捕虜と通訳 (小林 一雄) (45)
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編集者
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戦後編
第一章
解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その1
昭和二十年(一九四五)八月十五日は、捕虜たちにとって文字通り〝解放の日″だった。〝歓喜の日″だった。
敵国・日本軍の銃剣による監視の下に有刺鉄線の囲いの中で、不自由な抑留生活をつづけてきた彼らにとって、自国が勝利しての終戦だっただけに、この歓びは当然のことだ。戦争の勝敗だけにこだわって考えれば、日清《日本と清国との戦争》、日露《1904年日本とロシアの戦争》、の戦役から日中戦争《1937年日本の中国侵略による 太平洋戦争に発展》、まで〝敗戦″を知らない、いわば純粋培養の日本人にとっては逆に大きなショックだったことは否めない。それまでたたき込まれてきた軍国・日本の一糸乱れぬ愛国魂、徹底抗戦の精神が日本全土を覆っていただけに、この終戦を驚かないのが不思議だった。それだけにあらゆる面でショックの大きさも異常だった。
まあ、それはともかく、八月十五日の終戦を知った彼ら捕虜たちの歓びようは大変なものだった。日本流にいえば、キャンプ中が 「バンザーイ」 のるつぼに埋もれ、とくに下士官以下の兵舎はドンチャン騒ぎのありさまだった。収容所内の指揮権も日本軍から譲り渡され、自由な空気が日一日と充満してきた。ある者は食糧倉庫から缶詰食を持ち出し、タバコ類などの嗜好品《しこうひん》、もありったけ持ち出して、歓びのパーティーや団らんがそこかしこで開かれた。イギリス、アメリカ、オーストラリアそれぞれの国別に歌や踊りやディナー・パーティーに明け暮れていた。
ただ、将校たちは、いち早く秩序維持のための独自の指令を各国別に出し、収容所内での規律ある生活と所外への外出を整然と行うことに注意していた。捕虜への日本側からの敵対行為の防止と、捕虜の無秩序な行動が地元住民に危害などを加えることのないよう配慮しての、素早い行動だったようだ。
こうした捕虜側の動きに対し、日本側も、警察力を動員して地元民の浅はかな行動が、双方の秩序を乱さないよう留意。また町役場などの官公署も送電や燃料補給をいままで通り収容所に行えるように配慮を欠かさなかった。
こうした彼我の秩序を配慮した行動で、少なくとも収容所内ではドンチャン騒ぎの歓びの割りには整然とした管理が実施され、比較的、厳正な秩序が守られていた。
私自身も、終戦の当日、日本軍関係者がいち早く見えなくなり、不安を感じ、数日後に収容所へ行くことの不安から、親しいアメリカ側の将校に「これ以上、勤務できない」と打ち明けた。しかし将校団から「君がいなくなると日本側との連絡もスムーズに行えなくなるので、ぜひとも残ってくれ。いままで通りの友情でわれわれも接するので、君もそのつもりで安心して協力してほしい」と逆に慰留され、そのまま、彼らが収容所を離れるまで〝お墨つき勤務〟をつづけた。終戦後、この生野収容所に勤務する日本側の職員は私のほか、三菱鉱業生野鉱業所勤労部の連絡員ら三人だけだった。特別にすることもなく、捕虜と雑談するだけの毎日だった。
第一章
解放の日-興奮にゆらぐ歓喜の鉄条網・その1
昭和二十年(一九四五)八月十五日は、捕虜たちにとって文字通り〝解放の日″だった。〝歓喜の日″だった。
敵国・日本軍の銃剣による監視の下に有刺鉄線の囲いの中で、不自由な抑留生活をつづけてきた彼らにとって、自国が勝利しての終戦だっただけに、この歓びは当然のことだ。戦争の勝敗だけにこだわって考えれば、日清《日本と清国との戦争》、日露《1904年日本とロシアの戦争》、の戦役から日中戦争《1937年日本の中国侵略による 太平洋戦争に発展》、まで〝敗戦″を知らない、いわば純粋培養の日本人にとっては逆に大きなショックだったことは否めない。それまでたたき込まれてきた軍国・日本の一糸乱れぬ愛国魂、徹底抗戦の精神が日本全土を覆っていただけに、この終戦を驚かないのが不思議だった。それだけにあらゆる面でショックの大きさも異常だった。
まあ、それはともかく、八月十五日の終戦を知った彼ら捕虜たちの歓びようは大変なものだった。日本流にいえば、キャンプ中が 「バンザーイ」 のるつぼに埋もれ、とくに下士官以下の兵舎はドンチャン騒ぎのありさまだった。収容所内の指揮権も日本軍から譲り渡され、自由な空気が日一日と充満してきた。ある者は食糧倉庫から缶詰食を持ち出し、タバコ類などの嗜好品《しこうひん》、もありったけ持ち出して、歓びのパーティーや団らんがそこかしこで開かれた。イギリス、アメリカ、オーストラリアそれぞれの国別に歌や踊りやディナー・パーティーに明け暮れていた。
ただ、将校たちは、いち早く秩序維持のための独自の指令を各国別に出し、収容所内での規律ある生活と所外への外出を整然と行うことに注意していた。捕虜への日本側からの敵対行為の防止と、捕虜の無秩序な行動が地元住民に危害などを加えることのないよう配慮しての、素早い行動だったようだ。
こうした捕虜側の動きに対し、日本側も、警察力を動員して地元民の浅はかな行動が、双方の秩序を乱さないよう留意。また町役場などの官公署も送電や燃料補給をいままで通り収容所に行えるように配慮を欠かさなかった。
こうした彼我の秩序を配慮した行動で、少なくとも収容所内ではドンチャン騒ぎの歓びの割りには整然とした管理が実施され、比較的、厳正な秩序が守られていた。
私自身も、終戦の当日、日本軍関係者がいち早く見えなくなり、不安を感じ、数日後に収容所へ行くことの不安から、親しいアメリカ側の将校に「これ以上、勤務できない」と打ち明けた。しかし将校団から「君がいなくなると日本側との連絡もスムーズに行えなくなるので、ぜひとも残ってくれ。いままで通りの友情でわれわれも接するので、君もそのつもりで安心して協力してほしい」と逆に慰留され、そのまま、彼らが収容所を離れるまで〝お墨つき勤務〟をつづけた。終戦後、この生野収容所に勤務する日本側の職員は私のほか、三菱鉱業生野鉱業所勤労部の連絡員ら三人だけだった。特別にすることもなく、捕虜と雑談するだけの毎日だった。