捕虜と通訳 (小林 一雄) (42)
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編集者
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労働する捕虜群像-勤労動員生徒の思い出・その2
十九年の後半に入ると、日本の上空にアメリカ空軍機が侵入してくるようになった。そうしたある日の午後、この工場でも警戒警報のサイレンが長く鳴り響いた。みんな退避しなければならない。防空壕や物かげに列を組んでかくれたが、どうしたことか捕虜は一人として動こうとしない。逆にはるか彼方の上空にいるハズの、まだ見えないアメリカ軍機に手を振る者もいる。警報が解除されるといっせいにⅤサインして大声で笑っている。これには日本人の監督もどうすることもできず「作業始めー」と大声で指示するのが精いっぱいだったようだ。空襲警報にしろ、警戒警報にしろ、警報が発令され解除されたあとまで、彼らはいちように明るい表情が目立った。友軍機の飛来が日本本土に迫った戦争状態を知り、勇気づけられたのだろうか。
逆にこうした姿を見た工場に働く日本人は「絶対に負けるもんか」と反発していたようだ。「私も捕虜のそんな姿を見て、その時は負けるものかと心で叫んだものです」と中尾さんは力をこめた。
彼らは毎日、きまった時間に、きまったコースで捕虜収容所と工場の間を集団で往復していた。中尾さんら動員学生も、工員も、同じように通勤していたので、時間が同じ場合には彼らの集団通勤風景をよく見かけた。隊列を組み、といってもその姿はトボトボといった歩き方。
破れかけた軍用作業服、汚れた靴、服やズボンもマチマチで、みんな伏し目がちに歩いていく。
背の高い大男集団も、まったく威厳はなく、軍人の威容は吹っ飛んで、文字通り〝囚人″集団の行進のようだった。当時はこの姿を見て「当然だ」と思った反面「可哀相…」という気持ちも湧き、「負けてはダメだ」と自分自身にいいきかせた。捕虜のあの姿を毎日、公開していたのは、日本の国威と優勢さを市民に見せつけようとする国策だったのかも知れない。「いま考えると、何とも理解できない」と、中尾さんは顔を曇らせる。
あの戦時中に兵庫県・西宮市の甲子園球場で「戦争博覧会」が催され、戦闘場面や陸軍の模擬演習を公開、戦車も並べていたのを見物した。これも時代を反映した国策ショーだったのだろう。「すばらしいと思った」と中尾さん。ところが、終戦後、アメリカ軍が進駐、和歌山方面から国道二六号線を大阪方面に北上行進する風景を見た。大きな戟車や各種重火器、車両、ジープを先頭に武装したアメリカ軍の大集団が次から次へとつづく。軍靴の音も勇しい。戦車やトラックに無雑作に腰をおろしたアメリカ兵は銃を肩にひっかけ、沿道に黒山のようにつめかけて見物する市民に手を振り、口笛を鳴らし、笑顔で去っていく。チューインガムやタバコを市民の方へ投げる。みんな、その方へ群がって動く。こどもらがそれを追いかけて拾う。「これが戦時中に見たアメリカ兵なんだろうか。戦車の大きいこと。甲子園で見た日本軍の戦車がまるでオモチヤのように思い出せた。これでは物量と技術力で負けるのは当たり前だ、と茫然《ぼうぜん》として眺めたものだ」中尾さんの思い出だ。
軍需工場で強制労働にかりたてられた無気力なアメリカ兵捕虜、占領軍として終戦後に進駐してきた堂々としたアメリカ兵の行進。まるで極端な両面映画をまざまざと一度に見せつけられたような体験者の中尾さんー「勝利した人間と敗北した人間の姿が正反対なのはわかる。明暗を彩る心理もわかる。でも、この人間の社会に、同じ太陽を見て、同じ空気を吸う同じ人間が、対立し闘争し殺し合って、結果は明暗を分ける。愚かなことといいながら繰り返してきた。
賢いと自負する人類は所詮、愚かな生物に過ぎないのか」。愚行を二度と繰り返してはならない。
十九年の後半に入ると、日本の上空にアメリカ空軍機が侵入してくるようになった。そうしたある日の午後、この工場でも警戒警報のサイレンが長く鳴り響いた。みんな退避しなければならない。防空壕や物かげに列を組んでかくれたが、どうしたことか捕虜は一人として動こうとしない。逆にはるか彼方の上空にいるハズの、まだ見えないアメリカ軍機に手を振る者もいる。警報が解除されるといっせいにⅤサインして大声で笑っている。これには日本人の監督もどうすることもできず「作業始めー」と大声で指示するのが精いっぱいだったようだ。空襲警報にしろ、警戒警報にしろ、警報が発令され解除されたあとまで、彼らはいちように明るい表情が目立った。友軍機の飛来が日本本土に迫った戦争状態を知り、勇気づけられたのだろうか。
逆にこうした姿を見た工場に働く日本人は「絶対に負けるもんか」と反発していたようだ。「私も捕虜のそんな姿を見て、その時は負けるものかと心で叫んだものです」と中尾さんは力をこめた。
彼らは毎日、きまった時間に、きまったコースで捕虜収容所と工場の間を集団で往復していた。中尾さんら動員学生も、工員も、同じように通勤していたので、時間が同じ場合には彼らの集団通勤風景をよく見かけた。隊列を組み、といってもその姿はトボトボといった歩き方。
破れかけた軍用作業服、汚れた靴、服やズボンもマチマチで、みんな伏し目がちに歩いていく。
背の高い大男集団も、まったく威厳はなく、軍人の威容は吹っ飛んで、文字通り〝囚人″集団の行進のようだった。当時はこの姿を見て「当然だ」と思った反面「可哀相…」という気持ちも湧き、「負けてはダメだ」と自分自身にいいきかせた。捕虜のあの姿を毎日、公開していたのは、日本の国威と優勢さを市民に見せつけようとする国策だったのかも知れない。「いま考えると、何とも理解できない」と、中尾さんは顔を曇らせる。
あの戦時中に兵庫県・西宮市の甲子園球場で「戦争博覧会」が催され、戦闘場面や陸軍の模擬演習を公開、戦車も並べていたのを見物した。これも時代を反映した国策ショーだったのだろう。「すばらしいと思った」と中尾さん。ところが、終戦後、アメリカ軍が進駐、和歌山方面から国道二六号線を大阪方面に北上行進する風景を見た。大きな戟車や各種重火器、車両、ジープを先頭に武装したアメリカ軍の大集団が次から次へとつづく。軍靴の音も勇しい。戦車やトラックに無雑作に腰をおろしたアメリカ兵は銃を肩にひっかけ、沿道に黒山のようにつめかけて見物する市民に手を振り、口笛を鳴らし、笑顔で去っていく。チューインガムやタバコを市民の方へ投げる。みんな、その方へ群がって動く。こどもらがそれを追いかけて拾う。「これが戦時中に見たアメリカ兵なんだろうか。戦車の大きいこと。甲子園で見た日本軍の戦車がまるでオモチヤのように思い出せた。これでは物量と技術力で負けるのは当たり前だ、と茫然《ぼうぜん》として眺めたものだ」中尾さんの思い出だ。
軍需工場で強制労働にかりたてられた無気力なアメリカ兵捕虜、占領軍として終戦後に進駐してきた堂々としたアメリカ兵の行進。まるで極端な両面映画をまざまざと一度に見せつけられたような体験者の中尾さんー「勝利した人間と敗北した人間の姿が正反対なのはわかる。明暗を彩る心理もわかる。でも、この人間の社会に、同じ太陽を見て、同じ空気を吸う同じ人間が、対立し闘争し殺し合って、結果は明暗を分ける。愚かなことといいながら繰り返してきた。
賢いと自負する人類は所詮、愚かな生物に過ぎないのか」。愚行を二度と繰り返してはならない。