続 表参道が燃えた日 (抜粋) 33
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続 表参道が燃えた日 (抜粋) (編集者, 2011/8/14 16:11)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 2 (編集者, 2011/8/15 7:36)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 10 (編集者, 2011/8/23 6:50)
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- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 49 (編集者, 2011/10/1 7:36)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 50 (編集者, 2011/10/2 9:50)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 51 (編集者, 2011/10/3 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 52 (編集者, 2011/10/4 7:48)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 53 (編集者, 2011/10/5 6:48)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 54 (編集者, 2011/10/8 7:38)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 55 (編集者, 2011/10/9 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 56 (編集者, 2011/10/10 7:13)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 57 (編集者, 2011/10/11 7:45)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 58 (編集者, 2011/10/12 6:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 59 (編集者, 2011/10/13 6:59)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 60 (編集者, 2011/10/14 6:38)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 61 (編集者, 2011/10/15 7:37)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録 1 (編集者, 2011/10/16 9:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録2 (編集者, 2011/10/17 7:28)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録3 (編集者, 2011/10/18 7:01)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録4 (編集者, 2011/10/19 6:34)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録5 (編集者, 2011/10/20 7:21)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録6 (編集者, 2011/10/21 11:32)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録7 (編集者, 2011/10/22 7:49)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録8 (編集者, 2011/10/23 7:42)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録9 (編集者, 2011/10/24 6:46)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録10 (編集者, 2011/10/25 6:43)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録11 (編集者, 2011/10/26 7:07)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録12 (編集者, 2011/10/27 7:55)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録13 (編集者, 2011/10/28 7:26)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 付録14 (編集者, 2011/10/29 6:57)
- 続 表参道が燃えた日 (抜粋) 編集後記 (編集者, 2011/10/30 7:04)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
渋谷区穏田二丁目
上通二丁目
青葉町・金王町
穏田川(おんでんがわ)に入って
柴田(しばた) キヨ
空襲の夜、ほんとうに死ぬ思いをしました。よくこの年まで生きてこられたと思います。今年八十七歳になりました。ほんとうは思い出したくないのです。
三月十日の空襲でも焼けました。両国の国技館のそばで、その時私は裸足で逃げました。兄が迎えに来てくれて、溢谷の穏田の見たち家族が住んでいた家に移りました。穏田川の八千代橋に近い、穏田神社のすぐ近くです。私の実家でもあったわけですが、そこで、兄たちと私の両親、私とがいっしょに住みました。
五月二十三日はすぐ前まで焼けて家は残りました。二十五日の夜警戒警報が鳴って、兄は器用な人ですから、庭先に穴を掘ってハタハタと布団を畳んで、ポイポイと穴に入れて上に蓋をしてかぶせたのです。燃えるといやだから布団だけでも助けたいと思ったのでしょう。結局全部焼けてしまいましたけれども。
老人、子どもたちを先に避難させ、動けるものだけ残りました。焼夷弾が落ち、燃えている家に少しは水をかけました。周りに水がある限りは水をかけたりしましたが、何の役にも立たないのです。いよいよ仕様がないから明治神宮へ逃げようと思ったのですが、もうそれどころではありませんでした。それで川に飛び込みました、私は泳げないのですが。兄とその娘二人と私の四人でした。
水はあまりありませんでした。川の中に川べりの火がヒユーと吸い込んでくるのです。強い風で畳やトタンが渦になって飛び回っていました。火の粉が落ちてくるので、自分が燃えないようにするために必死で、周りの人を見るような余裕はありませんでした。あの時のことはいくらお話してもとてもわかってはいただけないと思います。
どのくらいの時間が経ったのか、水が増えてきました。火が少し治まってきて兄が上がろうというので、縄梯子のようなものを探して這い上がりました。あの頃は栄養失調で痩せていて四十キロもなかったから身軽でした (今は七十何キロですけれども)。
焼跡に行ってみました。家も何もかも燃えてしまいましたが、水道はありました。井戸水が出ましたので、兄がドラム缶を探してきて、廃材を積んで木っ端を探してきて燃やし、焼跡でお風呂に入りました。川に浸かってドロドロでしたから。でもしばらくは体の具合がおかしかったですね。
あの時、怖いとか思わなかったです。私だけでなく、みんながそうですから仕様がない、戦争に勝つためと思っていましたから。今考えるとほんとに馬鹿馬鹿しくなりますよ、何であんな思いをしたのかと。
原宿で焼け出されて青山の御所近くに移りました。従兄の家がその近くにあってやはり焼けたのですが、そばのお友達の家が青山通りの南側で、一角だけ焼け残ったのです。そこへお出でよと言われ、私と両親とがお世話になることになり、一つの家に知らない者同士三所帯が暮らしました。
私は御所の脇を通って信濃町の駅まで歩いて電車に乗り、葛飾の工場まで通いました。当時二十二歳でしたので、どこかで働いていないと女子挺身隊として動員され軍需工場などで働かされたのです。たまたま私の親戚が葛飾で軍需工場の部品の下請けをしていましたので、そこへ行くことにしたのです。焼ける前も後も通いました。空襲で線路をやられると電車が動かないので、二駅ぐらい歩いて夜中に家に帰ったことがあります。青山には戦後、立川にお嫁にくるまでいました。
立川は今の昭和飛行機の所で中島飛行機が部品を作っていましたのでパラパラと爆弾が落ちたことがあるようですが、この辺は燃えてはいません。三年ほど前、小学校五年か六年生の教科書に戦争体験の話が出ていたことがありまして、その時呼ばれて話をしたことがあります。子どもたちが真剣に聞いてくれました。空襲体験をした人たちがどんどんさよならをしてしまうので、私も事実を話しておいた方がいいかなと思っています。何かの形で残しておいて欲しい。今の若い人たちは戦争をゲーム感覚で憧れみたいに思っている人がいる。体験していないのだからわからないけれど、戦争は悲惨なことを知ってほしいと思います。
私はいま、膝が痛くて歩くのが困難ですが、口は達者なので、息子の店の電話番をし、新聞三紙をすみずみまで読み、そして三十年間、市の視覚障害者のために朗読をしています。元気なうちは皆さんのお役に立てればと思っています。
(渋谷区穏田二丁目)