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続 表参道が燃えた日 (抜粋) 34

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通常 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 34

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2011/9/16 6:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 母の手紙
 稲葉 正輝(いなば まさてる)その1




 

 一昨年、両親の遺品を整理していた所、当時タイ国の日本文化会館で現地の青少年教育に従事していた父へ、母が昭和二十年七月二十五日付けで、現地へ急に赴く方に託した八枚の便箋を見つけました。

 文通もままならぬ時局、親戚の近況を欄外も惜しむようにびっしり綴った手紙です。その中から、特に五月二十五日の東京大空襲で、我が家が燃え落ちるさまを記した部分を中心に抜粋し、掲載させて頂く事にしました。この手紙は四人の子供達たちを連れて、鎌倉から会津へ疎開した先で、青山の屋敷の管理を託していたS氏からの報告を聞き書いたものです。

 私は昭和十五年生まれで青山の家の事はあまり記憶にないため、戦前を知っている長女や従姉妹の協力を得て解説文を書き、人名は頭文字とさせていただきました。












 五月二十五日~二十六日の空襲での焼死体が並べられた。

○青山車庫は明治40年開設、5万平米、昭和43年廃止。
  現在は国連大学、こどもの城になっている。
○電気局病院は後、都立青山病院になったが平成20年3月閉鎖


 青山七丁目には徳川時代から大名屋敷があり、曽祖父は幕末に広大な土地の大部分を北海道開発試験農場に寄贈しました。

 明治の廃藩置県により、老中だった曽祖父稲葉正邦は、神道への道に進んだので、屋敷の庭先
に三島神社の御分霊社や御神木の大銀杏もありました。

 後に屋敷の一部は市電青山車庫として使われたようです。屋敷内にあった池は、車庫奥の池となり、近所の男の子たちの絶好の遊び場として「イナバの池」と呼ばれ親しまれたとのことです。

 時代は移り、戦前の父は英国に学び建築学を修め、屋敷は自ら設計した英国風の建物に建て替えられました。敷地内には外人用マンションやアフガニスタン公使館などの貸家もあったそうです。

 手紙の中で、母はすべての家寶を失い、お詫びの申し上げようもないと書いておりますが、さいわい北鎌倉に疎開した長持三棹は無事で、一部は戦火をまぬがれました。母は遠く離れた外地にいる夫に、あれもこれも話したいと、言葉を選ぶ余裕もなく、気のせく思いでこの手紙を書いたと思います。多少の読みづらさの中に、敗戦を間近にした必死の母の姿を感じます。

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