捕虜と通訳 (小林 一雄) (43)
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編集者
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第十二章
終戦・厳粛に行われた指揮権移譲
- 買い出しの帰りに捕虜と聞いた玉音・その1
「終戦の日、私はどこで、どうしていたのだろう?」太平洋戦争の体験者は、誰もがこう自分自身に問いかけるひとときがあるのではなかろうか。
八月十五日。この日、私自身は、捕虜の将校や炊事担当兵士を連れて隣りの町へ大八車を押し、野菜や日用品の買い出しに出かけていた。朝からである。いつも買いつけの農家や雑貨店をまわり、大八車に山ほどの品々を積んで、帰途についた。田舎道ではノンビリ、故郷の民謡を口ずさみ、それに歩調をあわせて手拍子をとりながら歩く捕虜たち。いつもながらの風景である。町に入っても田舎町のこと、ノンビリした風景。行き交う人びとの顔も、いまでは異邦の捕虜たちを別に不可思議とも思わず、逆に 「ハロー」と声をかける姿もみられた。捕虜たちもすかさず「ハロー」と答え、笑顔の交歓が行われた。大阪にいる時のように、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴るでもなく。たまにはるか上空をアメリカ空軍のB29機が通過しても爆弾を落とすわけでもなく…本当に〝空白の戦場地″とでもいえるのどかな地域だった。
隣りの町の駅前まで来たときだった。正午だった。たしか、駅の構内から外にかけて人だかりがしていた。みんな物静かに突っ立っている。アナウンサーの声が 「天皇の放送」を告げていた。その声が駅舎内からハッキリ聞こえる。いま思い出すと、その駅舎のラジオの音声を告知マイクに接続させ、大きな音にして一般市民や利用者に聞かせていたのだ。駅長のはからいだったのだろう。そして天皇の声が響いてきた。しかし何を発言しておられるのか、ハッキリ聞きとれなかった。そのうち、ガーガーという雑音が玉音《=天皇の声》をかき消し、やがて元に回復して天皇の声が響くというぐあいだった。「ポツダム宣言を受諾…」「忍び難きを忍び…」断片的なことばしか聞きとれない。しかし全体の天皇のご発言の雰囲気から「戦争中止」を決定された内容であることはつかめた。それでも半信半疑の私。当然だろう。当時、どんな窮地にあっても敵に屈服するというようなことは、到底、考えられない、というのが日本人のほぼ全員の思いだったハズだから。
そのうち、へナへナ…と地べたに坐《すわ》り込む壮年の人の姿。目に涙を浮かべ空を仰ぐ人、こぶLを握りしめながら隣りの人とヒソヒソ話をして、怒り顔もあらわにその場を離れる人…さまざまだった。その姿には「負けたんやろうかなあ」という疑心暗鬼と、十分に理解できなかったことへの不満、それでいて戦局の不利は避けられないとする、歯ぎしりするような感情がにじみ出ていたようだった。それぞれの思いが人びとの輪の中から伝わってくるようだった。
私自身は「日本が負けた」とハッキリ意識できた、といまでも当時のことを思い出す。しかし、ラジオ放送だけの内容だから、それを捕虜に伝えることもできず、いや、むしろ伝えるのは軍の命令違反になるとさえ考えた。何くわぬ表情で、休息中の捕虜とともに再び大八車を引きながら収容所へと向かって歩きはじめた。
駅舎を離れてしばらくし三人の捕虜将校が「ノンビリした田舎に似合わず、あの駅ではみんな緊張し、異常な顔つきだったですね」と私に話しかけてきた。そして彼はニコッと笑い、私にウィンクするではないか。私がとっさに何かいおうとすると、彼は人さし指を自分の口に当てて、もう一度ウィンク。何もなかったように大八車を押して歩いて行く。他の捕虜たちも、何かしら生き生きとしてよくしゃべり、笑っているように私には思えた。
「終戦-日本の敗北-彼ら捕虜の勝利を、駅のあの風景から察知したのだろうか?」だが、大八車を押して収容所に帰る姿からはそんなようすは、みじんもうかがえなかった。しいていえば、普段より明るい表情だったように思えたことだけである。捕虜たちにはすでに「日本の敗北」情報が、ピーンと脳裏に焼きついたことは事実だったのだが。
終戦・厳粛に行われた指揮権移譲
- 買い出しの帰りに捕虜と聞いた玉音・その1
「終戦の日、私はどこで、どうしていたのだろう?」太平洋戦争の体験者は、誰もがこう自分自身に問いかけるひとときがあるのではなかろうか。
八月十五日。この日、私自身は、捕虜の将校や炊事担当兵士を連れて隣りの町へ大八車を押し、野菜や日用品の買い出しに出かけていた。朝からである。いつも買いつけの農家や雑貨店をまわり、大八車に山ほどの品々を積んで、帰途についた。田舎道ではノンビリ、故郷の民謡を口ずさみ、それに歩調をあわせて手拍子をとりながら歩く捕虜たち。いつもながらの風景である。町に入っても田舎町のこと、ノンビリした風景。行き交う人びとの顔も、いまでは異邦の捕虜たちを別に不可思議とも思わず、逆に 「ハロー」と声をかける姿もみられた。捕虜たちもすかさず「ハロー」と答え、笑顔の交歓が行われた。大阪にいる時のように、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴るでもなく。たまにはるか上空をアメリカ空軍のB29機が通過しても爆弾を落とすわけでもなく…本当に〝空白の戦場地″とでもいえるのどかな地域だった。
隣りの町の駅前まで来たときだった。正午だった。たしか、駅の構内から外にかけて人だかりがしていた。みんな物静かに突っ立っている。アナウンサーの声が 「天皇の放送」を告げていた。その声が駅舎内からハッキリ聞こえる。いま思い出すと、その駅舎のラジオの音声を告知マイクに接続させ、大きな音にして一般市民や利用者に聞かせていたのだ。駅長のはからいだったのだろう。そして天皇の声が響いてきた。しかし何を発言しておられるのか、ハッキリ聞きとれなかった。そのうち、ガーガーという雑音が玉音《=天皇の声》をかき消し、やがて元に回復して天皇の声が響くというぐあいだった。「ポツダム宣言を受諾…」「忍び難きを忍び…」断片的なことばしか聞きとれない。しかし全体の天皇のご発言の雰囲気から「戦争中止」を決定された内容であることはつかめた。それでも半信半疑の私。当然だろう。当時、どんな窮地にあっても敵に屈服するというようなことは、到底、考えられない、というのが日本人のほぼ全員の思いだったハズだから。
そのうち、へナへナ…と地べたに坐《すわ》り込む壮年の人の姿。目に涙を浮かべ空を仰ぐ人、こぶLを握りしめながら隣りの人とヒソヒソ話をして、怒り顔もあらわにその場を離れる人…さまざまだった。その姿には「負けたんやろうかなあ」という疑心暗鬼と、十分に理解できなかったことへの不満、それでいて戦局の不利は避けられないとする、歯ぎしりするような感情がにじみ出ていたようだった。それぞれの思いが人びとの輪の中から伝わってくるようだった。
私自身は「日本が負けた」とハッキリ意識できた、といまでも当時のことを思い出す。しかし、ラジオ放送だけの内容だから、それを捕虜に伝えることもできず、いや、むしろ伝えるのは軍の命令違反になるとさえ考えた。何くわぬ表情で、休息中の捕虜とともに再び大八車を引きながら収容所へと向かって歩きはじめた。
駅舎を離れてしばらくし三人の捕虜将校が「ノンビリした田舎に似合わず、あの駅ではみんな緊張し、異常な顔つきだったですね」と私に話しかけてきた。そして彼はニコッと笑い、私にウィンクするではないか。私がとっさに何かいおうとすると、彼は人さし指を自分の口に当てて、もう一度ウィンク。何もなかったように大八車を押して歩いて行く。他の捕虜たちも、何かしら生き生きとしてよくしゃべり、笑っているように私には思えた。
「終戦-日本の敗北-彼ら捕虜の勝利を、駅のあの風景から察知したのだろうか?」だが、大八車を押して収容所に帰る姿からはそんなようすは、みじんもうかがえなかった。しいていえば、普段より明るい表情だったように思えたことだけである。捕虜たちにはすでに「日本の敗北」情報が、ピーンと脳裏に焼きついたことは事実だったのだが。