@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

続 表参道が燃えた日 (抜粋) 39

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 39

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/21 8:48
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五月二十五日の思い出
 SK

 五月二十三日の朝、私は母と茅ヶ崎の家に出かけるはずでした。しかし母は、東京に一人残る父のために下町で三月に焼け出されたご夫婦が家に来て下さることになったので、その引き継ぎやらご近所への挨拶などのために二三日後から行くから、私に先に行くようにと申しました。茅ヶ崎の家は一人子の私が、子供の頃丈夫な子に育つようにと両親が私のために用意してくれた家で、そこに疎開することにしたのです。

 二十五日の夜、東京は千葉と相模湾からの敵機襲来で空が真っ赤でした。来るはずの母が来ず、私はとにかく東京へ行こうと思い、二十六日の朝早く辻堂の駅に並びました。あの頃は早起きして並ばないと切符は買えませんでした。

 ようよう手に入れて藤沢まで行き、小田急に乗り換えて渋谷に向かいました。けれども和泉多摩川で止まり、一時間以上動かず、多摩川を渡し舟で渡ろうとか人は騒いでいました。どうにか動き出したと思ったら下北沢近くで完全に止まり、下ろされてしまいました。渋谷に行くと云う人々の後について線路の中を必死で歩いて何とか渋谷だと云われた所に着きました。どっちを見ても完全に焼野原で、道玄坂か宮益坂かもわかりません。目をこらして見つけたのは急な坂の途中の鉄筋の建物でした。たしかあれは郵便局、その頃鉄筋で出来ていたのは郵便局だけでしたので、ようやく宮益坂だなとわかりました。それにしても坂の急なこと、こんなにすごい坂だったかと思いながら坂を上がりました。ちょうど反対側にお寺があり、お墓もありましたが、その中に人が死んでいると云われ、死んでいる人を初めて見ました。

 私が何とか家に着いた時、中で父が「来るんじゃない、向うへ行け」とどなったので、私はびっくりしました。父がやっと母の体を運んできた所に私は正に着いたのでした。

 母は下町のご夫婦といっしょに先に逃げたのですがすぐはぐれてしまい、近所の方が宮様の所で会ったとか後で話して下さいまして母の歩いた道がわかりました。父は当時町会長をしていましたので責任上残り、いよいよ駄目となって逃げたそうです。母とは神宮の第一鳥居で会う約束でしたが、いつまで待っても母が来ないのでもしやと、通ったと思う道をぐるぐる三周してやっと表参道の左の灯籠の脇で倒れている母を見つけました。金物の呼子をリュックに付けておいたのがふと目にふれ、体を表にして見たらお腹の所に非常袋を巻いていて、半焦げの中にがま口や名前など書いたものが焼けて入っていて母とわかったそうです。父は無惨な黒こげの母を私に会わせたくなくて叫んだのでした。

 その後知合いの会社のお世話で材木をトラックにのせて運んで下さり、我が家の庭の水が枯れた池の底に材木を井桁に組んで、上に鉄の門扉を置き、その上に母を載せて火葬にしました。いとこが長じゅばんを脱いで母にかけてくれ、ご近所の方々と手を合わせている中で母はお骨になりました。
 私はその時の光景が目の底に焼き付いているようでもあり、夢中でまるで夢の中だったようでもあり、その後も生きているのか死んでいるのかわからないような有様でした。母のお骨は知合いの方が料亭をやっている方からいただいてくれた味噌瓶に入れ、お墓がなかったので長いこと家におまつりしていました。

 父が私のことを大変心配して手伝いの人を頼み、しばらく茅ヶ崎にいました。終戦となり厚木が近くて米兵が来るといけないからと、昔家で書生をしていた大坪さんの家に行くことになり、新潟の湯沢に出かけましたが、十二月になると雪が三米も積もると聞き、慌てて東京にもどりました。

 父は焼野原に残った質屋さんの蔵を借りて住んでいました。あれから六十年が過ぎ、父がどんなに私の事を大切にしてくれたのか、私の幸せのためにどんなに一生懸命だったのか、今は亡き父の前に手を合わせて感謝の毎日を送っております。その後母の遺品は、東京都から展示させて欲しいと云われ、今はたしか、東京都文化振興部文化事業課に保存いるようです。

 (渋谷区金王町)

  条件検索へ