兄の眠る国 10 山口周行
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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十四 カウプ決死の教育
英霊碑のある高台を出発すれば、昼間も暗いジャングルばかりです。何処が 何処なのか同じ所を走っているとしか思えません。尋ねれば東のほうに向かっているとのことです。一時間ほど走って午前十一時四十五分、車は止まりました。道脇の生い茂る草地に下車してみんなで草を踏み慣らし、平らにし始める と沢山の待っていてくださった現地の人たちが一緒になって草踏みをして下さいました。そこに生えている二本の木に紐を結び、日章旗を掲げて祭壇を設けパイナップル、マンゴ、バナナを供えこの地での対象遺族一人の後に続いて全員がお参りしました。
回りを取り囲んでいた人たちは申し合わせたように参拝中は沈黙を守って、私たちの挙動を遠巻きに観察していましたが、お参りがすむとホッとしたように近寄ってきました。と、その時落着いた物腰の、風格のある昔酋長?とおぼしき老人が他の人達より二・三歩前に進み出ました。私はそのすぐ前にいました。
静止すると同時に、黙って右手を水平に上げ、人差し指を指し示しました。 指先は道に停車しているトラックを指しています。何だろうと思っていると、厳かに沈痛な表情で話し始めました。すかさず通訳の見形さんが日本語で「あの停まっているトラックの道の下にも、日本の兵隊さんが眠っておられます」 と話されました。それから、「私はカエムシアンといいます。日本人の皆さんにお会いできたので、子どもの頃、マツモト先生に教えてもらった歌を歌います」と言って過ぎ去った時間を惜しむように、美しい日本語で正確に
夕焼け小焼けで 日が暮れて 山のお寺の 鐘が鳴る
おててつないで みなかえろう からすと一緒に 帰りましょう
が流れました。
凄いジャングルの中で、突然予想もしなかった心に深く染みる歌声です。私たち一行も現地の老若男女や子供たちも、すべての草も木も、みんなこの歌に耳を傾けました。マツモト先生といっても、兵士のみで教師は一人も来てはいません。先生は、この地の子供たちにどんな思いを託して、歌を教えられたのでありましょう。そして、その兵士たちも殆どなくなられたのです。おそらく日本の位置する方に向かって、愛する祖国を偲んで教えられたことでしょう。
三つ子の魂は、兵士らの歌声とともに成長してきていたのです。
二つ目は哀愁こもる船頭小唄でした。
おれは河原の 枯れすすき 同じお前も 枯れすすき
どうせ二人はこの世では 花の咲かない 枯れすすき
三つめの歌は当時流行していたと思われる酋長の娘でした。ひょうきんで、刹那的であるのが妙に心に響きます。
私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
三つの歌を、いずれも二小節まで、正確に歌ってくださいました。私もそうですがとても歌えません。覚えていません。知りません。言語もまったく違うこのPNGの奥地で、です。教えた人も習った人も真情がこもっているからに相違ありません。少くとも私にはそう思えました。
現在の日本人で、何人正確に歌うことのできる人がいるでしょうか。なんとも異様な感情におそわれました。恐らく、兵士たちは明日の命も知れない死闘の中のほんの暫しの時間を歌に託し、子供らに伝えた思いは如何ばかりかが察せられます。つい、ここでも長兄の面影が重なります。
歌い終えられたカエムシアンさんは、再び右手人指し指を前回とは違う、大きな谷を隔てた深いジャングルの方を指しています。何を話されるのだろうと、見形さんの通訳に聞き耳を立てました。
「私たちは学校がどういうものか、見たことも無ければ聞いたこともありませんでした。そこで何をするのか。勉強とはどんなことなのか?まったく分かりませんでした」ゆっくり間をとりながら話を続けられた。「そんなとき、日本の兵隊さんたちは死に物狂いの戦闘をしながら学校を作ってくださって勉強を教えてくださいました。
当時、あそこの学校で教わった八歳のマイケル・ソマレ少年が現在この国の首相です。しかも三期連続です」と話されました。
私は常日頃から、教育は命がけで自分の真実の思いを相手に誠心誠意で伝え、その人格形成に役立ててもらえるようにしていくことであると考えてきたので、このカウプのジャングルの死闘下で、真の教育が行われていたとは驚天動地でありました。柴田幸雄中尉の率いる船舶工兵第九連隊の将兵によって、真の教育が実践されていたことをカエムシアンさんによって教えられたのでした。
大東亜戦争は、「大東亜共栄圏の確立」が戦争目的であり、悲願でありました。この大目的を達成するための啓蒙を、死にもの狂いで実践したのは、将来の独立に備えた教育活動の一環だったのです。
住民への感謝から、子供たちに数計算や初歩の日本語、英語を教えつつ、植民地での過酷な白人支配からの解放と独立を篤く説いたのであります。この熱意や真心に応えた子供らがマイケル・ソマレ少年をはじめとするPNGの人たちだったのであります。長兄らの働きは脈々と生き、成長し続けていることを 実感することができました。
翻って、現在のわが祖国日本の教育の実情は如何でありましょうか?折角緒先輩が命を懸けて立派な教育のお手本を示しておいてくださっていたのに。戦後、六十余年もの永い間、何を次の人たちに伝えてきたのでしょう。なんと勿体ないことではありませんか。教育への思いがなければ伝わりません。伝えなければ教育をしたことにはなりません。国家百年の大計の礎である教育でのことであるだけに看過できません。私は残念でなりません。
伝えてこなかった結果が、かつては誇り高かりしわが国で、毎日のように起きている道徳心の低下から派生する社会現象であるといわざるを得ないのであります。中でも未来を担う少年を育む義務教育下での「いじめ」による自殺などはもっての外のことで、話になりません。今までに、何人の前途有為な犠牲者を出してきたのか、命懸けで教育にあたらなければ絶対になくなりません。 無念です。
その後マイケル・ソマレ氏らはPNGの独立運動に身を投じ、アジアでは遅い昭和五十年に独立を成し遂げ、ソマレ氏が初の首相に就任されたのでした。 ソマレ首相はキャプテン・シバタの教えによって独立できたと思っていたので、大使館を通じて、当時宇都宮へ奇跡的に生還されていた柴田幸雄氏を探し当て、昭和六十年、念願の再会を果たされたのでした。このことは日本ではほとんど知られていませんが、PNGの人々には広く知られていることであります。
極めて厳しい状況下での、なんと美しい日本とPNGの逸話ではありませんか。「教育」の規範である陰徳陽報をPNGの奥地のジャングルの中で、私はカエムシアンさんによって知ることができたのでありました。
立派な行為を大いに知ることによって自信を持って祖国に奉仕する精神こそが、日本の品格を高めていくのであります。そのような国には道徳心の荒廃はあり得ません。かつては世界屈指の道徳心篤き国であったわが国が過去のことになってしまっている日本であってはなりません。特にわが国の教育においておやであります。
何としても道徳立国の日本を取り戻さねば、ご先祖様や緒先輩に対し、申し訳ないと思うのは私一人ではないと思うのですが。
いろいろなことを考えさせてもらえたカウプでの巡拝でありました。
次に向かったのは、アリアパンでの慰霊でした。
途中道路はさらに急坂でひどいぬかるみの悪路のためスリップして、坂を越えることができません。ついに十三時三十五分、車はエンスト。全員で車を押して行きお参りができそうな草地で草を踏み、祭壇を設け国旗を掲げて急遽お参りしました。われわれ以外人っ子一人いません。ぼろぼろ落ちる汗を流した暑く悲しいお参りでした。
結局、これ以上奥地へは行けず、行ったとしても時間的に帰ることができなくなるとのことで、巡拝はできず、この日のお参りは終わりとなりました。