくれてゐたKさん親子ですぐ消しとめてくれ、そのうちに車庫の電車が一時にバリバリ燃えはじめものすごい火がふきつけ、すぎ皮をはった板べいが一時に燃えてしまいました由。又、[貸家の]ガロアさんの留守宅(軽井沢へ行き、ガロア夫人は軽井沢にて病死)もとの長女の部屋へ落下した弾が燃えはじめましたが、全然人手なく、又アフガン [アフガニスタン公使館]にも命中弾あり、これ又軽井沢にて空家の為、燃えるにまかせてしまって、S氏は女、子供をさきに逃げさせ、たった一人にて消火につとめた由、あの青山の広い場所一面火の海の中にてたたかってくれた事考へると、本当によくやってくれたと思います。

 S氏はやっと火をのがれ一晩オンデンのどぶ川につかって少々のやけどだけにて一命を完了した由。奥様、子供達は皆ばらばらに、Kさん親子が一人づつG氏の子供をだいて逃げてくれ、神宮参道方面にてやっとたすかりました。Mさん一家も無事、Tさんお二人方も御無事、本当に本当に誰も無事にてほっと致しました。マンションの外人一人、女中一家、裏のIさん御一家、髪結ひ主人等焼死されました。神宮参道又オンデン方面づい分の焼死者あり、よく、皆々無事であったと不思議なほどの有様だったさうです。一夜をすごし引きかえしてみて、かわりはてたお家の有様にS氏は一人まだあちこち燃えてゐる焼野原にきちがひの様になって水をかけてゐる自分に、はっと気がついて急に泣き度くなったさうでございます。あの大イチョウの木も最後までがんばって右に左に火をはらって居たそうでございますが、本当に一番てっぺんまで真黒にもえてしまったさうでございます。私も会津へ立つ二日前に青山によりましたが、たった二目きりたゝぬ間に、すべてが灰になったかと思ふと、どうしても想像もつかぬほどでございます。遠方にて、一木一草に至るまで、思い出多い青山の戦災のあとをお考えになる御心中お察しいたします。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/18 6:53
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 母の手紙
 稲葉 正輝(いなば まさてる)その3

 さて、そちらでもお聞き及びの事かとも存じますが、実に実に信じられぬ悲報を御報告せねばなりません。私はこの事を書くのでさえも苦痛でございます。

 それは二十五日空襲にて、ほとんど全部の御親類方全焼されましたが、九段方面はひかくてき大丈夫と聞いて居りましたので、A様御案じしっつも御無事の事とばかり思って居りましたところが、実に実に思ひがけなくもお家は無論全焼にてB兄様がおなくなりになりました。はじめ皆様で消火につとめられましたが、やはり一面の火の海となり御門前空地の貯水槽につかって水をかぶりかぶり一夜をお明かしになりました由。朝になりお父様も無論貯水槽の中にいらっしゃるとばかり思っていらっしゃったところお姿はなく、御門前の道路のかどにうつ伏せになったまゝ煙にまかれて、たほれて居られました由。そばに二三人の人も焼死して居りましたが、お兄様は少しも焼けては居られず、すぐにお分かりになり、周囲だけ焼け残ったお家の洋館に安置されました。S氏が伺いました時には、もうお葬儀もすまされ、焼残ったマントルピースの上にお写真をかざられ枯れたお花一つ、お線香一本供へておありになった由。泣けて泣けてたまらなかったと申して居りました。お姉さまお子様方々お顔を少々のおやけど位にて御無事にて箱根にとりあへずお引上げになりましたとの事。

 あまりの事にどうしてもどうしても信じられず、お姉様やお子様方のことを考えますとお可哀想でお可哀想で遠方にて何一つおなぐさめも出来ず、私も只々涙を流して居りました。やっとの事でとりあえず箱根へお見舞差上げましたが、お返事いただき、自分たちもたすかったのが不思議なほどで、どうしても夢の様でまだぼんやりして居ると云っていらっしゃいました。これからはどんな事をしても、がんばって、Cさまが八月から兵隊へお出になる由にてかたきをうってもらうと云ってらっしゃいます。私も色々と御親切に力になっていただいてゐるお兄様を急に失ひ今後何彼と心細く本当にがっかりしてしまひました。やはりこちらへ立つ前日、青山の帰りにお目にかかったのが一生のお別れになってしまひました。相変わらず大元気でいらっしゃったのに夢の様でございます。』
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 母の手紙
 稲葉 正輝(いなば まさてる)その4

 このあと上野の親族が重傷を負い、小石川の親族宅も全焼で、すべて灰となったと報告しています。そして

 『最後に、私は感涙にむせびつつこの神々しい御報告を書きます。昨年十二月十五日フィリピン・ナソ海の戦に特別攻撃隊第十金剛隊O中尉は下士官機と二機にて出動、大型運送船、二隻大破炎上かくかくたる戦果をあげて、二階級進級されたる発表が五月三十日にございました。ほんとうにほんとうに何と御立派な事であったかと私も心よりお喜び申し上げ只々感涙にむせびました。この時にあたりこんなにかがやかしい死場所を得られました事、女の私共でさへ御うらやましく思ひました。日頃のお心からしてご両親様どんなにかどんなにか涙と共にお喜びほめておあげになる事と存じます。

 お姉上さまからもお手紙いただき、まことにまことに光栄の至りにて有難く早速お赤飯をたいてほめてやったとおっしゃいました。
 お喜び申し上げるそばから、今まで私にも子供達にもおやさしくして下さったO様の数々の事ども思ひ出しお姉様の御心中お察しするにあまりあり、今更のようにおなつかしく泣けて泣けてたまりませんでした。… (中略) …
 どうぞどうぞ御無事にておがんばり下さり、かならずかならずお目にかかれる目まで

 昭和二十年七月二十五日 』

  (渋谷区青葉町)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三たびの空襲-両親を失う
 岩田 昭男(いわた あきお)



 調べ:太鼓、大鼓、小鼓の音色を
 調整するために使われる紐

 私は昭和十八年頃まで浅草区(現台東区)寿町三の十六の二に居住していましたが、その後下谷区(現台東区)仲御徒町四の三十に移り、二十年二月二十五日、雪の目の空襲で焼け出されました。一家で渋谷区下通り三の十(天現寺橋)の恵比寿橋郵便局の近くに引越しましたが、五月二十三日の空襲で焼け出されました。つづいて、父の浅草時代の隣家一家のお世話をした渋谷区宮益坂の恩給金庫渋谷支店を紹介されて、宿直室のような所に身を寄せました。一夜だけの仮宿としたのですが、二十五日の夜、三度目の空襲に遭いました。

 引越したばかりで地理不案内、人びとの声で明治神宮の方へということで一家は逃げました。途中で両親たちと宿直室の二人にはぐれてしまいましたが、私は青山墓地まで逃げました。

 翌朝から三日ぐらい行方不明の両親と姉と姉の子を、毎日毎日広尾病院、慶応病院や救護所になっている学校などを見て回りましたが、両親たちの姿はどこにもありませんでした。探し歩いているとき、通りかかった表参道の灯寵のところで遺体の山を見ました。そして、その灯寵の所に長唄のときに使う鼓や太鼓をしぼる『調べ』という紐が焼け焦げているのを三つはど見つけました。この『調べ』でトランクを縛って逃げたのです。

 それを見て、ここが両親の終焉の地と思いました。遺体は見つかりませんでした。赤坂警察署に死亡診断書を発行してもらいましたが、そこには「焼夷弾による変死」と記載されていました。

 父は長唄邦楽技芸士、二代目梅屋勝三郎(正兵衛改め)、母は杵屋梅幸といっていました。
 私は当時十八歳でした。福島へ学童疎開していた弟と妹を迎えに行って、浜松の親類や、愛知県蒲郡町(当時)のおばの家に世話になり、生きてきました。家族以外頼ることもできない弟、妹たち三人にはとても可哀そうな事を味あわせました。私は、その後鮮魚商を四十有余年営んできましたが、今は引退しました。

 今年の五月二十五日、善光寺様の法要に参りました際、表参道の灯籠の所に行ってみました。
 両親の終焉の地の傍らに追悼碑が建って立派にまつられている事がわかり、本当によかったと思
いました。

 (渋谷区上通二丁目)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五月二十五日の思い出
 SK

 五月二十三日の朝、私は母と茅ヶ崎の家に出かけるはずでした。しかし母は、東京に一人残る父のために下町で三月に焼け出されたご夫婦が家に来て下さることになったので、その引き継ぎやらご近所への挨拶などのために二三日後から行くから、私に先に行くようにと申しました。茅ヶ崎の家は一人子の私が、子供の頃丈夫な子に育つようにと両親が私のために用意してくれた家で、そこに疎開することにしたのです。

 二十五日の夜、東京は千葉と相模湾からの敵機襲来で空が真っ赤でした。来るはずの母が来ず、私はとにかく東京へ行こうと思い、二十六日の朝早く辻堂の駅に並びました。あの頃は早起きして並ばないと切符は買えませんでした。

 ようよう手に入れて藤沢まで行き、小田急に乗り換えて渋谷に向かいました。けれども和泉多摩川で止まり、一時間以上動かず、多摩川を渡し舟で渡ろうとか人は騒いでいました。どうにか動き出したと思ったら下北沢近くで完全に止まり、下ろされてしまいました。渋谷に行くと云う人々の後について線路の中を必死で歩いて何とか渋谷だと云われた所に着きました。どっちを見ても完全に焼野原で、道玄坂か宮益坂かもわかりません。目をこらして見つけたのは急な坂の途中の鉄筋の建物でした。たしかあれは郵便局、その頃鉄筋で出来ていたのは郵便局だけでしたので、ようやく宮益坂だなとわかりました。それにしても坂の急なこと、こんなにすごい坂だったかと思いながら坂を上がりました。ちょうど反対側にお寺があり、お墓もありましたが、その中に人が死んでいると云われ、死んでいる人を初めて見ました。

 私が何とか家に着いた時、中で父が「来るんじゃない、向うへ行け」とどなったので、私はびっくりしました。父がやっと母の体を運んできた所に私は正に着いたのでした。

 母は下町のご夫婦といっしょに先に逃げたのですがすぐはぐれてしまい、近所の方が宮様の所で会ったとか後で話して下さいまして母の歩いた道がわかりました。父は当時町会長をしていましたので責任上残り、いよいよ駄目となって逃げたそうです。母とは神宮の第一鳥居で会う約束でしたが、いつまで待っても母が来ないのでもしやと、通ったと思う道をぐるぐる三周してやっと表参道の左の灯籠の脇で倒れている母を見つけました。金物の呼子をリュックに付けておいたのがふと目にふれ、体を表にして見たらお腹の所に非常袋を巻いていて、半焦げの中にがま口や名前など書いたものが焼けて入っていて母とわかったそうです。父は無惨な黒こげの母を私に会わせたくなくて叫んだのでした。

 その後知合いの会社のお世話で材木をトラックにのせて運んで下さり、我が家の庭の水が枯れた池の底に材木を井桁に組んで、上に鉄の門扉を置き、その上に母を載せて火葬にしました。いとこが長じゅばんを脱いで母にかけてくれ、ご近所の方々と手を合わせている中で母はお骨になりました。
 私はその時の光景が目の底に焼き付いているようでもあり、夢中でまるで夢の中だったようでもあり、その後も生きているのか死んでいるのかわからないような有様でした。母のお骨は知合いの方が料亭をやっている方からいただいてくれた味噌瓶に入れ、お墓がなかったので長いこと家におまつりしていました。

 父が私のことを大変心配して手伝いの人を頼み、しばらく茅ヶ崎にいました。終戦となり厚木が近くて米兵が来るといけないからと、昔家で書生をしていた大坪さんの家に行くことになり、新潟の湯沢に出かけましたが、十二月になると雪が三米も積もると聞き、慌てて東京にもどりました。

 父は焼野原に残った質屋さんの蔵を借りて住んでいました。あれから六十年が過ぎ、父がどんなに私の事を大切にしてくれたのか、私の幸せのためにどんなに一生懸命だったのか、今は亡き父の前に手を合わせて感謝の毎日を送っております。その後母の遺品は、東京都から展示させて欲しいと云われ、今はたしか、東京都文化振興部文化事業課に保存いるようです。

 (渋谷区金王町)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 山手大空襲
 石井 昭(いしい あきら)その1


 


 当時、私達の家族は金王町に住んでいました。宮益坂を青山の方向に向かい、坂を上りきった所を右(北)に入った辺りでした。私は小学校五年生でしたが、三月末で都内の小学校は空襲激化の為休校になっており空き腹を抱えて家でごろごろしていました。勤労奉仕に狩り出されて、青山通りのお店や住宅を大勢で縄を掛けて引っ張り破壊して防火帯を作る「強制疎開」にも参加しました。

 五月二十五日の空襲の前、二十三日でしたか、もうこの夜の空襲では渋谷の百軒店までが焼かれ、高台にあった我が家から遠望すると真っ赤な炎が立ち昇りバリバリという物の焼ける音が聞こえました。ですから何となく空襲がすぐ身近に迫っていた事を感じていたと思います。二十五日、空襲警報が出て間もなく我が家の外の道路に何かが「ピシャ」と大きな音を立てて落ちました。長年タイ国に駐在し空襲慣れしていた父が「多分高射砲弾の断片が落ちたのだろう」と言いました。間もなく道路の向い側にあったベルツさんというドイツ人の家の前に焼夷弾が一発落ちました。近所に居た人達の叫び声やバケツの触れる音などが交錯し、あっという間に消火され、ほっとする間もなく今度は豪雨の様な音とともに本格的な焼夷弾の雨が降って来ました。

 我が家は二階建ての古い木造住宅だったので、焼夷弾は全て一階の床を貫通して床下で発火したのです。我が家の一帯に投下されたのは「テルミット焼夷弾」で、東京に投下されたもう一つの「油脂焼夷弾」よりやや小型で、落下着地すると青白い火花を出して燃え上がりやがて高熱を発します。しかし発火初期にはバケツ一杯の水で簡単に消せました。両親と私の三人で手分けして、家中そこかしこ床や畳に開いた小さな穴から青白い煙が吹き上がっているのを見つけては、バケツの水を注ぎいれて消火しました。庭に置いてあった防火用水の水の他、母は風呂場に落ちた焼夷弾を風呂桶の水で消したりもしました。焼夷弾の雨が一しきり止んだ所でああよかった全部消せたと辺りを見回しますと、ご近所の家はもう皆さんとっくに逃げてしまっていて、あたり一面火の海となり煙で視界も覚束ない状態です。

 この時でしたか轟音がして一機のB29が超低空に下りてきました。地上の炎を反射させて機体は真っ赤に輝き、機体に描かれた数字や操縦席の風防ガラスの格子までがはっきり見て取れました。また豪雨の様な音を立てて焼夷弾の雨が降ってきます。身を隠す術も無く如何していいか分からず只足踏みをするばかりでした。火を噴いているご近所の家を見ながらやっと我が家を脱出です。他の方々と同じく目指したのは表参道です。

 あそこなら広いし明治神宮にも行ける、何となくそう思っていたのでしょう。しかし、我が家の消火活動に時間を食った為にもう青山通りは火の海になっていて、到底表参道には辿り着けません。空襲警報が出ると都電が車庫を出て十メートルおきくらいに路上に分散して延焼を防ぎます。しかしじゅうたん爆撃はその程度の小細工は無視して何もかも焼いてしまいます。表参道を諦めた私達は煙を縫いながら宮益坂の頂上まで行ってみましたが、ここは煙の噴出し口となっていてその煙の中から黒い人影が逃げ出してきます。到底坂を降りて東横の方には行けません。顔のすぐ傍を昆虫の群れの様に無数の赤い火の粉が通り過ぎます。逃げ場所を求めてあちらの小路こちらの路地と闇雲に逃げました。後ろから私達を嘲(あざけ)るように焼夷弾の雨が追いかけてきます。
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