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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 38

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 38

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/20 7:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三たびの空襲-両親を失う
 岩田 昭男(いわた あきお)



 調べ:太鼓、大鼓、小鼓の音色を
 調整するために使われる紐

 私は昭和十八年頃まで浅草区(現台東区)寿町三の十六の二に居住していましたが、その後下谷区(現台東区)仲御徒町四の三十に移り、二十年二月二十五日、雪の目の空襲で焼け出されました。一家で渋谷区下通り三の十(天現寺橋)の恵比寿橋郵便局の近くに引越しましたが、五月二十三日の空襲で焼け出されました。つづいて、父の浅草時代の隣家一家のお世話をした渋谷区宮益坂の恩給金庫渋谷支店を紹介されて、宿直室のような所に身を寄せました。一夜だけの仮宿としたのですが、二十五日の夜、三度目の空襲に遭いました。

 引越したばかりで地理不案内、人びとの声で明治神宮の方へということで一家は逃げました。途中で両親たちと宿直室の二人にはぐれてしまいましたが、私は青山墓地まで逃げました。

 翌朝から三日ぐらい行方不明の両親と姉と姉の子を、毎日毎日広尾病院、慶応病院や救護所になっている学校などを見て回りましたが、両親たちの姿はどこにもありませんでした。探し歩いているとき、通りかかった表参道の灯寵のところで遺体の山を見ました。そして、その灯寵の所に長唄のときに使う鼓や太鼓をしぼる『調べ』という紐が焼け焦げているのを三つはど見つけました。この『調べ』でトランクを縛って逃げたのです。

 それを見て、ここが両親の終焉の地と思いました。遺体は見つかりませんでした。赤坂警察署に死亡診断書を発行してもらいましたが、そこには「焼夷弾による変死」と記載されていました。

 父は長唄邦楽技芸士、二代目梅屋勝三郎(正兵衛改め)、母は杵屋梅幸といっていました。
 私は当時十八歳でした。福島へ学童疎開していた弟と妹を迎えに行って、浜松の親類や、愛知県蒲郡町(当時)のおばの家に世話になり、生きてきました。家族以外頼ることもできない弟、妹たち三人にはとても可哀そうな事を味あわせました。私は、その後鮮魚商を四十有余年営んできましたが、今は引退しました。

 今年の五月二十五日、善光寺様の法要に参りました際、表参道の灯籠の所に行ってみました。
 両親の終焉の地の傍らに追悼碑が建って立派にまつられている事がわかり、本当によかったと思
いました。

 (渋谷区上通二丁目)

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