私の従軍記 飯塚 定次 12
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私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
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編集者
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間もなく輸送船で目の前をシンガポール沖の収容所へ集合する為に一万八千名が通り過ぎて行くのがみられる様になった。良かったナ、思ったより早くみんな帰れそうだナ、と一つの安堵が出来た。我が三十五旅団は北レンバン島へ、スマトラ第二師団は南レンバン島へ集合するという事が判った。変った事もなく一ケ月半が経って、十二月中旬田村部隊の下士官兵と我が司令部自動車隊の私を除く十名が原隊へ呼び戻された。私はこの時、空が一変して明るい太陽が満ち満ちているのを実感しました。これで心残りなく死んで行ける良かったと一度に神仏に感謝いたしました。こんな清々しさは久しぶりだと思った。
数日して輸送船を見送った。クリスマスに下さったプレゼントだった。Bキャンプは話相手は少なくなって来た。一月十二日朝呼び出されてこれから装備して中央へ出よといわれ、私と林中尉が呼び出された。林中尉は情報関係だ。二人が出たら英軍少尉が付添って日本の衛兵司令所へ行き私達二人は自軍司令部の出迎えた車で司令部へ戻った。この時日本軍へ引き渡されて、見た乾季の山野が一度にパツーと明るく輝いて曇っている空迄明るくなった事を今も眼に焼きついている。司令部へ戻り、田辺参謀の処で復帰報告をした処大変よろこんで下さり、近日北レンバンへ行く船が出るので明日積込みをするからと説明があり、食糧がなくて困っている状態と聞き今度も我々を食糧にするつもりかと思った。取りあえず船に乗せられるだけの食糧と車がないというのでサイドカー一日とトラック(米を満載して)一台を積込んだ処で英軍の司令官が臨検し、トラックは下ろせという事で船に積替えようとしたら時間がない直ぐせよといわれ悔しかったが米を積んだトラックをそのまま下ろして出航した。
北レンバンに到着したら港らしいものもなし、道路も歩行路という処、トラックを持って来ても走る道がなかった。サイドカーはどうやら行けそうという事。この島は粘土質で水もない、草も生えない、ビンロージュだけが海岸から岡へかけてあるだけ。司令部に到着したら仮小屋。私達の居室なんて気の利いたものはない。海岸に生えていたカヤを刈って来て頭の方半身が入る岡の斜面に造ったとにかく雨露を凌ぐだけの野営に入った。到着して甲副官に復帰の報告をした処「早速だが、みる通り草も生えない荒地で陸海軍併せて二万人の自活生活が始まった処だ。飯塚軍曹は早速ご苦労だが栗原中尉(記憶が不確実)と二人で全軍自活の開拓計画をたて、既に各部隊に命令が出ているから具体的な指示を出してほしい。」 と新任務が下された。当時司令部百八十名ほどで一食の米が一升(一、八リットル)透明なお湯の様で米粒一つなかった。これは英印軍の作戦で我々を餓死させるつもりだろうと思って居たが経理部の某責任者の言質で判った事は、何としても生命の維持策として半分を山に秘密の壕を掘り日々造り出した米を厳重な管理で確保していることが判ったが、もしこの事実が聯合軍に知られたら、担当者は即刻処刑されるだろうという事だった。