捕虜と通訳 (小林 一雄)
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投稿数: 4298
第十一章
労働する捕虜群像-勤労動員生徒の思い出・その1
太平洋戦争中、中学生として軍需工場にかり出され、同じ工場で強制労働者として働いていたアメリカ兵の捕虜を見つづけてきた人もいる。この人たちから見た捕虜たちはどうだったのだろう。
大阪市住吉区清水丘で「おしぼり屋」会社を経営する中尾隆勇さん(三七)は、旧制の岸和田市立岸和田商業高校(現市立岸和田産業高校)の二年在学中、昭和十八年(一九四三)秋から終戦の二十年(一九四五)春まで、泉州・多奈川にあった川崎重工多奈川艦船工場で動員学生《1944年、労働力不足を補うため学生・生徒に強制された勤労動員令》として働いた。ここには多奈川の捕虜収容所から三百人近くのアメリカ兵捕虜たちが土木作業にきていたので、身近にその姿を見て、時に話し合った。
製図工補助員だったので彼らのいる場所とは離れており、最初のころは捕虜が働いていることに気づかなかった。ある日、所用で製図室から艦船の停泊場に行く途中、山手の方にモッコをかつぎ、二輪車を押し、ショベルを振りあげて働く集団が目に入った。よく見ると日本人ではない。 他の工員に聞くとアメリカの捕虜だという。「こんな軍需工場に、しかも敵の捕虜が本当に来ているのだろうか?」半信半疑だった。
それからは休憩時間になると、距離はあったが、捕虜の働く場所近くへ行った。単に外人を見ようという興味からだった。「初めて見るアメリカ人だったが、大きな人種だなあと驚いた」というのが第一印象だった。だが、その割りには動きが鈍い。ショベルを振りあげる姿が弱々しい。なかにはやせ細った者もいる。
いつか、直接話してみたい、と思うようになった。なかなかチャンスがなかったが、ある日の昼食時、彼らも三々五々、弁当を食べているところへ近づいて行った。うち一人が突然「ハロー」という。つづけて何かしゃべりながら笑顔をみせたが、何を言っているのかわからない。
その笑顔にホッとして「ハロー」とやっとのことで一言だけしゃべれた。
あとがつづかず、英単語を探してモジモジしていると、彼は手招きして座れというジェスチャー。ますます勇気が出ていう通りにした。心の中では「負けているアメリカの捕虜だ。憶することなんかない。勝っている日本人じゃないか」といいきかせたが、ことばが出ない。
「ユー・ホェヤー(あなた、どこ)?」やっとのことでこの一言。すかさず彼は「ニューギニア・アンド・フィリピン」「やった。通じた」嬉しかった。英語が話せないという自己卑下が彼に近づけなかった原因だったのだ。それから英単語を並べながらいろいろ話していると、彼はニューギニアからフィリピンに転戦、コレヒドールで日本軍に包囲され、捕虜になったことがわかった。一言ごとにみせる笑顔とやさしい声が温和な性格を丸出しにして、親しみが湧《わ》いてきた。
大きな声で日本人の現場監督が「作業を始めー」と叫び、捕虜がいっせいに動き出した。だが、どの捕虜もマイペースに動いているように思えた。防空壕《ぼうくうごう》づくりのために土を掘り、土砂運びをつづける作業だが、どの捕虜も顔は無表情、声もなく、鈍い動き。日本人監督の声だけが大きく響き、眼を光らせている。許可を得て、急造のトイレに行く捕虜が相次ぐ。いったん中に入ると、相当長い時間、頑張っている。恐らく要領よく休んでいるのだろう。ついには監督が引っ張り出す始末。捕虜はパンツを足元におろしたままの姿で、つっ立ち、うつむいている。慣れない労働の疲れを癒やすために、彼らが共同でもくろんだ〝苦しまざれのチエ〟だったのかも知れない。「それにしても勝者は強いが、敗者は惨めだ」とつくづく思い知らされるこの風景は、いまも脳裏に焼きついている。
そんな時、他の捕虜たちは、作業をノロノロつづけながらお互いに眼と眼で話し、日本人監督を見据えたあと、対象もなくニヤッと白い歯をみせて薄気味悪いような低音で笑う。その態度と表情はまざれもなく日本人の監督を軽蔑(けいべつ)している。「いまは従っているが、おれらは日本人より賢く、強いんだ」といっているように思えた。最初に話した捕虜も「アメリカはストロング(アメリカは強い)、ワイド・カントリー(広い国)」といっていたところをみると、祖国アメリカに愛情と誇りをもち、逆に日本人をみさげて捕虜生活に耐えていたのだろうか。
労働する捕虜群像-勤労動員生徒の思い出・その1
太平洋戦争中、中学生として軍需工場にかり出され、同じ工場で強制労働者として働いていたアメリカ兵の捕虜を見つづけてきた人もいる。この人たちから見た捕虜たちはどうだったのだろう。
大阪市住吉区清水丘で「おしぼり屋」会社を経営する中尾隆勇さん(三七)は、旧制の岸和田市立岸和田商業高校(現市立岸和田産業高校)の二年在学中、昭和十八年(一九四三)秋から終戦の二十年(一九四五)春まで、泉州・多奈川にあった川崎重工多奈川艦船工場で動員学生《1944年、労働力不足を補うため学生・生徒に強制された勤労動員令》として働いた。ここには多奈川の捕虜収容所から三百人近くのアメリカ兵捕虜たちが土木作業にきていたので、身近にその姿を見て、時に話し合った。
製図工補助員だったので彼らのいる場所とは離れており、最初のころは捕虜が働いていることに気づかなかった。ある日、所用で製図室から艦船の停泊場に行く途中、山手の方にモッコをかつぎ、二輪車を押し、ショベルを振りあげて働く集団が目に入った。よく見ると日本人ではない。 他の工員に聞くとアメリカの捕虜だという。「こんな軍需工場に、しかも敵の捕虜が本当に来ているのだろうか?」半信半疑だった。
それからは休憩時間になると、距離はあったが、捕虜の働く場所近くへ行った。単に外人を見ようという興味からだった。「初めて見るアメリカ人だったが、大きな人種だなあと驚いた」というのが第一印象だった。だが、その割りには動きが鈍い。ショベルを振りあげる姿が弱々しい。なかにはやせ細った者もいる。
いつか、直接話してみたい、と思うようになった。なかなかチャンスがなかったが、ある日の昼食時、彼らも三々五々、弁当を食べているところへ近づいて行った。うち一人が突然「ハロー」という。つづけて何かしゃべりながら笑顔をみせたが、何を言っているのかわからない。
その笑顔にホッとして「ハロー」とやっとのことで一言だけしゃべれた。
あとがつづかず、英単語を探してモジモジしていると、彼は手招きして座れというジェスチャー。ますます勇気が出ていう通りにした。心の中では「負けているアメリカの捕虜だ。憶することなんかない。勝っている日本人じゃないか」といいきかせたが、ことばが出ない。
「ユー・ホェヤー(あなた、どこ)?」やっとのことでこの一言。すかさず彼は「ニューギニア・アンド・フィリピン」「やった。通じた」嬉しかった。英語が話せないという自己卑下が彼に近づけなかった原因だったのだ。それから英単語を並べながらいろいろ話していると、彼はニューギニアからフィリピンに転戦、コレヒドールで日本軍に包囲され、捕虜になったことがわかった。一言ごとにみせる笑顔とやさしい声が温和な性格を丸出しにして、親しみが湧《わ》いてきた。
大きな声で日本人の現場監督が「作業を始めー」と叫び、捕虜がいっせいに動き出した。だが、どの捕虜もマイペースに動いているように思えた。防空壕《ぼうくうごう》づくりのために土を掘り、土砂運びをつづける作業だが、どの捕虜も顔は無表情、声もなく、鈍い動き。日本人監督の声だけが大きく響き、眼を光らせている。許可を得て、急造のトイレに行く捕虜が相次ぐ。いったん中に入ると、相当長い時間、頑張っている。恐らく要領よく休んでいるのだろう。ついには監督が引っ張り出す始末。捕虜はパンツを足元におろしたままの姿で、つっ立ち、うつむいている。慣れない労働の疲れを癒やすために、彼らが共同でもくろんだ〝苦しまざれのチエ〟だったのかも知れない。「それにしても勝者は強いが、敗者は惨めだ」とつくづく思い知らされるこの風景は、いまも脳裏に焼きついている。
そんな時、他の捕虜たちは、作業をノロノロつづけながらお互いに眼と眼で話し、日本人監督を見据えたあと、対象もなくニヤッと白い歯をみせて薄気味悪いような低音で笑う。その態度と表情はまざれもなく日本人の監督を軽蔑(けいべつ)している。「いまは従っているが、おれらは日本人より賢く、強いんだ」といっているように思えた。最初に話した捕虜も「アメリカはストロング(アメリカは強い)、ワイド・カントリー(広い国)」といっていたところをみると、祖国アメリカに愛情と誇りをもち、逆に日本人をみさげて捕虜生活に耐えていたのだろうか。
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労働する捕虜群像-勤労動員生徒の思い出・その2
十九年の後半に入ると、日本の上空にアメリカ空軍機が侵入してくるようになった。そうしたある日の午後、この工場でも警戒警報のサイレンが長く鳴り響いた。みんな退避しなければならない。防空壕や物かげに列を組んでかくれたが、どうしたことか捕虜は一人として動こうとしない。逆にはるか彼方の上空にいるハズの、まだ見えないアメリカ軍機に手を振る者もいる。警報が解除されるといっせいにⅤサインして大声で笑っている。これには日本人の監督もどうすることもできず「作業始めー」と大声で指示するのが精いっぱいだったようだ。空襲警報にしろ、警戒警報にしろ、警報が発令され解除されたあとまで、彼らはいちように明るい表情が目立った。友軍機の飛来が日本本土に迫った戦争状態を知り、勇気づけられたのだろうか。
逆にこうした姿を見た工場に働く日本人は「絶対に負けるもんか」と反発していたようだ。「私も捕虜のそんな姿を見て、その時は負けるものかと心で叫んだものです」と中尾さんは力をこめた。
彼らは毎日、きまった時間に、きまったコースで捕虜収容所と工場の間を集団で往復していた。中尾さんら動員学生も、工員も、同じように通勤していたので、時間が同じ場合には彼らの集団通勤風景をよく見かけた。隊列を組み、といってもその姿はトボトボといった歩き方。
破れかけた軍用作業服、汚れた靴、服やズボンもマチマチで、みんな伏し目がちに歩いていく。
背の高い大男集団も、まったく威厳はなく、軍人の威容は吹っ飛んで、文字通り〝囚人″集団の行進のようだった。当時はこの姿を見て「当然だ」と思った反面「可哀相…」という気持ちも湧き、「負けてはダメだ」と自分自身にいいきかせた。捕虜のあの姿を毎日、公開していたのは、日本の国威と優勢さを市民に見せつけようとする国策だったのかも知れない。「いま考えると、何とも理解できない」と、中尾さんは顔を曇らせる。
あの戦時中に兵庫県・西宮市の甲子園球場で「戦争博覧会」が催され、戦闘場面や陸軍の模擬演習を公開、戦車も並べていたのを見物した。これも時代を反映した国策ショーだったのだろう。「すばらしいと思った」と中尾さん。ところが、終戦後、アメリカ軍が進駐、和歌山方面から国道二六号線を大阪方面に北上行進する風景を見た。大きな戟車や各種重火器、車両、ジープを先頭に武装したアメリカ軍の大集団が次から次へとつづく。軍靴の音も勇しい。戦車やトラックに無雑作に腰をおろしたアメリカ兵は銃を肩にひっかけ、沿道に黒山のようにつめかけて見物する市民に手を振り、口笛を鳴らし、笑顔で去っていく。チューインガムやタバコを市民の方へ投げる。みんな、その方へ群がって動く。こどもらがそれを追いかけて拾う。「これが戦時中に見たアメリカ兵なんだろうか。戦車の大きいこと。甲子園で見た日本軍の戦車がまるでオモチヤのように思い出せた。これでは物量と技術力で負けるのは当たり前だ、と茫然《ぼうぜん》として眺めたものだ」中尾さんの思い出だ。
軍需工場で強制労働にかりたてられた無気力なアメリカ兵捕虜、占領軍として終戦後に進駐してきた堂々としたアメリカ兵の行進。まるで極端な両面映画をまざまざと一度に見せつけられたような体験者の中尾さんー「勝利した人間と敗北した人間の姿が正反対なのはわかる。明暗を彩る心理もわかる。でも、この人間の社会に、同じ太陽を見て、同じ空気を吸う同じ人間が、対立し闘争し殺し合って、結果は明暗を分ける。愚かなことといいながら繰り返してきた。
賢いと自負する人類は所詮、愚かな生物に過ぎないのか」。愚行を二度と繰り返してはならない。
十九年の後半に入ると、日本の上空にアメリカ空軍機が侵入してくるようになった。そうしたある日の午後、この工場でも警戒警報のサイレンが長く鳴り響いた。みんな退避しなければならない。防空壕や物かげに列を組んでかくれたが、どうしたことか捕虜は一人として動こうとしない。逆にはるか彼方の上空にいるハズの、まだ見えないアメリカ軍機に手を振る者もいる。警報が解除されるといっせいにⅤサインして大声で笑っている。これには日本人の監督もどうすることもできず「作業始めー」と大声で指示するのが精いっぱいだったようだ。空襲警報にしろ、警戒警報にしろ、警報が発令され解除されたあとまで、彼らはいちように明るい表情が目立った。友軍機の飛来が日本本土に迫った戦争状態を知り、勇気づけられたのだろうか。
逆にこうした姿を見た工場に働く日本人は「絶対に負けるもんか」と反発していたようだ。「私も捕虜のそんな姿を見て、その時は負けるものかと心で叫んだものです」と中尾さんは力をこめた。
彼らは毎日、きまった時間に、きまったコースで捕虜収容所と工場の間を集団で往復していた。中尾さんら動員学生も、工員も、同じように通勤していたので、時間が同じ場合には彼らの集団通勤風景をよく見かけた。隊列を組み、といってもその姿はトボトボといった歩き方。
破れかけた軍用作業服、汚れた靴、服やズボンもマチマチで、みんな伏し目がちに歩いていく。
背の高い大男集団も、まったく威厳はなく、軍人の威容は吹っ飛んで、文字通り〝囚人″集団の行進のようだった。当時はこの姿を見て「当然だ」と思った反面「可哀相…」という気持ちも湧き、「負けてはダメだ」と自分自身にいいきかせた。捕虜のあの姿を毎日、公開していたのは、日本の国威と優勢さを市民に見せつけようとする国策だったのかも知れない。「いま考えると、何とも理解できない」と、中尾さんは顔を曇らせる。
あの戦時中に兵庫県・西宮市の甲子園球場で「戦争博覧会」が催され、戦闘場面や陸軍の模擬演習を公開、戦車も並べていたのを見物した。これも時代を反映した国策ショーだったのだろう。「すばらしいと思った」と中尾さん。ところが、終戦後、アメリカ軍が進駐、和歌山方面から国道二六号線を大阪方面に北上行進する風景を見た。大きな戟車や各種重火器、車両、ジープを先頭に武装したアメリカ軍の大集団が次から次へとつづく。軍靴の音も勇しい。戦車やトラックに無雑作に腰をおろしたアメリカ兵は銃を肩にひっかけ、沿道に黒山のようにつめかけて見物する市民に手を振り、口笛を鳴らし、笑顔で去っていく。チューインガムやタバコを市民の方へ投げる。みんな、その方へ群がって動く。こどもらがそれを追いかけて拾う。「これが戦時中に見たアメリカ兵なんだろうか。戦車の大きいこと。甲子園で見た日本軍の戦車がまるでオモチヤのように思い出せた。これでは物量と技術力で負けるのは当たり前だ、と茫然《ぼうぜん》として眺めたものだ」中尾さんの思い出だ。
軍需工場で強制労働にかりたてられた無気力なアメリカ兵捕虜、占領軍として終戦後に進駐してきた堂々としたアメリカ兵の行進。まるで極端な両面映画をまざまざと一度に見せつけられたような体験者の中尾さんー「勝利した人間と敗北した人間の姿が正反対なのはわかる。明暗を彩る心理もわかる。でも、この人間の社会に、同じ太陽を見て、同じ空気を吸う同じ人間が、対立し闘争し殺し合って、結果は明暗を分ける。愚かなことといいながら繰り返してきた。
賢いと自負する人類は所詮、愚かな生物に過ぎないのか」。愚行を二度と繰り返してはならない。
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第十二章
終戦・厳粛に行われた指揮権移譲
- 買い出しの帰りに捕虜と聞いた玉音・その1
「終戦の日、私はどこで、どうしていたのだろう?」太平洋戦争の体験者は、誰もがこう自分自身に問いかけるひとときがあるのではなかろうか。
八月十五日。この日、私自身は、捕虜の将校や炊事担当兵士を連れて隣りの町へ大八車を押し、野菜や日用品の買い出しに出かけていた。朝からである。いつも買いつけの農家や雑貨店をまわり、大八車に山ほどの品々を積んで、帰途についた。田舎道ではノンビリ、故郷の民謡を口ずさみ、それに歩調をあわせて手拍子をとりながら歩く捕虜たち。いつもながらの風景である。町に入っても田舎町のこと、ノンビリした風景。行き交う人びとの顔も、いまでは異邦の捕虜たちを別に不可思議とも思わず、逆に 「ハロー」と声をかける姿もみられた。捕虜たちもすかさず「ハロー」と答え、笑顔の交歓が行われた。大阪にいる時のように、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴るでもなく。たまにはるか上空をアメリカ空軍のB29機が通過しても爆弾を落とすわけでもなく…本当に〝空白の戦場地″とでもいえるのどかな地域だった。
隣りの町の駅前まで来たときだった。正午だった。たしか、駅の構内から外にかけて人だかりがしていた。みんな物静かに突っ立っている。アナウンサーの声が 「天皇の放送」を告げていた。その声が駅舎内からハッキリ聞こえる。いま思い出すと、その駅舎のラジオの音声を告知マイクに接続させ、大きな音にして一般市民や利用者に聞かせていたのだ。駅長のはからいだったのだろう。そして天皇の声が響いてきた。しかし何を発言しておられるのか、ハッキリ聞きとれなかった。そのうち、ガーガーという雑音が玉音《=天皇の声》をかき消し、やがて元に回復して天皇の声が響くというぐあいだった。「ポツダム宣言を受諾…」「忍び難きを忍び…」断片的なことばしか聞きとれない。しかし全体の天皇のご発言の雰囲気から「戦争中止」を決定された内容であることはつかめた。それでも半信半疑の私。当然だろう。当時、どんな窮地にあっても敵に屈服するというようなことは、到底、考えられない、というのが日本人のほぼ全員の思いだったハズだから。
そのうち、へナへナ…と地べたに坐《すわ》り込む壮年の人の姿。目に涙を浮かべ空を仰ぐ人、こぶLを握りしめながら隣りの人とヒソヒソ話をして、怒り顔もあらわにその場を離れる人…さまざまだった。その姿には「負けたんやろうかなあ」という疑心暗鬼と、十分に理解できなかったことへの不満、それでいて戦局の不利は避けられないとする、歯ぎしりするような感情がにじみ出ていたようだった。それぞれの思いが人びとの輪の中から伝わってくるようだった。
私自身は「日本が負けた」とハッキリ意識できた、といまでも当時のことを思い出す。しかし、ラジオ放送だけの内容だから、それを捕虜に伝えることもできず、いや、むしろ伝えるのは軍の命令違反になるとさえ考えた。何くわぬ表情で、休息中の捕虜とともに再び大八車を引きながら収容所へと向かって歩きはじめた。
駅舎を離れてしばらくし三人の捕虜将校が「ノンビリした田舎に似合わず、あの駅ではみんな緊張し、異常な顔つきだったですね」と私に話しかけてきた。そして彼はニコッと笑い、私にウィンクするではないか。私がとっさに何かいおうとすると、彼は人さし指を自分の口に当てて、もう一度ウィンク。何もなかったように大八車を押して歩いて行く。他の捕虜たちも、何かしら生き生きとしてよくしゃべり、笑っているように私には思えた。
「終戦-日本の敗北-彼ら捕虜の勝利を、駅のあの風景から察知したのだろうか?」だが、大八車を押して収容所に帰る姿からはそんなようすは、みじんもうかがえなかった。しいていえば、普段より明るい表情だったように思えたことだけである。捕虜たちにはすでに「日本の敗北」情報が、ピーンと脳裏に焼きついたことは事実だったのだが。
終戦・厳粛に行われた指揮権移譲
- 買い出しの帰りに捕虜と聞いた玉音・その1
「終戦の日、私はどこで、どうしていたのだろう?」太平洋戦争の体験者は、誰もがこう自分自身に問いかけるひとときがあるのではなかろうか。
八月十五日。この日、私自身は、捕虜の将校や炊事担当兵士を連れて隣りの町へ大八車を押し、野菜や日用品の買い出しに出かけていた。朝からである。いつも買いつけの農家や雑貨店をまわり、大八車に山ほどの品々を積んで、帰途についた。田舎道ではノンビリ、故郷の民謡を口ずさみ、それに歩調をあわせて手拍子をとりながら歩く捕虜たち。いつもながらの風景である。町に入っても田舎町のこと、ノンビリした風景。行き交う人びとの顔も、いまでは異邦の捕虜たちを別に不可思議とも思わず、逆に 「ハロー」と声をかける姿もみられた。捕虜たちもすかさず「ハロー」と答え、笑顔の交歓が行われた。大阪にいる時のように、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴るでもなく。たまにはるか上空をアメリカ空軍のB29機が通過しても爆弾を落とすわけでもなく…本当に〝空白の戦場地″とでもいえるのどかな地域だった。
隣りの町の駅前まで来たときだった。正午だった。たしか、駅の構内から外にかけて人だかりがしていた。みんな物静かに突っ立っている。アナウンサーの声が 「天皇の放送」を告げていた。その声が駅舎内からハッキリ聞こえる。いま思い出すと、その駅舎のラジオの音声を告知マイクに接続させ、大きな音にして一般市民や利用者に聞かせていたのだ。駅長のはからいだったのだろう。そして天皇の声が響いてきた。しかし何を発言しておられるのか、ハッキリ聞きとれなかった。そのうち、ガーガーという雑音が玉音《=天皇の声》をかき消し、やがて元に回復して天皇の声が響くというぐあいだった。「ポツダム宣言を受諾…」「忍び難きを忍び…」断片的なことばしか聞きとれない。しかし全体の天皇のご発言の雰囲気から「戦争中止」を決定された内容であることはつかめた。それでも半信半疑の私。当然だろう。当時、どんな窮地にあっても敵に屈服するというようなことは、到底、考えられない、というのが日本人のほぼ全員の思いだったハズだから。
そのうち、へナへナ…と地べたに坐《すわ》り込む壮年の人の姿。目に涙を浮かべ空を仰ぐ人、こぶLを握りしめながら隣りの人とヒソヒソ話をして、怒り顔もあらわにその場を離れる人…さまざまだった。その姿には「負けたんやろうかなあ」という疑心暗鬼と、十分に理解できなかったことへの不満、それでいて戦局の不利は避けられないとする、歯ぎしりするような感情がにじみ出ていたようだった。それぞれの思いが人びとの輪の中から伝わってくるようだった。
私自身は「日本が負けた」とハッキリ意識できた、といまでも当時のことを思い出す。しかし、ラジオ放送だけの内容だから、それを捕虜に伝えることもできず、いや、むしろ伝えるのは軍の命令違反になるとさえ考えた。何くわぬ表情で、休息中の捕虜とともに再び大八車を引きながら収容所へと向かって歩きはじめた。
駅舎を離れてしばらくし三人の捕虜将校が「ノンビリした田舎に似合わず、あの駅ではみんな緊張し、異常な顔つきだったですね」と私に話しかけてきた。そして彼はニコッと笑い、私にウィンクするではないか。私がとっさに何かいおうとすると、彼は人さし指を自分の口に当てて、もう一度ウィンク。何もなかったように大八車を押して歩いて行く。他の捕虜たちも、何かしら生き生きとしてよくしゃべり、笑っているように私には思えた。
「終戦-日本の敗北-彼ら捕虜の勝利を、駅のあの風景から察知したのだろうか?」だが、大八車を押して収容所に帰る姿からはそんなようすは、みじんもうかがえなかった。しいていえば、普段より明るい表情だったように思えたことだけである。捕虜たちにはすでに「日本の敗北」情報が、ピーンと脳裏に焼きついたことは事実だったのだが。
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買い出しの帰りに捕虜と聞いた玉音・その2
収容所へやっと帰りついた。しかし、中へ入ってみて驚いた。収容所の日本軍管理室にいるハズの日本軍人は一人も見当たらないではないか。一部の軍属だけだ。あとから知ったが、彼ら軍人は、書類を焼却後に、所長を除いて全員、玉音放送のあと、しばらくして収容所を出て一か所、秘密の場所に集合していた。あるいは身の危険を感じ、退避していたのだろうか。
夕方近くになって私が彼ら捕虜の舎屋に行くと、口々に 「ザ・ウォー・イズ・オーバー(THE・WAR・IS・OVER=戦争は終った)」といって握手を求めてきた。荷物をまとめながら、床を足で鳴らす者、指笛や口笛を吹く者…笑い声と歓声がバラックのそこかしこから聞こえてくる。「駅で見聞した風景をみんなに伝えたんだよ」とは、一人の捕虜将校があとになって、私にいったことばだった。
それと、夕方には労働に出ていた一般の捕虜兵士が収容所に帰ってきた。外の炭鉱現場で日本人労務者から仕込んだ〝終戦情報″をお互いに交換、一致して「戦争は終わった」「われわれは勝った」と結論を出した結果の〝歓喜″だったのである。
その日の夜は、私も家族会議を開いた。「ヤレヤレ…だが、生活がこれからどうなるか、心配だ」「捕虜が日本軍と逆の立場に立つので、収容所に勤めている日本人は危害を加えられるんやないか?」「大阪に帰ろうか?」「私だけ残って女、こどもは大阪へ帰った方がよい?」 ケンケン、ガクガク、まとまりのつかない話し合いが深夜まで続いた。が、結果は「もう一両日、ようすをみよう」と、いままでと同じような状態でいることになった。
次の日、収容所へ出勤すると、捕虜たちは所内のあちこちで踊り狂うように歓喜した表情で、自由に歩きまわっていた。輪を組んでダンスをするグループもいた。食事も、わざわざ、芝生に持ち出して談笑しながら楽しんでいた。強制的な労働と管理からの開放で、まるで所内はお祭り騒ぎのようだった。
日本軍人は衛兵もおらず、管理部門の担当者も、昨日と同じょうに姿をみせない。思いあまって捕虜の兵舎へブラリと出向いてみた。「コバヤシさん、われわれは勝った。しかし、収容所の日本人は親切だった。いつまでもこのことは忘れないよ」と食事に誘ってくれる将校もいたが、逆に私の姿をみると、にらみつける兵士もいた。恐らく、日本人とともに労働していた彼は、印象のよくない体験をして、日本人の私をにらみつけたのだろうが、その眼は恐かった。日本軍人が姿をかくすハズである。しかし、暴動のような愚行は全く発生しなかった。あとから聞いた話では、日本降伏の報とともに、捕虜は各国別に指揮命令系統を確立、全捕虜の最高指揮官にアメリカ軍のフリニオ中佐(FIANKl-N・M・FLIIIAU)を当て、秩序正しい所内生活を徹底するよう指示していたという。
終戦の日から二日経った十七日午後ー収容所の鳴和分所長(陸軍大尉)が、全捕虜代表のフリニオ中佐を分所長室に呼んだ。入ってくるなり、勤務中は片時も離さなかった軍刀を腰からはずし、直立不動の姿勢で、「日本軍の降伏によって、中央部からの命令通り、所内の指揮権をただ今からあなたに移します」と伝達。同時に軍刀を捧げるようにフリニオ中佐に手渡し、挙手の礼をした。フリニオ中佐は「確かに指揮権の移譲を受けたことを確認します。これからは私があなたに代って全員をまとめますが、いままで国際法にもとづき、われわれを遇して下さった鳴和分所長に感謝します。友人として礼をいいたい」と答えて厳かに挙手の礼。お互いに握手をしにこやかな表情で別れた。その一つ一つを通訳した私には、とても感動的な〝指揮権移譲″式だった。いまもその感動がハッキリとよみがえってくる。
収容所の中の主人公はこうして完全に逆になったのである。歓喜する捕虜。ある危惧《きぐ》を感じて姿を消した日本軍人。端正な表情で軍刀を渡し所内の指揮権を譲った収容所長と、それを受けた新しい所内の主人公の統括者。これが戦争の結末だったのである。こんな場面を一民間人として体験した日本人はそんなに多くないハズだ。私のこの終戦体験は、まさに日本の戦後史のはじまりだったと信じている。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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戦後編
第一章
解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その1
昭和二十年(一九四五)八月十五日は、捕虜たちにとって文字通り〝解放の日″だった。〝歓喜の日″だった。
敵国・日本軍の銃剣による監視の下に有刺鉄線の囲いの中で、不自由な抑留生活をつづけてきた彼らにとって、自国が勝利しての終戦だっただけに、この歓びは当然のことだ。戦争の勝敗だけにこだわって考えれば、日清《日本と清国との戦争》、日露《1904年日本とロシアの戦争》、の戦役から日中戦争《1937年日本の中国侵略による 太平洋戦争に発展》、まで〝敗戦″を知らない、いわば純粋培養の日本人にとっては逆に大きなショックだったことは否めない。それまでたたき込まれてきた軍国・日本の一糸乱れぬ愛国魂、徹底抗戦の精神が日本全土を覆っていただけに、この終戦を驚かないのが不思議だった。それだけにあらゆる面でショックの大きさも異常だった。
まあ、それはともかく、八月十五日の終戦を知った彼ら捕虜たちの歓びようは大変なものだった。日本流にいえば、キャンプ中が 「バンザーイ」 のるつぼに埋もれ、とくに下士官以下の兵舎はドンチャン騒ぎのありさまだった。収容所内の指揮権も日本軍から譲り渡され、自由な空気が日一日と充満してきた。ある者は食糧倉庫から缶詰食を持ち出し、タバコ類などの嗜好品《しこうひん》、もありったけ持ち出して、歓びのパーティーや団らんがそこかしこで開かれた。イギリス、アメリカ、オーストラリアそれぞれの国別に歌や踊りやディナー・パーティーに明け暮れていた。
ただ、将校たちは、いち早く秩序維持のための独自の指令を各国別に出し、収容所内での規律ある生活と所外への外出を整然と行うことに注意していた。捕虜への日本側からの敵対行為の防止と、捕虜の無秩序な行動が地元住民に危害などを加えることのないよう配慮しての、素早い行動だったようだ。
こうした捕虜側の動きに対し、日本側も、警察力を動員して地元民の浅はかな行動が、双方の秩序を乱さないよう留意。また町役場などの官公署も送電や燃料補給をいままで通り収容所に行えるように配慮を欠かさなかった。
こうした彼我の秩序を配慮した行動で、少なくとも収容所内ではドンチャン騒ぎの歓びの割りには整然とした管理が実施され、比較的、厳正な秩序が守られていた。
私自身も、終戦の当日、日本軍関係者がいち早く見えなくなり、不安を感じ、数日後に収容所へ行くことの不安から、親しいアメリカ側の将校に「これ以上、勤務できない」と打ち明けた。しかし将校団から「君がいなくなると日本側との連絡もスムーズに行えなくなるので、ぜひとも残ってくれ。いままで通りの友情でわれわれも接するので、君もそのつもりで安心して協力してほしい」と逆に慰留され、そのまま、彼らが収容所を離れるまで〝お墨つき勤務〟をつづけた。終戦後、この生野収容所に勤務する日本側の職員は私のほか、三菱鉱業生野鉱業所勤労部の連絡員ら三人だけだった。特別にすることもなく、捕虜と雑談するだけの毎日だった。
第一章
解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その1
昭和二十年(一九四五)八月十五日は、捕虜たちにとって文字通り〝解放の日″だった。〝歓喜の日″だった。
敵国・日本軍の銃剣による監視の下に有刺鉄線の囲いの中で、不自由な抑留生活をつづけてきた彼らにとって、自国が勝利しての終戦だっただけに、この歓びは当然のことだ。戦争の勝敗だけにこだわって考えれば、日清《日本と清国との戦争》、日露《1904年日本とロシアの戦争》、の戦役から日中戦争《1937年日本の中国侵略による 太平洋戦争に発展》、まで〝敗戦″を知らない、いわば純粋培養の日本人にとっては逆に大きなショックだったことは否めない。それまでたたき込まれてきた軍国・日本の一糸乱れぬ愛国魂、徹底抗戦の精神が日本全土を覆っていただけに、この終戦を驚かないのが不思議だった。それだけにあらゆる面でショックの大きさも異常だった。
まあ、それはともかく、八月十五日の終戦を知った彼ら捕虜たちの歓びようは大変なものだった。日本流にいえば、キャンプ中が 「バンザーイ」 のるつぼに埋もれ、とくに下士官以下の兵舎はドンチャン騒ぎのありさまだった。収容所内の指揮権も日本軍から譲り渡され、自由な空気が日一日と充満してきた。ある者は食糧倉庫から缶詰食を持ち出し、タバコ類などの嗜好品《しこうひん》、もありったけ持ち出して、歓びのパーティーや団らんがそこかしこで開かれた。イギリス、アメリカ、オーストラリアそれぞれの国別に歌や踊りやディナー・パーティーに明け暮れていた。
ただ、将校たちは、いち早く秩序維持のための独自の指令を各国別に出し、収容所内での規律ある生活と所外への外出を整然と行うことに注意していた。捕虜への日本側からの敵対行為の防止と、捕虜の無秩序な行動が地元住民に危害などを加えることのないよう配慮しての、素早い行動だったようだ。
こうした捕虜側の動きに対し、日本側も、警察力を動員して地元民の浅はかな行動が、双方の秩序を乱さないよう留意。また町役場などの官公署も送電や燃料補給をいままで通り収容所に行えるように配慮を欠かさなかった。
こうした彼我の秩序を配慮した行動で、少なくとも収容所内ではドンチャン騒ぎの歓びの割りには整然とした管理が実施され、比較的、厳正な秩序が守られていた。
私自身も、終戦の当日、日本軍関係者がいち早く見えなくなり、不安を感じ、数日後に収容所へ行くことの不安から、親しいアメリカ側の将校に「これ以上、勤務できない」と打ち明けた。しかし将校団から「君がいなくなると日本側との連絡もスムーズに行えなくなるので、ぜひとも残ってくれ。いままで通りの友情でわれわれも接するので、君もそのつもりで安心して協力してほしい」と逆に慰留され、そのまま、彼らが収容所を離れるまで〝お墨つき勤務〟をつづけた。終戦後、この生野収容所に勤務する日本側の職員は私のほか、三菱鉱業生野鉱業所勤労部の連絡員ら三人だけだった。特別にすることもなく、捕虜と雑談するだけの毎日だった。
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解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その2
このような体制の中で始まった終戦後の生野収容所-終戦の日から数日後を経たある日のことだった。突然、アメリカ空軍の輸送機が数機、収容所上空に飛来、超低空で旋回したあと物資を投下しはじめた。いずれも落下傘つきで、あとからあとから投げ降ろされた。
所内の捕虜(すでに捕虜ではなくなったが)たちは「何ごとか?」と、いっせいにバラック舎屋から出てきて空を見上げた。私ら日本人も管理事務所から広場に出て空を見上げた。轟音《ごうおん》をたてる輸送機。ふわりふわりと空から舞い降りる大きな荷物。空一面がまるで白い真綿《まわた=絹綿》を一つずつ広げたように純白の落下傘で埋まっている。晴れた青空と入道雲をバックに、それはまるで絵に描いたような風景だった。
「赤十字印が見えるぞ」「救援物資だ」「拾いに行け」捕虜たちは、こんどはいっせいに荷物の落ちる方向へ走り、あっちに一団、こっちに一団と、小さな集団が荷物の落下とともにひとかたまりになって動いていく。所内の広場や屋根の上、なかにはフェンスにひっかかった荷物。われ先にと鉄条網の柱によじ登って荷物にしがみつく。手が有刺鉄線にひっかかれて血を出す者も。それでも彼らの行動は過敏で、もう腕力と体力のぶつかり合い 荷物の落下場所は所内だけではない。裏手の山中にも無数に落ちてくる。川向こうにも、一般道路の上にも。捕虜たちは所内から出てここでも取っ組み合い、へし合い、押し合い、われ先にと落下物に殺到する。アメリカ兵もイギリス兵もオーストラリア兵や、誰がどこの国の者かわからない。ちょっとみると乱闘風景だ。町民たちは何ごとが起きたのかといった風情で、恐る恐る家の窓越しにこの風情を眺めている。裸で川に飛び込み、荷を拾い、走りまわる者もいる。
「おーつ、メイド・イン・USA。国際赤十字がわれわれみんなに贈ってくれたものだ」われ先にと荷物を奪い合う捕虜たち。収容所周辺は時ならぬ喧騒の渦と化した。
十分な衣食住もない場所に、本国から送られてきたさまざまな食料や衣料品、医薬品、嗜好品《しこうひん》]、文房具…待望の品々だけに彼らのこの行動は当然なのかも知れない。「衣食足りて、礼節を知る」という諺《ことわざ》を教えてくれる風景だ。窓越しに恐る恐る眺めていた地元の人たちは、果たしてどう感じとっていたのだろうか。一瞬にして戦勝国と敗戦国に入れ変わった運命の日から数日ならずして起きたこの風景は、いつまでも私の脳裏にハッキリと記録され、折りあるごとに思い起こす過去帳の一頁である。
もちろん、最後にはそれぞれの指揮官がうまくさばき、全部を一つ場所に集めて各国、各人平等に整然と分けあっていたのは、さすがタテ組織を本領とする軍隊。頭上のアメリカ空軍輸送機は、約三十分後、何ごともなかったように轟音を残して去っていったが、地上で起きたあのさまは、厳重な監視の下に抑えつけられていた者だけが体験する〝解放の歓喜〟の象徴だったのかも知れない。
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解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その3
所内はとにかく、終戦の日を境に雰囲気が一変した。明るくなった。所内の住人たちの笑顔が日増しに鮮明になり、活気に満ちてきた。会話する声もはずむように大きくなった。私に対する彼らの態度は少しも変わらなかったと思うが、逆に励ましてくれるような言動が多くなった。いままで以上に食事に誘ってくれたり、物品をプレゼントしてくれたり、町のようすを知りたがって質問も多くなってきた。もう日本軍の指示もないので大っぴらに町のようすや住民の暮らしぶり、私の家族のことなどを雑談まじりに詳しく話したものだ。明るくなった所内の雰囲気につられて私の勤務もいままでになく、ノンビリ、なごやかに、明るくできるようになった。
解放後十日も経たないうちに、彼らの中にはグループでよく所外へ外出するようになった。
もちろん丸腰のままである。もし彼らの身の上に何ごとか起きると大変だというわけで、警察官の治安のための行動も段々とチ密に厳重になってきた。
私の家にも数人の捕虜将兵がよく訪れるようになった、ある日のことだった。いつもくる彼ら数人が突然、やってきた。みんな米俵をかついでいる。有無もいわせず、急に畳をめくりあげ、持参のスコップで床下を堀り始めた。深さ一・五㍍ぐらい、二㍍四方の大きな穴ができると、そこへ持ってきた米俵を全部突っ込み、また元通りに畳を敷いて何ごともなかったように話すではないか。
「コバヤシさんは、私らのためにいままで献身的に勤めてくれた。敗戦後の日本は物資も少ない。とくに食糧品には困るだろうから、プレゼントとして米を持ってきた。あそこなら誰にも見つからず、相当の日数、食べられるハズだ。私らの感謝の気持ちだから受けとってくれ」という。妻や母も驚いたが私もビックリ。しかし本当の友情を感じたできごとだった。ありがたかった。
収容所内では欧米式の軍隊管理下で、相変わらず、くったくのない笑いと明るさの毎日だった。ある捕虜のグループはどこから仕入れたか、古ぼけた旧日本軍のトラックに乗り、持参の物品を手みやげに遠出して地元の人たちと交歓、自由な所外の空気を思いっきり吸い、エンジョイしていた。
こんな明るい表情とは逆に〝捕虜解放″の結果、悲惨なできごとも見聞された。私が兼務ていた明延鉱業所の収容所にはアメリカ兵約五十人が収容されていたが、相当、きつい労働を強いられていたのか、終戦後、間もない時に訪れて見て驚き、悲しかった。日本人軍属(恐らく監督として捕虜を扱っていた人だろうか)や数人の日本人が血みどろになってうめいている姿を見た。捕虜たちが解放を機に、報復のために襲ったということだったが、歓喜の裏側にひそんでいた悲劇だったとしかいいようがない。この他にもこうした旧軍属の家にまで押しかけていって悲しいできごとが発生したということを、当時聞いたが、私自身が見たことはなかった。しかも、明延でのことで、生野の収容所管轄内ではこうした暗いできごとは起きていなかった。
生野でも終戦直後のころは日本人労務者との間に多少のトラブルはあったようだ。しかし、数日も経ずして、そんな空気もなくなり、ノンビリと秩序正しい治安が収容所の内外で保たていた。ただ制服組、旧軍人は収容所の最高責任者以外は全員、どこかへいち早く姿を消し、一人も見なかったのは不思議だった。あとになって聞くところでは、生野町内の駅付近の旅館に集団で身をひそめていたという。敗者と勝者の入れかわりを目のあたりして、こんな風景は本当に物悲しく感じられたが、歴史の常。致し方ないことだったろう。
もっとも、飛行機から投下された救援品のチョコレートやガム、タバコなどを持って、かつて一緒に働いた日本人労務者の家を訪ね、友好を深める捕虜の話もよく聞かされた。
勝者に変身して得た歓喜、敗者となって身をひそめ、あるいは逆襲されてあえぐ悲惨さ。その昔、教科書で習った東西の古代戦史を現実に見聞、体験した思いだった。「歴史は繰り返す」しかし、こんな悲劇はもう二度とごめんだ。
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第二章 サヨウナラ、捕虜諸君 その1
〝捕虜″と付き合い始めてさまざまな体験をした。私にとっては驚くことばかりの連続だった気がする。あの戦時下、わが本土で、〝鬼畜米英″をモットーに一億の民が戦争一本の体制を敷いて頑張っている最中、私を彼らと交流させることになった経験はまさに貴重な 「異文化体験」だった。ある意味では視野が国際的に広がり、別の視点からは強者と弱者の双方の実体験を通じ、人間の本質を垣間、見て知ることができた。彼らとの出会いは私の人生観に大きな楔(くさび)を打ち込んでくれたと思っている。大げさな言い方をすれば、私の生い立ちというか、生活環境の屈折した中で一本筋の通った指標の一つを与えてくれたとも思う、きょうこの頃である。
その捕虜たちと別れの日がやってきた。終戦の二十年 (一九四五) 十月初旬だった。彼らは解放され、帰国できる日を首を長くして待っていたのだ。詳細はわからないが、日本占領軍総指令部 (GHQ) からの指示で全国に散らばっていた捕虜収容所の捕虜たちが、日時を設定して特定の場所に集合、待望の帰還への道を辿ることになったのだろう。
その一週間前だった。三菱鉱業生野鉱業所長らが主催する 「収容者激励お別れパーティー」が同鉱業所の集会ホールで開かれた。同鉱業所の所長や幹部、生野警察署幹部、それに生野町役場幹部らが参加、捕虜側は最高責任者、アメリカ陸軍のフリニオ中佐 (FLINIAU) らアメリカ、イギリス、オーストラリア各軍の上級将校代表が招かれた。通訳として私も同席した。
お別れパーティーは本当になごやかだった。形式通り主催者代表が 「長い間、辛い異国の管理下の中で貴重な労務を休むことなく提供していただき、生産に協力下さったことを心から感謝します。おかげで大きな事故もなく、終戦を迎えたことはご同慶の至りです。この終戦で新しい歴史がスタートしたというフレッシュな気持ちを胸に新たな関係めざして私たちも懸命に努力します。どうぞ、おからだに留意され、新しい日本の進路を暖かく見守り、指導されることを望みます。いつまでもお元気でー」と長い間の労苦をねぎらい、謝辞を述べた。
彼らを代表してフリニオ中佐は「お世話になりました。確かに囚われの身はあらゆる面で不自由だったが、そうした中でも心やさしい日本人も少くなく、その人たちのおかげで明日に生きる希望をつないできた。敗者と勝者はいつの世でも隣り合わせで存在しており、神は善意ある者にはいつも味方されている。本日の心暖まるご招待は、これから母国に帰還する私たちの心にいつまでもすばらしい人間関係の一つとして残ることでしょう。新しい関係の絆づくりの貴重な二石になるものと確信し、日本の皆さん方の幸福を心から祈っています」と答礼の弁。
昨日の敵は今日の友-双方の心こもったことばは、出席者全員に大きな感銘を与えたようで、いつまでも感激の拍手は鳴り止まなかった。通訳をした私も感激した。二人のことばは、いま思い出すままに概略を記したものだが、あの時、あの現場では、まだ厳粛で、感傷的にさえなるような印象だった。
すき焼きパーティーが始った。あの肉不足の時代に、どこからどうやって仕入れたのか最高級の牛肉が大量に運び込まれ、日本酒とビールでエールの交歓が幾度となく行われた。和気あいあいのムードの中で時が経つにつれ、みんなが打ちとけてきた。大きな笑い声、拍手、ことばが、くつたくのない空気をかもし出していた。
収容所生活の苦しさが飛び出すかと思えば、故郷アメリカに待つ美しい妻やかわいいこどもの話、フィリピンの地での激戦のエピソードや買い出しに出て日本人と接触し、最初は外国人を見て驚き、最後には人なつっこく、親切にしてもらったこと、ノンビリした田舎の風景はアメリカの故郷でも同じで「結局、人間、国は違っても、この地球ではすべて同じ。お互いに頑張って生き抜こう」ということに落ち着いた。私も通訳として半分、食べかけてはそうした話の輪の中に呼び込まれ、また席にもどって残りを食べ、飲むといったぐあいだった。
約二時間のパーティーは予想外の成果があった。本当になごやかにリラックスした雰囲気に包まれ、お互い、飲むにつれ、食べるにつれて本音でよく話し、貴重な意見交換の場ともなったようだった。相互にあらためて見直した点も多かったと思う。私は普段から彼ら捕虜とつき合っているのでお互いに気心がわかっていた。だが、招待をした主催者側にしても、招待された捕虜側にしても初対面だったので、初めのうちは礼を失しないようにと緊張の面持ちだった。が、時が経つにつれ心がほぐれ、談笑の声は大きくなっていった。「日本式パーティー、酒の交歓も始めてだったが、あんなに打ちとけて話す場になるとは予想できなかった。民族文化の違いもこうして克服できるんだと、本当に勉強になった」とはフリニオ中佐のことばだったことを思い出す。
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第三章 贈られた友情の「身分保証文」・その1
約一年半にわたる捕虜たちとの生活は、私のかけがえのない人生航路の岐路に、大きな一石を投じることになった。それも明るい未来を示唆する〝開運の一石〟となったのだから、いま考えるとあの時代の彼らとの〝交流″は幸運の女神に導かれたものだったと確信している。
一民間人として働いた私に彼らは、日本降伏後の占領軍の統治下でのいばらの道を予測していわば「身分保証書」ともいうべき、親愛あふれる〝親書〟をしたためてプレゼントしてくれたのである。この親書がのちにいかに重要な役割を果たし、私の身分を保証してくれたかについては、別の項目で披露しよう。
日本が無条件降伏した終戦の日から五日目、八月二十日の午後だった。捕虜収容所生野分所の事務室に私は一人でいた。解放された捕虜たちの最高責任者となったアメリカ陸軍のフリニオ中佐(FLANKLIN・M・FLINIAU)が突然、私のデスクへやってきて一通の手紙を置き「きっと何かの時に役立つと思う。占領軍との関連で必要なときにこの手紙を利用してくれ」と固い握手をした。とっさのことで私には何のことか十分、理解できぬまま、この手紙を読んだが、彼の友情に感激した。
「関係各位殿、大阪捕虜収容所生野分所の通訳、小林一雄氏を紹介します。小林氏は収容所の通訳として捕虜全員に実に献身的に協力してくれました。彼なくしては多くのことを確実に円満に遂行することはできなかったと信じています。ひとえに小林氏のおかげだったことを強調いたします。
例えば、その一例として小林氏は、私たちが捕虜生活時代にもっとも必要としていた医薬品などを、彼自身のお金で買い求めプレゼントしてくれました。また、その日その日の必要なニュースも聞かせてくれ、私たちの士気を高める重要な力となりました。
そのうえ、小林氏は通訳としての英語知識はもちろん、われわれアメリカ人の取り扱いについても信用のおけるものでした。小林氏にいろいろな厚遇を与えて下さるなら、彼と知りあったすべての浦虜の喜びはこれにまさるものではありません。
一九四五年八月二十日」という文面だった。
捕虜の中でもとくに親しかった最高責任者の彼から、しかも勝者の立場に変わった彼からそのとたんにこんな信望と親愛の情をこめた手紙をプレゼントされるとは、夢にも思わなかった嬉しいと同時に感激した。「ありがとう」思わず出たこのことば。私は彼と固く手を握り合って「意識してあなたのいうような行為をしたわけではなかったのに…これを友情だとつくづく思います。本当に感謝します。いつまでも宝として所持し、あなたの真実の心を私の心の中に暖めて生きつづけます」とお礼のことばを述べた。
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Ikuno,Japan August20,1945
TO WHOM IT MAY CONCERN:
This is to introduce Mr.Kobayashi,Our Interpreter of the Ikuno Prisoner of War Camp.
Mr. Kobayashi cooperated with all prisoners of war,and it was through his cooperation that we were able to accomplish many things which would have been impossible without him.
Mr. Kobayashi purchased with his own money medicines, in which we were in dire need of. He also kept us abreast of the news day by day thus keeping the morale of the men high.
Mr. Kobayashi’s knowledge of English and the ways of the American people is a credit to him as an interpreter.
Any courtesies that may be extended to Mr. Kobayashi will be greatly appreciated by all prisoners who have come in contact with him.
F.M.FLINIAU
Lt.Col.,Cavalry
0-30263
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第三章 贈られた友情の「身分保証文」・その2
フリニオ中佐からこんなありがたい手紙をプレゼントされて数日後、こんどは日本軍側との連絡将校として多奈川、生野両収容所で暮らしたアメリカ陸軍のガルブレイス大尉(JOHN・M・GALBRAITH)から、同じく手書きの次のような手紙を直接、受け取った。
「関係各位殿、親愛なる通訳、小林一雄氏を紹介します。小林氏は多奈川、生野両捕虜収容所を通じ、紳士的に振舞い、われわれアメリカ兵捕虜の心を体して行動してくれました。彼のおかげで心も和み、明日への希望をつなぎながら今日を迎えることができました。
あの制約された環境の中で、最大限の誠意ある行為でわれわれに接してくれた小林氏こそ、こんごあらゆる面で厚遇を与えられるべき人だと信じます。彼と接したすべてのアメリカ人捕虜は、彼の心やさしい行動に本当に感謝していることを明らかにしたいと思います」
この手紙を私に手渡した彼は「もし何かハプニングがあった場合は必ずこの手紙を見せなさい。きっと役に立つから…」と強調したことを覚えている。「感謝します。ありがとう。皆さん方、掃虜だった人びとのこの心を永久に忘れません」と私は、彼の手を固く握りしめた。
終戦から二年も経った二十二年(一九四七)一月十三日には、さらにびっくりするようなできごとがあった。かって多奈川収容所で生活し、私とも親しかったアメリカ陸軍のA・W・フォーブス大尉(ALFRED・W・FOBES)が、すでに日本占領アメリカ軍キャンプで通訳として勤務していた私を訪ねてきたのである。しかもいったん本国に帰国したあと、こんどは占領軍総司令部(GHQ)大阪司令部の法務局勤務将校としての来日だったのだから、びっくりさせられたのは当然だろう。
その彼が私を探し求めて訪ねてきた。そのさい、また〝友情と親愛のこもった手紙″を持参して私に手渡したのには、さらに驚かされた。
「関係各位殿 私は一九四四年七月一日から一九四五年三月二十七日まで多奈川捕虜収容所で生活し、通訳をしていた小林一雄氏と知り合いました。その間、小林氏はわれわれ捕虜にすばらしいマナーで接してくれました。とくに捕虜の福利厚生面には特別配慮し、気をつかってくれました。それはわれわれに多大の恩恵を与えてくれたものです。
彼の通訳としての知識。すばらしい能力のおかげで不利な立場にあった数多くの捕虜が救われました。つまり多くの捕虜が収容所の他の日本人職員から何らかの方法で大なり小なり殴られたり、処罰され、いじめられることのないよう、彼はその心やさしい行為で助けてくれたのです。このことは全捕虜が周知の事実です。
小林氏こそ、こんご配慮ある厚遇が与えられるに値いする人物であると信じます。この点を考慮し、十分な配慮が彼に与えられるようお願いします」これがその内容だった。
フォーブス大尉は、連合軍総司令部の指示で法務局員として日本人の戦犯調査を専門に担当しており、結局、私はこの彼の来訪によってとくに請われて彼の通訳として約十日間、旧捕虜収容所を中心に関係者を巡回したのである。いずれにしろ、捕虜収容所時代に彼が私を、この手紙にあるようにみていてくれたことを心から感謝した。あの時代からの異邦の親友の一人として尊敬している。
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GENERAL HEADQUARTERS
SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS
OSAKA BRANCH
13January1947
TO WHOM IT MAY CONCERN:
I,Alfred W・Fobes・0-459670・Captain,U・S・ARMY,and a former POW for 3 and half years acquanted with Kazuo KOBAYASHI whow as an interpreter in the Tanagawa Prisoner of War Camp at Tanagawa, Japan from July l,1944 until March27,1945.
During the period that KOBAYASHI was interpreter in the above camp he conducted himself in an excellent manner and took an exceptional interest in the welfare of the Prisoners of War there. By reason of his intelligence and his ability to be tactful it was Well known by the prisoners that on many occasions he was able to save them from being beaten up and punished in other ways by other Japanese officials in camp.
I sincerly believe that Kazuo KOBAYASHI is worthy of any consideration that can be given him.
ALFREDW.FOBES
Capt.U.S.ARMY