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捕虜と通訳 (小林 一雄) (48)

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通常 捕虜と通訳 (小林 一雄) (48)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2008/3/7 8:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 第二章 サヨウナラ、捕虜諸君 その1

 〝捕虜″と付き合い始めてさまざまな体験をした。私にとっては驚くことばかりの連続だった気がする。あの戦時下、わが本土で、〝鬼畜米英″をモットーに一億の民が戦争一本の体制を敷いて頑張っている最中、私を彼らと交流させることになった経験はまさに貴重な 「異文化体験」だった。ある意味では視野が国際的に広がり、別の視点からは強者と弱者の双方の実体験を通じ、人間の本質を垣間、見て知ることができた。彼らとの出会いは私の人生観に大きな楔(くさび)を打ち込んでくれたと思っている。大げさな言い方をすれば、私の生い立ちというか、生活環境の屈折した中で一本筋の通った指標の一つを与えてくれたとも思う、きょうこの頃である。
 その捕虜たちと別れの日がやってきた。終戦の二十年 (一九四五) 十月初旬だった。彼らは解放され、帰国できる日を首を長くして待っていたのだ。詳細はわからないが、日本占領軍総指令部 (GHQ) からの指示で全国に散らばっていた捕虜収容所の捕虜たちが、日時を設定して特定の場所に集合、待望の帰還への道を辿ることになったのだろう。
 その一週間前だった。三菱鉱業生野鉱業所長らが主催する 「収容者激励お別れパーティー」が同鉱業所の集会ホールで開かれた。同鉱業所の所長や幹部、生野警察署幹部、それに生野町役場幹部らが参加、捕虜側は最高責任者、アメリカ陸軍のフリニオ中佐 (FLINIAU) らアメリカ、イギリス、オーストラリア各軍の上級将校代表が招かれた。通訳として私も同席した。
 お別れパーティーは本当になごやかだった。形式通り主催者代表が 「長い間、辛い異国の管理下の中で貴重な労務を休むことなく提供していただき、生産に協力下さったことを心から感謝します。おかげで大きな事故もなく、終戦を迎えたことはご同慶の至りです。この終戦で新しい歴史がスタートしたというフレッシュな気持ちを胸に新たな関係めざして私たちも懸命に努力します。どうぞ、おからだに留意され、新しい日本の進路を暖かく見守り、指導されることを望みます。いつまでもお元気でー」と長い間の労苦をねぎらい、謝辞を述べた。
 彼らを代表してフリニオ中佐は「お世話になりました。確かに囚われの身はあらゆる面で不自由だったが、そうした中でも心やさしい日本人も少くなく、その人たちのおかげで明日に生きる希望をつないできた。敗者と勝者はいつの世でも隣り合わせで存在しており、神は善意ある者にはいつも味方されている。本日の心暖まるご招待は、これから母国に帰還する私たちの心にいつまでもすばらしい人間関係の一つとして残ることでしょう。新しい関係の絆づくりの貴重な二石になるものと確信し、日本の皆さん方の幸福を心から祈っています」と答礼の弁。
昨日の敵は今日の友-双方の心こもったことばは、出席者全員に大きな感銘を与えたようで、いつまでも感激の拍手は鳴り止まなかった。通訳をした私も感激した。二人のことばは、いま思い出すままに概略を記したものだが、あの時、あの現場では、まだ厳粛で、感傷的にさえなるような印象だった。

 すき焼きパーティーが始った。あの肉不足の時代に、どこからどうやって仕入れたのか最高級の牛肉が大量に運び込まれ、日本酒とビールでエールの交歓が幾度となく行われた。和気あいあいのムードの中で時が経つにつれ、みんなが打ちとけてきた。大きな笑い声、拍手、ことばが、くつたくのない空気をかもし出していた。
 収容所生活の苦しさが飛び出すかと思えば、故郷アメリカに待つ美しい妻やかわいいこどもの話、フィリピンの地での激戦のエピソードや買い出しに出て日本人と接触し、最初は外国人を見て驚き、最後には人なつっこく、親切にしてもらったこと、ノンビリした田舎の風景はアメリカの故郷でも同じで「結局、人間、国は違っても、この地球ではすべて同じ。お互いに頑張って生き抜こう」ということに落ち着いた。私も通訳として半分、食べかけてはそうした話の輪の中に呼び込まれ、また席にもどって残りを食べ、飲むといったぐあいだった。
 約二時間のパーティーは予想外の成果があった。本当になごやかにリラックスした雰囲気に包まれ、お互い、飲むにつれ、食べるにつれて本音でよく話し、貴重な意見交換の場ともなったようだった。相互にあらためて見直した点も多かったと思う。私は普段から彼ら捕虜とつき合っているのでお互いに気心がわかっていた。だが、招待をした主催者側にしても、招待された捕虜側にしても初対面だったので、初めのうちは礼を失しないようにと緊張の面持ちだった。が、時が経つにつれ心がほぐれ、談笑の声は大きくなっていった。「日本式パーティー、酒の交歓も始めてだったが、あんなに打ちとけて話す場になるとは予想できなかった。民族文化の違いもこうして克服できるんだと、本当に勉強になった」とはフリニオ中佐のことばだったことを思い出す。

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