私の従軍記 飯塚 定次 14(最終回)
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編集者
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余談ですがその後彼は神戸の系列の会社の社長になられたが二十年程前に他界された。
一度麻布の御宅を訪ねた事があり、今その頃をなつかしく思い出している。昔司令部にいた数百人の内、今、賀状を書いている人は十名に満たない。皆お話出来ない処へ行かれてしまった。
私のBキャンプでの責任を背負って行かれた司令官も田沢中佐(参謀)も私達が帰国前にシンガポールのチャンギー刑務所で処刑せられて果てられました。当時チャンギーで教戒師を勤めていらっしゃった池上本門寺の門跡が関係者の拠金を基に大東亜戦争に依りチヤンギー刑務所で処刑された方々百六十数名の御霊を祀る慰霊碑を昭和二十八年、本門寺の御寺の境内に建立し、毎年四月第二日曜日に慰霊祭を行って来ました。陸海空、及び関係者の霊を祀る主祭者が高齢になり合同慰霊癖は平成二十五年を以て一応止め爾後(じご)は各縁者に依って行う事にした。情況の許す限り参詣する事に私の心の中では決めております。
最後に申上げたい願いがあります。これ迄申し上げて来ました様に世界中の人間が己の利益だけを考えて行動したら必ず衝突が生じます。今回の世界大戦も日本の国力の急激な進展を恐れた国々が協議をして日本へ油を売らないことを協議し、同盟を結び、これを強行し、軍備も陸海軍の戦力を限定して来た事に端を発している事です。日本も一緒になって協力体制を作る立場に入っていれば、当然戦争はしていません。それでもきっと難題を出して来る事もあるでしょう。それを解決する道は政治力です。この政治力を高め相手に納得せしめる理論話法を磨き上げて行く事を政治の衝に当たる人は身につけなくてはなりません。自分だけ満足な豊かな生活を相手の犠牲の上で押し通そうとしても万人が反対すれば成立しません。共存共栄の道を求め、その道を造り出した人には万人が感謝とその人の幸福を認めましょう。
東日本大震災で時の総理大臣が原子炉の冷却装置が停電で停止したらあの大事故を引き起すことを知らなかった。アメリカから援助の電話を戴いたのにお断りした。この一人の政治力の無知。あらゆる面で大惨事を引き起したとなります。その他の原発の設備はどこも事故を起していないでしょう。皆さんが冷静なお立場で実情を確認して下さい。今の総理は理論と現状が安全ならばと断りの上で膨大な原油の輸入で国の財政を苦しめている事の如何に無駄かという事がお判りになるでしょう。又大事故を起す事を承知で仕出かす様な心配は必要ないのではないでしょう。二代に亘って外交と事故でこんなに苦しい思いをさせた張本人はのうのうと涼しい顔でテレビに出ています。私達の政治感覚をもっと磨いて行かないと日本の真の安心は育たないのではないでしょうか。
英智を結集して原爆を排し新しい熱源を開発すること。
後記
今から八十余年以前の事件を問われるままに朧な記憶を拾い集めて書きましたもので 勘違いもあると思いますが九十五才の老兵の夢と御寛恕下さい。子々孫々に絶対に戦争をさせてはならないという私の情念をお汲取り戴ければ本懐です。
平成二十五年七月
ー完ー