兄の眠る国 5 山口周行
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兄の眠る国 山口周行 (編集者, 2010/5/30 9:16)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
九、 ブナ地区での慰霊
巡拝の第一歩は、十一月四日、奇しくも戦闘概要で最初に登場するブナ地区で始まりました。
先ずポートモレスビーからポポンデッタへ飛びました。三十五分ほどでポポンデッタ空港です。こじんまりとした国内線の空港のようです。そこに一台のバス?とてもバスと言えるものではない。いすずの可成り年代物のトラックである。荷台に二枚の分厚い木の板が縦に置いてある荷物車だ。その板の上に向き合って座った荷物が私たちなのです。班員十七名、職員等四名とガードマン四名の計二五名が乗り込んだ。
運転席横には、日章旗が取り付けられています。異国で見る国旗は感慨も一入です。頭の上には幌が付いていて、有蓋トラックであることが嬉しい。硬いトラックのスプリングの上に置かれた板の座席に腰かけて、長時間ジャングルの悪路を時速七十キロ、もうもうと土埃をあげて突っ走る。
載っている荷物?は一体どうなるか、想像してみて下さい。勿論メモなど到底取れません.瞬時でも手も離せば大変な事になります。ペンと手帳を手放さなかった私は頭と左足に怪我をしてしまいました。まさに命がけの乗車です。 でも兵隊さんの事を思えば::。
車と車がすれ違う時には全員が双方共に、みんな手を振り、大きな声で挨拶する。私たちに対しては、特に子どもたちは『ワァーイ、ワァーイ、ホワイトマン』と一斉に大声で甲高く叫ぶ。現地の人にすれば私たち日本人の肌が白いからであろうか。通行人もみんな親しげに挨拶してくださる。
なれてきた私たちも一斉に大声で手を振り『こんにちは!』と応える。実に和やかな光景だ。敵意など微塵も感じられないのが嬉しい。道路わきの奥地に通じる細い人道を、三・四人の子どもたちが、ホワイト・マンと叫びながら、手を振り振り一目散に車めがけて走ってくる。只われわれに挨拶したいがためにだそうだ。日本では全く見ることのできない光景である。
ふと考えてしまう。この地で本当に死闘があったのだろうか、この地の人たちに大変な苦難を与えてしまったのか?六十余年間の時間が消し去ってくれたのか?とさえ思われるのでありました。
沿道の見たこともない深く濃く暗いジャングル、動植物は正に自然そのものの熱帯動植物園です。鰐のいそうな沼地、いろんな種類の椰子も三、四種類は識別できるようになれました。ピンクと白の目も覚めるような來竹桃?の花、五感を刺激するものはすべて自然、人工物が全くないのがたまらなく良い。一時間程全速で走った。目的地と覚しきジャングル脇の背丈程ある草地に着く。
不思議なことに一部分の草がきれいに刈り取られています。近くにいる職員に尋ねれば、奥地のため私たち一行が、この地を訪れるという連絡はされてない とのことです。どのようにして、ここの人たちは知ったのであろうか、まだまだ人々は集って来ています。先に来た人たちが草を刈って、待っていてくださったようです。これは、今も私の謎であります。集っている沢山の人たち老いも若きも、女、子供、すべての人の表情や仕草にも、歓迎してくださってい るように、私には思えてなりません。特に印象的なのは子どもたちの澄んだ美しい輝く瞳です。すべての瞳は、満天の星のように満ち溢れています。わが日本では全く見られなくなってしまったというのに。
刈り取られている草地に、職員が中心となって持参した祭壇を設け、お供えの果物や花、飾り物を置き、日章旗や旭日旗を掲げて、この地で亡くなられたとされる遺族を先頭に、みんなでお参りをしました。諸々の感慨が交錯し胸にこみ上げてきます。亡くなられた方々は、どんな思いでこの様子を空から眺めておられることでしょう。汗とも涙とも思われるものが頬を伝って落ちる。
お年寄りや親、子、孫待っていてくださったすべての現地の人たちは、みん な真剣な表情で、物音一つ立てず、勿論私語など全くない静寂の中で、私たち のお参りの様子を見守っています。お参りしているときは、このようにするのが礼儀で当然のことであると言わんばかりにであります。誰に教わったのであろうか?昨今の平気で私語をしている日本人とは大部違うなあと思わざるを得ません。私は初日から、現地の人に多くのことを教わりました。
出してくださった椰子の果汁を、ストローで吸う味は格別でした。真心がこもっている分、旨さが倍加されているからに違いありません。お参りができてほんとうによかった!が私の最初の実感です。
ところでこの地、ブナは日本軍の先遣部隊が昭和十七年七月パサブアに敵前上陸し、ギルワ、ブナを占領してオーエンスタンレー山脈を越え、ポートモレスビー攻略に向かったのですが、イオリバイワ占領を境に、地獄の撤退が始まりました。戦記によれば、鉈で蔓を切り払いやっと人一人が通れる隙間を作って進む。地図もなく、頼るものは磁石のみ。何日も何日も歩く。巨木の根や倒木、そしてぬかるみばかりの変化のない難行軍の毎日でした。その間、美しい極楽鳥(世界の四十三種中三十八種がPNG原産)の白い羽や青ルリの美しい鳴声のみが唯一の慰めでした。夜昼間断のない砲爆撃に曝される中、草芭蕉の茎や根を切り喉を潤し、食べられるものを口に入れることのできた兵士のみが生き残れたのでした。そして、昭和十八年一月ブナ部隊は玉砕されたのであります。
私たち台湾友愛桜の会は世界一の親日国である台湾の人々と永遠の友愛を分かち合うべく、鳥山頭水庫(八田ダム)に平成十七年から陽光桜(愛媛県高岡正明、照海様父子の改良種)の植樹を行っていますが、この地へ来て改めて、PNG、台湾、日本との深いご縁を再認識することができました。岡倉天心先生が提唱された「アジアは一つ」は、正に欧米の植民地支配からの解放による自由を求めた、八紘一宇の大理想の精神に沿ったものの一環であり、その胎動であることを感ぜずにはいられません。中でも特筆すべきは、台湾山地出身の 高砂義勇隊員の方々の一視同仁の教えによる崇高な捨身と献身のすさまじい精神です。弾薬、食糧の担送中、五十キロの米を担いだまま、山中の湿地で米の下敷きとなって餓死していた白骨の隊員がいたことが報告されています。日本 兵に食べさせたい一心で命令を忠実に守った高砂義勇隊員でした。兄も悲惨な 死は遂げましたが義勇隊の方々や原住民の差入れなどにどれ程励まされ、助け られ勇気づけられたことでしょう。それを思うと、心に大いなる安らぎを覚えるのであります。
またここで、紙面をお借りし、九日間の巡拝中誠心誠意で、両国の懸け橋と して教養豊かな学識を駆使しての案内と的確な通訳をして下さった、PNGに在住の見形明美女史を紹介させていただきます。私が皆目知らない、分からないPNGのことを何とかおぼろげながら知ることができましたのは、彼女に負うところ多大であります。ありがたかったです。現在?歳、戦後生れの彼女は ここへ来るまで、この地で戦争が行われたこと、多くの日本兵が命を落とされたことなど全く知らなかったとのことです。極めて身近な、知っていなければ ならない出来事と言うのに、戦後の教育が如何に欠如しているかが窺われ、極めて残念であります。