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兄の眠る国 9 山口周行

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通常 兄の眠る国 9 山口周行

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/6/21 17:17
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 十三 ウエワクで謝罪・感謝す

 十一月七日午前五時五十分、夢に見てきたウエワクの朝です。お休み中の同宿治部さんの横をそっと抜け出し、外にでる。部屋の前におかれた椅子に腰掛け、部屋からの風物を脳裏に焼き付けようとあたりを見渡す。ほんの五十歩も歩けば美しい砂浜、その先は海。ビスマーク海?の波が打ち寄せています。砂浜とホテルの間の通路脇には、大きなココナツやしが四・五メートル間隔で植えられている。

 ついつい波の音や風景に浸って、物思いにふけっていると、すぐ近くの花壇の手入れをしていた初老?の大柄な男の人が、持っていたスコップを置き、思いつめたように私に真っ直ぐ近づいてきました。怖いような雰囲気です。何事かととっさに居住いをただすと、身振り手振りで話しかけてこられました。「貴方は何処の国の人ですか。」「私は日本人です」と言ったら、 緊張が解けたような表情になり、「わたしはマーブリック・フェリックです。 私の父は日本兵をかばい、オーストラリア兵に頭を打ち抜かれて亡くなりました。」と話してくださった。私も「私の長兄は、このウエワクで亡くなりました」と言って、互いに手を取り合って暫し涙にくれました。

 とても印象深いウエワク、ウインドジャマービーチホテル初日の朝です。玄関前にいた十二・三人のこの地の人達も、みんな日本軍の事を良く知っていて、好意的であるのがとても嬉しいです。兄の亡くなったとされる地であるだけに:。

 午前八時半、ガードマン兼ガイド四人の護衛付きで出発です。先ず最初に訪れるのは、長兄戦没の地?ボイキン?洋展台?英霊碑です。明確な名称の説明はなく、さっぱり分かりませんが、胸が高まります。どんな地なのか心に祈り、夢にまで見続けてきたのですから、今からそこへ向かって行くのです。

 トラックがやっと通れる道路沿いには、アフリカン・チューリップが咲きみだれています。あの山もこの谷もみんな戦闘の跡でしょう。長兄の面影が浮かんでは消えていきます。車はものすごい振動で、字は全然かけません。書いても字になりません。ミネラルウォーターのボトルが床に落ち、走り回ります。

 私の尻も腰掛けに叩きつけられ、尻を浮かしていても痛いです。
 道行く人も、マルマルの木までもがみんな挨拶してくれます。挨拶を交わす道脇は想像を絶するジャングルばかりです。兵隊さんたちのご苦労が偲ばれます。

 周囲に気を取られ、時計を見る余裕もなく、時刻を見忘れていて、英霊碑につきました。碑はクホイ族の高い台地の屋敷内に建立されていました。美しく刈り揃えられた大きな葉っぱの芝生が敷き詰められ、その中に縦三メートル横十メートルくらいに仕切られた真中に、横書きの「英霊碑」と彫り刻まれた高さ一メートル横二メートル、厚さ一メートルくらいの大きな岩が置かれています。その周りに花崗岩の名板が岩を囲んでいます。名板には戦死者の氏名がぎっしり彫り刻まれています。残念ながら長兄の名はありませんでした。がっかりして碑の背面に回って目を移すと、はるかウエワク湾まで見渡すことのできる、素晴らしい眺望です。眼下に拡がる緑豊かなウエワクの平地?には部落がまばらに点在し、如何にも長閑な風景です。その向こうの海はビスマーク海でしょうか?その海に点在するのはアドミラルティー諸島の島々に違いありません。ムシュ島はその一つでしょう。

 このムシュ島は、降伏文書に調印後、生存兵士全員が集められた島です。その間にあっても栄養失調で亡くなる方が引きも切らず、公刊戦史によれば内地に帰還できた方は一万七十二名でした。陸軍中将安達二十三(あだちはたぞう)第十八軍司令官はあらゆる部下の今後の生活のために尽力され、自らも終身刑を受けながら、証言台にしばしば立たれました。ラバウルの地で全ての裁判が終わった昭和二十二年九月十日、それまで隠し持っていた錆びたナイフで自ら割腹自決されたのであります。

 厳格で細心、信と愛を貫かれて殉じられました。困難に当たっては率先して苦難に立ち向かわれ、部下からの篤い信頼のもとに、苦悩の日々を過ごしてこられたのです。

 上官に宛てられた遺書には「:小官の不敏能くその使命を完うし得ず:作戦三歳の間に十万に及ぶ青春有為なる陛下の赤子を喪ひ、而して其の大部は栄養失調に基因する戦病死なることに想到する時、御上に対し奉り何とお詫びの言葉も無之候。::疲労の極に達せる将兵に対し更に人として堪え得る限度を遥かに超越せる克艱敢闘を要求致候。之に対し黙黙之を遂行し力つきて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むる時君国のためとは申しながら其断腸の思いは唯神のみぞ知ると存じ候::。」

 正に上官の命令をひたむきに遵守して逝った長兄の姿と墓碑に刻んだ父の想いが目の当たりに髣髴としてくるのであります。悲惨な死を遂げた長兄も、こんな立派な将軍のもとで戦うことが出来たのは仕合せだったと思います。祖国の安寧秩序を願って良くぞ戦ってくださいました。

 安達中将は、補給もない中で三年余の飢餓と戦闘の苦しい戦いを一糸乱れぬ統制のもとに戦い抜かれました。私は現地で、こんな話も聞きました。部落民は転戦する日本軍の将兵を慕い、女子供まで協力してフールン山を越え、ヌンボク地区まで移住して終戦を迎えた。当時を知る老人は「アダチッグ コマンダーのもとで俺たちは安達将軍や軍司令官と一緒にヌンボク部落までついて行ったんだ」と。安達中将や兵士らのお人柄の一端を偲ぶことが出来ましょう。将軍は昭和十九年八月以降持久体勢を指令され、ウエワクで孤立無援の中にあって、自ら考案されたサゴヤシの幹からの澱粉採取、病人運搬、永住農園開拓などの方式により、悲惨で過酷極まりない戦闘を終戦まで持久されました。第十八軍の戦歴は日本陸軍史、否、世界の戦史の中にあって、際立った光彩を放っているのであります。安達中将は「愛の将軍」と称えられています。

 この地での遺族は二班十七名中最多の私を含め七名。それぞれ思い思いに持参した遺影や所縁の品々を英霊碑の前の台座にお供えしました。私は長兄が好物だった落花生二袋とトマト・ケチャップ一袋を供えました。生のトマトは前 述のように、残念ながらお供えできませんでした。

 碑の上には、誰が供えたのか半分ほど錆びて穴の開いた鉄兜。錆びた測定 儀?機関砲の薬きょうらしき?太さ三センチ高さ六センチくらいのもの、他二点がすでに置かれていました。石碑に日章旗を掲げ、各自一言ずつ思いを述べました。私は「大きい兄さん、なくなられた諸先輩申し訳ありませんでした。周行が親兄弟姉を代表して、やっとお参りにまいりました。お許しください。戦後の日本人は昏迷の度を深めています。諸先輩の尊き働きにも拘らず何とも申し上げる言葉がございません。お許しください。」とだけしか言えませんでした。悔恨と謝罪が涙となって滴り落ちました。悲しいおまいりです。本当は胸を張って、世界に冠たる精神復興を成し遂げた?日本の現状を報告したかったのですが::。お参りは出来たものの、胸は少しも晴れないのが残念でなりません。
 心残りを胸に秘め、次の慰霊地へ向かいました。

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