兄の眠る国 4 山口周行
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編集者
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八、 戦闘の概要など
〔開戦〕
昭和十二年七月七日の支那事変の勃発、そして、昭和十六年十二月八日の米英に対する宣戦布告以来、ハワイ諸島及び東南アジアにおいて戦闘が開始されましたが、中部・西部太平洋について防御を強固にするためには、オーストラリアとアメリカとを遮断することが必要であり、オーストラリアの北東部に位置するソロモン諸島やニューギニアの占領が必要でありました。
昭和十七年一月、日本軍はニューギニアのニューブリテン島ラバウルなどを占領しました。連合国側の抵抗は殆ど見られませんでした。
〔ブナ・ギルワ地区の戦闘〕
昭和十七年三月、東部ニューギニアのラエ及びサラモアを占領し、次いでブナ付近に進出しました。東部ニューギニア「南岸」のポートモレスビーは、連合国が占領していましたが、太平洋におけるアメリカとオーストラリアの連絡線を遮断することは、戦局に大きな影響を与えると考えられていました。
海路によるポートモレスビー攻略については、五月上旬の珊瑚海の海戦を経て、六月上旬ミッドウエー海戦での敗戦により海軍力が落ちたため断念されました。ミッドウエー海戦は、順調とされた日本海軍が初めて敗れた戦いでありました。これを契機として、戦局は連合国側の優位に展開されていきました。
昭和十七年八月上旬、日本軍は陸路からポートモレスビーを攻略するため、ブナを出発し、標高二千メートル超えるオーエンスタンレー山系を進みました。
九月中旬にはポートモレスビーまで約四十キロのイオリバイワに達しましたが補給が続かないなどの理由のため、ポートモレスビー攻略作戦を変更し、ブナに撤退しました。この撤退行動中において、アメリカ軍の砲爆撃、食料の欠乏、連日のスコール等のため、多くの戦没者が出てしまいました
一方、ソロモン諸島ガダルカナル島は、日本軍が昭和十七年五月に占領し、飛行場の建設を開始しましたが、アメリカ軍の反撃は昭和十七年八月七日、ガダルカナル島上陸によって開始され、翌十八年一月まで続きました。
この戦いは日米決戦の天王山ともいうべきものでありました。これを契機に大反撃に転じたアメリカは、その後、圧倒的優勢な空軍力及び海軍機動部隊をもって、他の連合国とともにソロモン諸島から北上し、さらに西方へと「飛石」的に猛烈な反撃を加えました。
ブナ地区では、日本軍が各地において激戦を展開しましたが、海空軍に支援された優勢な連合軍の攻撃を受けて損害が続出し、遂に昭和十八年一月二十日には同地を放棄して、撤退を開始しました。
〔ラエ、サラモア付近の戦闘〕
ラエ、サラモア地区は、良港と航空基地を有し、ブナ方面撤退後の東部ニューギニア防衛の第一線でありました。昭和十八年五月頃、オーストラリア軍は、陸路サラモア地区に転進し、六月三十日にはアメリカ軍もサラモア南東のナッソウ湾に上陸しサラモアに迫りました。
その後二か月半にわたりサラモア南側の高地において、日本軍とアメリカ・ オーストラリア軍の激しい攻防戦が展開されましたが、日本軍は、九月十五日までにサラモア区の部隊を順次ラエから脱出させました。
〔フインシュハーフェン地区の戦闘〕
連合軍は、ラエ占領後、殆ど間髪をいれずに、昭和十八年九月二十二日フインシュハーフェン北側に上陸を開始しました。十月から十二月中旬までフイシュハーフェン地区の戦闘が繰り返されました。
〔マダン地区の戦闘〕
マダン地区は、昭和十八年三月から十九年三月まで第十八軍司令部が置かれ、東部ニューギニア作戦の指揮中枢的位置にありました。オーストラリア軍は、空輸によりラエからマダンに前進し、アメリカ軍は、昭和十九年一月二日 サイドルに上陸してきました。昭和十九年三月、日本軍主力の西方転身に伴ってマダンは放棄されました。
〔アイタペ及びウエワク方面の戦闘〕
ウエワクは、後方兵站の最大の拠点としてラバウルと並ぶ最重要基地となっていましたが、昭和十九年三月上旬、東部ニューギニアの北方にあるアドミラルテイ諸島が攻め落とされ、ラバウルとの作戦的関係を分断されたため、第十八軍の主力はウエワクから、さらに西方に転用されることになりました。
日本軍は、東部ニューギニアの要衝に兵力を増強し、態勢の挽回を図るが、 連合軍は周到な準備と海陸支援の下に、要地を飛石的に奪取する作戦をとりました。このため、日本軍はブナ地区からの撤退に始まり、ラエ・フインシュハーフエン・マダン・アイタペ・ホーランジヤの各地において死闘を繰り返したのであります。
アメリカ軍は、昭和十九年四月二十二日、ウエワクの北西のホーランジア及びアイタベに上陸、占領しました。昭和十九年七月十日、遂に連合軍に攻略されたため、残存兵力を集結してアイタペ東方二十四キロのドリニューモール河の西岸において連合軍陣地を攻撃しましたが連合軍の逆襲により損害が続出し、同年八月四日作戦を中止し、ウエワク・ブーツを中核とする態勢に移りました。
昭和十九年十二月頃、アメリカ軍と交替したオーストラリア軍は、アイタペ方面から攻撃を開始したため、ウエワク・ボイキンなどの各地で激戦が展開され、日本軍は南方のアレキサンダー山系に潜り込み、「山南邀撃作戦」と呼ばれる、敵を迎え撃つ作戦に入りました。
このような激戦は、一日の間断なく翌二十年八月の終戦まで続きましたが、同年九月十三日第十八軍の安達二十三司令官(中将)は、ウエワクにて降伏文 書に署名しました。
〔戦没者数〕
東部ニューギニアにおける日本軍の戦没者は、陸軍約十万八千人、海軍約六千五百人で、近海などの船舶沈没による戦没者を加え約十二万七千人となりました。これらの戦没者は戦闘により戦死した人のほか未踏のジャングルや三千から四千メートルの峻嶮な山岳を進攻及び撤退の作戦行動、加えて、補給途絶による極度の弾薬・食料の欠乏とマラリア・赤痢などの風土病により死没した人でありました。(厚生労働省社会援護局発行「東部ニューギニア慰霊巡拝の しおり」に準拠)